近世イングランドにおいて、帽子を脱ぐのを拒む行為は政治的な反抗や個人の誇りを示す命がけの意思表示だった。
17世紀前後のイギリスの人々にとって、帽子は単なる装飾品ではなく、権力への屈服を拒むための道具であり、尊厳を示すものであり、体の一部だったのだ。
ウォリック大学の研究チームは、法廷や強盗事件の記録から、現代とは全く異なる当時の帽子文化の実態を明らかにした。
この研究成果は『The Historical Journal[https://www.cambridge.org/core/journals/historical-journal/article/cultural-social-and-ideological-role-of-the-hat-in-early-modern-england/BE4E11BFE7F8CCF5A5A7081869710925]』(2026年4月10日付)に掲載された。
外出時に帽子を被るのはまともな人物の証だった
16世紀から18世紀の近世イングランドでは、公共の場で帽子を被ることは男女を問わず、公然のルールであった。
当時の社会では、帽子を被らずに屋外を歩くことは「正気ではない」か「極端に貧しい」ことを世間に示しているようなものだった。
女性は、室内では布製の被り物を使い、外出時にはその上に帽子を重ねるのが当時のエチケットであった。
帽子を被らないまま人前に出ることは、現代の感覚でいえば、服を着ないで外に出るのと同様の恥ずかしいことだったのだ。
このように帽子を常に被っていることが社会の前提であったため、目上の人物に対してのみ帽子を取って敬意を示す「ハット・オナー(Hat-honour)」という作法は、社会の上下関係を維持するための厳格な掟となっていた。
帽子を脱がないことで権力への反抗を示していた
17世紀に入り、国王軍と議会軍が武力で衝突する「イングランド内戦(1642年~1651年)」が起きると、この帽子を取る作法は、単なる挨拶を超えて相手の権威を認めるかどうかの指標となった。
あえて帽子を脱がないという行為が、既存の秩序に対する強力な反抗の武器へと変わったのである。
英ウォリック大学のバーナード・キャップ名誉教授の調査によれば、この時代に信念を貫くために帽子を被り続けた人々がいるという。
例えば1646年、身分の平等を訴えて投獄されていた政治グループ「平等派(レベラーズ)[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%AD%89%E6%B4%BE]」のリーダー、ジョン・リルバーンは、貴族院への出頭を命じられた際、帽子を被ったまま出席し、自分を裁く起訴状が読み上げられている間は、拒絶の意思を示すために両耳を指でふさいだのである。
また、1649年には土地の共有を求めた「真正水平派(ディガーズ)[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E6%AD%A3%E6%B0%B4%E5%B9%B3%E6%B4%BE]」のリーダーたちも、軍の司令官の前に連行された際、帽子を取ることを拒絶した。
彼らは司令官に対し「あんたたちは、俺たちと同じ人間にすぎない」と言い放ったという。
同年に処刑された国王チャールズ1世も、自分を裁く法廷の正当性を認めない意思表示として、最後まで帽子を脱がなかった。
このように、帽子を脱ぐことを拒む動作は、自らの誇りと政治的な立場を社会に突きつけるための抵抗手段だったのである。
帽子の威力は一般家庭にも及んでいた
帽子の持つ影響力は、国家レベルの政治だけでなく、一般家庭のしつけにも利用されていた。
キャップ教授が発見した1659年の日記には、19歳のトーマス・エルウッドという青年と、その父親との間で起きた「帽子没収事件」が生々しく記されている。
トーマスは、誰に対しても帽子を取らないことを信念とする宗教団体「クエーカー(Quakers)」に傾倒し、父親の制止を無視して集会に通い続けていた。
クエーカー教は17世紀にイングランドで発生したキリスト教プロテスタントの一派、キリスト友会のことで、全人類に宿る「内なる光(神性)」を重視し、絶対平和主義、平等、誠実を掲げていた。
クエーカー教では、王や貴族であっても、特定の人間に対して帽子を脱いで敬意を示すことを拒否していた。
この「徹底した平等主義」は、階級社会であった当時のイングランドでは激しい反発を招いた。
力ずくで息子を止められなかった父親は、最終手段としてトーマスの持っているすべての帽子を隠して没収した。
当時の社会常識では、帽子なしで外出することは耐えがたい恥辱であった。
そのため、トーマスは帽子がないという理由だけで、数ヶ月もの間、自ら家に閉じこもらざるを得なくなった。
帽子は当時の人々にとって、外出を左右する「社会的な顔」でもあったのだ。
18世紀に入ると帽子は健康と尊厳を守るための体の一部に
18世紀に入ると、帽子の役割は政治的な象徴から、健康と尊厳を守るための「体の一部」のような役割へと変化した。
当時の男性は、カツラを被るために頭を剃っていることが多く、医学的にも「頭を冷やすと深刻な病気になる」と本気で信じられていたのだ。
そのため帽子を脱がされることは、体の一部をはぎ取られるような感覚だったのだろう。
キャップ教授がロンドンの裁判所「オールド・ベイリー」の強盗事件の記録を分析したところ、街道で旅人を襲う「追い剥ぎ」に遭遇した被害者が、現金を差し出す代わりに帽子の返還を必死に頼み込んだ実態が明らかになった。
1718年の事件では、現在の価値で数十万円にあたる現金を奪われた男性が、強盗に向かって「帽子を奪って裸頭で帰らせないでくれ」と懇願し、泥棒がそれに応じて帽子を返した記録がある。
1733年にウェストミンスターで銃を突きつけられ、金品を奪われる強盗被害に遭ったフランシス・ピーターズ氏も、現金や時計を渡した一方で、帽子とカツラまで奪われたことには激しく抗議した。
ピーターズ氏は「金品以外のものを取るなんておかしい。健康を害するではないか」と訴えた。
彼は後に監獄で犯人と再会した際にも、この「不当な仕打ち」について改めて厳しく問い詰め、最終的に犯人に謝罪させている。
帽子はまさに、健康を守るための盾だったのである。
社会の変化とともに帽子を脱ぐ厳しい習慣は失われた
かつては命やプライドをかけて守られたイングランドの帽子文化は、18世紀の終わりに徐々に姿を消していった。
キャップ教授は、この変化には複数の原因が重なっていると分析している。
大きな理由の一つは、18世紀に大流行した新たなカツラの存在だ。
カツラが巨大で複雑な形になったことで、その上から帽子を被ったり、挨拶のたびに何度も取ったりする動作が物理的に難しくなり、マナーが簡略化されていったと予想される。
また、都市の人口が増え、道で知り合いに会うたびに帽子を取ることがあまりにも面倒な手間になったことも、習慣を廃れさせる要因の一つになったと考えられる。
帽子に変わる挨拶として握手が普及
一方で、帽子を脱ぐ作法に代わる新しい挨拶として広まったのが「握手」であった。
もともと武器を持っていないことを示す習慣だった握手だが、クエーカー教徒たちが、相手を敬うと同時に、自分たちとも対等に接するための民主的な挨拶として普及させていった。
現在では、ファッションや日よけ、防寒に利用されている帽子だが、近世のイギリスでは、かなり重要な意味を持つアイテムだったのだ。
References: Cambridge[https://www.cambridge.org/core/journals/historical-journal/article/cultural-social-and-ideological-role-of-the-hat-in-early-modern-england/BE4E11BFE7F8CCF5A5A7081869710925] / Hat wars of early modern England revealed[https://www.eurekalert.org/news-releases/1122627]











