「震災に対して思うことは毎年、そこまで大きくは変わらない。今までと同じように思っています」
「大人になるにつれ、地元の存在がより特別なものになっています」
節目の日、ドジャース・佐々木朗希選手(24)は報道陣に胸中を明かした。
3月、キャンプ取材でアメリカを訪れた元ロッテ監督の井口資仁さん(51)が語る。
「数年間、固まっていなかったフォームがようやく安定してきたと話していました。1年間ローテーションを守ってほしいですね。取材後、一緒に食事したときも、アルコールも口にせず、ずっと野球の話をしていました。日本にいたころから目標を決めたら、妥協せずに取り組む真面目な選手です」
小泉純一郎が第87代内閣総理大臣に就任し、イチローがメジャーリーグでMVPを獲得した2001年、朗希は佐々木家3兄弟の次男として、岩手県の陸前高田市に生まれた。
一家と親交の深い、元陸前高田市長の戸羽太さん(61)が話す。
「朗希くんの祖父・功さん、祖母・勝子さんは友達の多い人でね。近所の人が家の前を通りかかると、1階の応接間に招かれて、お茶を飲んで話していく。分け隔てなく、どんな人とも仲よくする方たちでした。選挙中に立ち寄ったら、(市長選の)対立候補が座っていましたよ(笑)。その3階で、朗希くん一家も暮らしていました」
父・功太さん、母・陽子さんは男の子3人を伸び伸びと育てた。
「『何でもやってみろ』という親御さんで、『やめなさい』という言葉はほぼ聞かなかったですね。功太くんは、朗希くんと家の前でよくキャッチボールをしていました。『朗希は必ずプロ野球選手になるよ』と言ってましたよ。2人は顔も体形もそっくりでした」
そんな幸せな家庭は、突然の津波によって崩されてしまった。
■「お母さんは育ち盛りの息子3人を抱えて、本当に大変だったと思います」
「震災の前日、功太くんと友達と3人で、海の近くの焼き肉屋さんに行ったんですよ、そのとき、功太くんが『この場所は津波が来たら、一発でアウトだな。怖いですね』とボソッとつぶやいた。あれは忘れられません……」(戸羽さん)
悲劇の震災から5日後、父が発見された。「見つかりました」という一報を聞き、朗希は安堵の表情を浮かべた。だが、すぐに事態を把握した。1週間前まで元気いっぱいだった父が突然、この世から消えてしまった。震災で妻を亡くしている戸羽さんが胸中を慮る。
「朗希くんの祖母の勝子さんは功太くんが見つかった翌日に発見され、祖父の功さんは今も行方不明だと聞いています。何の前触れもなく、家族を失った悲しみは言葉では表現できません。小学生の彼はなおさらつらかったと思います」
朗希を取り巻く環境は一変し、3年間も仮設住宅で暮らした。大船渡高校で同級生だったオープンハウス・ディベロップメントに勤める柴田貴広さん(25)は、震災の前月に父親をがんで亡くしており、佐々木家の苦悩に共感できるという。
「震災のとき朗希が小3、兄が小6、弟が幼稚園ですよね。お母さんは育ち盛りの息子3人を抱えて、本当に大変だったと思います。仕事を掛け持ちして、土日は試合の応援に行って、本当に寝る暇もなかったんじゃないですか」
母の苦労を感じていた朗希少年は、わずかなお小遣いからプレゼント代を捻出した。小4のときには母の日にハンカチをそっと渡し、中学に入学して家が新築されるとロールケーキを買ってきた。
「功太くんも心の優しい人でしたから、朗希くんも似たんでしょうね」(戸羽さん)
中学時代から岩手に名をとどろかせていた朗希は複数の名門校から誘いを受けながら、公立の大船渡高校に一般受験で進学した。のちに、理由を明かしている。
《花巻東のような強豪校に行った場合、大谷(翔平)さんの前例もありますし、こういう成長曲線を描いていくんだろうなという将来像が想像できた。そのレールをなぞって粛々と実現させる“作業”になっちゃうような気がして……でも、大船渡に行った場合、イメージが全然つかなかったので、そこが面白いなと》(『週刊文春』’25年2月20日号)
朗希の考え方は、普通の15歳とは異なっていた。
「人見知りするタイプではあるのですが、違う中学出身の部員も自分から食事に誘って、すぐにリーダー役になりました。1年生が掃除するときも、朗希が率先して割り振りを決めていました。彼のおかげで、同級生のまとまりがよかったです」(柴田さん)
ヤンチャな一面もあった。
「いたずら好きでしたね。当時、僕には仲よくなりたい女のコがいました。ある日、自分のロッカーを開けると、そのコの写真が張ってあるんですよ。朗希のしわざでした(笑)。そのコに『柴田が話したがってるよ』と言って、僕に『お前、話しかけてこいよ!』と仕向けるときもありました」(柴田さん)
野球に関しては真面目そのものだった。向上心の強い彼はトレーニング方法の勉強も重ね、選手兼投手コーチの役割を果たしていた。
「冬場の練習メニューも作っていたし、僕らの気が抜けていると『今のままじゃ甲子園行けないよ!』と尻をたたいてくれた。よき友達であり、よき指導者でした。
高校3年の4月、高校日本代表の紅白戦で球速163キロをマーク。大谷の持つ高校最速記録を上回った「令和の怪物」はその夏、高校最後の岩手県大会に臨んだ。
ノーシードの大船渡高は10日間で6試合を戦う過密日程で、朗希は準決勝まで4試合に登板。連投となる決勝も登板が予想されたが、先発のマウンドにはサイドスローの柴田さんが上がった。
「正直、自分が投げるとは思わなかった。最少失点に抑えようと必死に投げたけど、気がついたら点を取られている状態でした」
柴田さんは6回9失点で降板。大船渡は甲子園出場を逃した。なぜ、朗希に投げさせないのか──。学校には2日間で250件を超える電話が殺到し、國保陽平監督(当時)の起用法に批判が渦巻いた。
「同級生の間で、あの日のことは話したことないですね。でも、朗希を悪く思うヤツはいないですよ。朗希がいたから決勝まで行けたし、みんなに慕われていましたから」
■「目標から逆算して毎日を過ごしている高校生に初めて会いました」
この騒動で朗希の名は全国に知れ渡った。’19年秋のドラフトでは、1位指名で4球団が競合。ロッテの井口監督(当時)がくじを引き当てた。後日、指名挨拶に向かうと、朗希は「開幕で投げるためにはどうすればいいですか。トレーニングメニューをください」と話した。
「驚きました。目標から逆算して、毎日を過ごしているのだなと。そんな高校生には初めて会いましたし、意識の高さを感じました」(井口さん)
ロッテで捕手としてボールを受けた吉田裕太さん(34)が語る。
「そのオフ、アメリカに自主トレに行ったら、スポーツジムで向こうのマイナーの選手から『佐々木朗希がロッテに入るんだろ?』と聞かれました。海を越えて知られているんだと驚きました」
翌年1月、選手寮に入寮する際、朗希はチームメイトの寄せ書きの入ったユニホームを持参。
「本当にうれしかったです。そういうヤツなんですよ」(柴田さん)
優しい一面を持つ高校生は、実力でも群を抜いていた。春季キャンプで初めてブルペンに入ると、大勢の先輩が見学にやってきた。
「あんなボールは見たことなかった。ピストルみたいな速さでした。投げたら『パンッ!』ってすぐ届くイメージです。(打者として対戦した)大谷翔平の真っすぐよりも、速く感じました」(吉田さん)
高校3年生のボールに圧倒されたプロの猛者たちは「これだけ毎日走って、毎日投げ込んでも、18歳のコに軽く抜かれた。もうピッチャーやめていいですか?」などと冗談まじりに嘆いたという。
だが、1年目の朗希は右ヒジの故障もあり、登板なし。一軍に帯同しながら、練習だけに励んでいた。毎日、間近で接していたトレーニングコーチの菊地大祐さん(46)が話す。
「彼は思いっきり投げたら、肩やヒジが壊れるかもしれない感覚を持っていました。だから、その出力に耐えられるだけの体づくりをする必要がありました」
ほかの選手が試合に合わせ調整するなか地道な日々を送っていた。
「二軍の若手と同じメニューをしていました。たとえば、横にいる一軍選手がダッシュ10本なら、彼は20本走っていました」(菊地さん)
成長期の子どもにある骨端線がまだ残っていたため、球団はウエートトレーニングをさせず、投げ込みも禁じた。
「走って心肺機能を高めたり、腹筋や背筋など体幹を鍛えたり、基本トレーニングを徹底的にしていました。毎日、たった一人で同じことを繰り返す。しんどかったと思います」(菊地さん)
いちばん年下の朗希は積極的に雑務をこなした。
「みんなより早くグラウンドに来て、ドリンクなどの準備をしていましたね。トレーニングが終われば、率先して器具を片付けますし、試合後は荷物をまとめる。若手の当たり前の仕事ではあるのですが、しっかりやってました」(菊地さん)
18歳の少年は、頼れる大人に本音をもらすときもあった。
朗希「早く投げたいです」
菊地「気持ちはわかる。でも、長い目で見て、今できることをしっかりやろう」
朗希「やっぱ、そうですよね」
「すごく賢い選手なので、すぐ冷静になりました。毎月1回、筋肉量やジャンプ力などのデータを測るのですが、1年後の目標数値を3カ月でクリアしていました。彼には『メジャーで一番のピッチャーになりたい』という夢があった。そのために、今すべきことを考えられる選手なんです」(菊地さん)
チームのなかで、朗希はどんな存在だったのか。吉田さんが話す。
「1年目はみんな気を使っていたし、触れづらい空気があったんですよ。でも、2年目の途中からは普通になじんでましたね。『彼女いんの?』とプライベートの質問もされてました。そのときは、『いません』と答えてましたよ」
野球に真剣に取り組む一方、天然ぶりも発揮していた。
「試合前のロッカールームは緊張感にあふれているし、先発投手は特にピリピリしています。そんな張り詰めた空気のなか、朗希は電動歯ブラシで歯を磨きながら、チョロチョロ歩いていたそうです(笑)。(先輩投手の)唐川(侑己)さんが『俺、怒ったわ』と言ってました。
ふだんは、すごくいいコですけどね。遠征から新幹線で東京駅に戻ってくると、寮生はバスで一緒に帰ります。でも、朗希は『タクシー乗ったらダメですか?』と普通に言ってました(笑)。まあ、ピッチャーはちょっと変わったタイプのほうがいいんですよ」(吉田さん)
2年目の’21年5月、朗希は甲子園での阪神戦でプロ初勝利を挙げる。ヒーローインタビューでウイニングボールをどうするか聞かれると、「両親に渡したいと思います」とサラッと口にした。母の陽子さんは感涙した。
《うれしくて、号泣しました。私だけではなくて両親にと言ってくれたのが、本当にうれしかったです。援護をしてくれた先輩方に感謝です》(「スポニチアネックス」’21年5月27日配信)
あの日から10年たっても、朗希の心の中には父・功太さんが生きていた。
「ふだんから父のことを考えていないと、すぐに“両親”なんて出てこないですよ。親思いのコなんです。(理不尽な父の死に)納得できない気持ちを今も抱いているでしょうし、仕事は違ってもお父さんの分まで頑張ろうと心の中で誓っているはずです」(戸羽さん)
(取材:長冨俊和、岡野誠/文:岡野誠)
【後編】「“3年後でいいだろ”と気軽に言えない」佐々木朗希 ロッテのトレーニングコーチが明かす「メジャー挑戦が早かった理由」へ続く
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