はじめに──象徴という名の「神聖なテキスト」

国旗とは、いったい何だろうか。

突き詰めれば、それは染料の沁み込んだ一枚の布である。

物理的にはせいぜい数百グラム、面積にして数平方メートル。素材を分解すれば綿か化繊か、染料か蛍光顔料か、それだけのものでしかない。にもかかわらず、人類はこの布のために命を捧げ、戦地で死に、敵地で奪い合い、そして時に──その布を燃やしたという理由だけで、終身刑に処されてきた。

国家元首もまた、生物学的には我々と変わらぬひとりの人間である。だが、その人物への侮辱的発言ひとつで、ある国では十五年以上の懲役が課される。国歌は、楽典的に言えば旋律と歌詞の組み合わせにすぎない。だがその歌詞を改変して歌っただけで、別の国では政治的権利を剥奪される。

物理的実体と、その実体が担う「意味」との間に横たわるこの巨大な落差こそが、本稿の出発点である。

このパラドックスを最も鋭利に分析してきたのが、社会学・宗教学・人類学の伝統である。クリフォード・ギアツ、ミルチャ・エリアーデ、ピエール・ブルデュー──彼らはいずれも、十字架、三日月、ダビデの星、法輪、そして近代国民国家の国旗が、世俗化された現代社会においてもなお「神聖なテキスト」として作動し続けることを指摘してきた。象徴とは、政治的権威を神聖化し、集合的記憶を符号化し、歴史的神話と近代の国民的アイデンティティを媒介する装置である。それは「想像の共同体」を可視化し、市民の身体感覚に内面化させるための、社会的に磨き上げられた道具なのだ。

象徴がそれほどまでに強大な求心力を持つからこそ、国家は──物理的にせよ言語的にせよ──象徴に向けられた攻撃を、決して放置できない。国家がそれをどう扱うかは、その国の憲法体制、表現の自由の許容範囲、そして国家統合の基盤となるイデオロギーを、これ以上ないほど鮮明に映し出す鏡となる。

国旗損壊(Flag desecration)とは、公の場で意図的に国旗を破壊、損傷、汚損、切断する行為を指す。多くの場合、それは国家そのものや特定の政府の政策に対する政治的異議申し立て──象徴的表現──として実行される。これに対する各国の法的アプローチを巨視的に俯瞰すると、世界は二つの陣営に明確に分かれていることに気づく。

一方には、国旗や国歌の損壊を国家の存立に対する直接的な脅威、あるいは公の秩序を乱す行為とみなし、刑法や特別法を通じて厳格な刑事罰を科す法域がある。他方には、国旗の焼却や象徴の侮辱を「象徴的言論(Symbolic speech)」と位置づけ、民主主義社会における不可侵の表現の自由として保護する法域が存在する。

本稿は、米国議会図書館(Library of Congress)の調査報告、各国の刑法典、欧州人権裁判所の判例、世界価値観調査(World Values Survey)やピュー・リサーチ・センターをはじめとする社会学的・統計的エビデンスを総合的に分析する。そして、「海外において国旗や国家的象徴がいかなる社会的認識の下にあるのか」という素朴な問いに、できるかぎりエビデンスに基づいた回答を提示することを目指す。

布、歌、人間。三つのいずれもが、ただの物質や旋律や個体を超えて、「国家そのもの」へと変換される瞬間がある。その変換の論理と、その変換に対する抵抗の論理を、これから順を追って解きほぐしていこう。

一 国旗損壊を罰する国、罰しない国──法のスペクトラム

米国議会図書館の調査報告と各種法的データベースを突き合わせると、国旗損壊を明示的に犯罪化している国は、調査対象となった約四十カ国のうち相当数に上る。アルゼンチン、チリ、中国、キューバ、エジプト、フランス、ドイツ、ギリシャ、ハイチ、インド、イラク、イスラエル、クウェート、リビア、メキシコ、ニュージーランド、ニカラグア、フィリピン、ロシア連邦、スペイン、スーダン、スイス、シリア、台湾──地理的にも体制的にもこれほど多様な国家群が、国旗を法的保護の対象としている。

ところが、その罰則の重さには驚くべきグラデーションがある。

最も極端なのはハイチの法制度だろう。同国の一九二九年制定法は、国旗損壊に対して「終身の強制労働(Lifetime forced labor)」を科すと定めている。文字通り、一枚の布を破ったために、人は人生のすべてを国家に労働として差し出すことになる。本稿が調査した法域のなかで、これほど極端な厳罰規定は他にない。

チリは戦時と平時で罰則を使い分ける。戦時下では最高二十年、最低でも五年の禁錮刑。平時でも最高五年の禁錮が科される。国家の非常事態にあっては、象徴への攻撃が「内部からの利敵行為」と同列に扱われるのである。

東南アジアではマレーシアが五年から十五年の拘禁刑を定め、インドネシアは最高十年の拘禁刑に加えて、最高十億ルピアという極めて高額な罰金規定を併記する。

イラクも最高十年の拘禁刑を国家主権に対する罪として位置づけ、ニカラグアは最高五年の拘禁刑および罰金に加えて、外国人の場合は刑期満了後の国外追放処分を組み合わせる。

ヨーロッパに目を転じれば、ドイツが最高五年の拘禁刑、ロシアが最高四年の拘禁刑を定める。ロシアでは一九九六年と二〇〇三年に起訴例はあるものの、実際に公判に移行するケースは稀だという。モロッコは六カ月から三年の拘禁刑に一万から十万MAD(モロッコ・ディルハム)の罰金を併科し、公然と実行された場合は一年から五年へと刑期が加重される。

香港の規制は、中国の国旗法制に準拠する形で最高三年の拘禁刑と最高五万香港ドルの罰金を定める。この法体系が後に民主化運動への抑圧装置として機能することになるのは、後で詳述する通りである。

リトアニア刑法は自国国旗(第百二十七条)に加えて、EU旗等の外国象徴(第百二十八条)にも保護を及ぼし、最高二年の拘禁刑、または制限・逮捕・罰金を定める。メキシコは六カ月から二年の拘禁刑。スペインの罰金刑は調査対象国中で最高水準にあり、最高約十三万三千二百米ドルにのぼる。スイスは最低三日の拘禁または最高三万千五百米ドルの罰金を科すが、ここで興味深いのは、保護の対象が「スイス当局によって公式に掲揚された国旗のみ」に限定されている点だ。私有の国旗を燃やしても、スイス法上は処罰対象とならない。象徴を保護しているのは、あくまで「国家自身が掲げた象徴」なのである。

中国は刑法と国旗法によって、十五日の行政拘留から最高三年の拘禁刑まで弾力的に対応する。

これらの法律が共通して持つ特徴は、保護の対象が「布」そのものではなく、「国家の尊厳」や「公共の秩序(Public order)」という抽象的な法益にある点だ。民主主義国家における国旗焼却禁止法の多くは、国旗が燃やされる行為そのものよりも、その行為が引き起こしうる民族的緊張、暴動、治安悪化を危惧して制定されている。象徴は、破壊されると同時に「平穏」をも破壊するというロジックだ。

このロジックを明示的に採用した判例として、一九九七年のオーストラリア北部準州最高裁判所による外国国旗焼却事件がある。同裁判所は当該行為について、「平和を乱す可能性が高い(likely to disturb the peace)」十分な重大性を有していると判断し、有罪判決を維持した。象徴を破壊する行為は、それ自体が違法なのではなく、社会の安定を脅かすからこそ違法なのだ──というこの論理は、象徴保護の正当化論として極めて重要な役割を果たしている。

国旗の取り扱いに対し、極めて厳格な儀礼的要件を課す国もある。ナイジェリアの法律は、国旗への直接的損壊行為を罰するのみならず、色褪せたり破れたりした国旗を「掲揚し続けること(displaying of defaced or tattered flags)」自体を犯罪としている。象徴は無傷で完全な状態でのみ公の場に存在を許されるべきだという、神聖性の儀礼的強制である。

他方、国旗損壊を犯罪としていない、あるいは明確に表現の自由として保護している国も存在する。アメリカ合衆国、オーストラリア、カナダ、イギリス、オランダ、ブラジル──英米法(コモン・ロー)の伝統を持つ多くの国々である。

これらの国々には「法律によって明示的に禁止されていないものは合法である(Everything which is not forbidden is allowed)」という基本原則が深く根付いており、国旗損壊に関する特別法が存在しない限り、行為自体は合法とみなされる傾向が強い。

特に異彩を放つのがオランダである。同国は国旗損壊禁止法を持たないだけでなく、治安妨害等の他のいかなる法律の下でも国旗損壊を犯罪化していない。文字通り、自国国旗をどう扱おうと国家は介入しないという、世界でも稀有な徹底ぶりだ。

デンマークは独特のひねりを加えている。国内法は外国国旗の損壊を禁じる一方で、自国国旗(ダンネブロ)の損壊は合法化している。「他者の象徴は尊重するが、自分の象徴は市民に解放する」というこの設計思想は、後述する日本の制度とは正反対のベクトルを示しており、興味深い対比となる。

ただし、国旗損壊罪という特定の罪名が存在しないからといって、行為が完全に処罰を免れるわけではない点には注意が要る。カナダでは国旗を燃やす行為自体は合法だが、他人の所有する国旗を燃やせば「器物損壊(Mischief)」として有罪となる。オーストラリアやスウェーデンでは、公共の場での国旗焼却が「治安妨害(Disorderly conduct)」として処罰されうる。ブラジルでは国旗損壊を一般市民の犯罪とはしないものの、軍刑法(Military Criminal Code)が軍人による国旗損壊を「国家安全保障に対する罪」として厳しく処罰する。

象徴を直接保護するのか、それとも所有権や公共秩序という別の法益を経由して間接的に保護するのか──各国の法体系は、この二つの経路をさまざまな配合で組み合わせている。

そして両者の境界線こそが、その国の民主主義観を浮き彫りにするのである。

国家的象徴の法と社会──国旗損壊罪、不敬罪、そして象徴的言論...の画像はこちら >>
世界の国旗損壊法制──厳罰国と表現の自由を擁護する国二 アメリカという特異点──表現の自由の絶対視

国旗という象徴と表現の自由が、歴史上最も先鋭的に衝突してきたのがアメリカ合衆国である。米国における国旗損壊を巡る法的議論は、「民主主義社会はどこまで異端の言論を許容できるか」という根源的な問いを内包しており、その判例は他国の象徴法制を考えるうえでも避けて通れない参照点となっている。

ことの発端は、ベトナム戦争期にさかのぼる。

一九六〇年代後半、反戦運動の高揚とともに、抗議の意思表示として星条旗を焼く光景がアメリカ各地で頻発した。連邦議会はこれに対抗し、一九六八年に「国旗保護法(Federal Flag Protection Act)」を制定する。州レベルでも全米五十州のうち四十八州が、国旗損壊を禁じる州法を整備した。表面的には、国旗に対する法的保護はかつてないほど厚く張り巡らされたかに見えた。

この法的潮流に楔を打ち込んだのが、最高裁判所による画期的な二つの判決である。

一九八四年、グレゴリー・リー・ジョンソンというひとりの抗議者が、ロナルド・レーガン大統領の政策に抗議すべく、共和党全国大会の会場外で星条旗を燃やした。彼はテキサス州の国旗損壊禁止法違反で逮捕される。事件は法廷を上り、一九八九年、合衆国最高裁判所はこの「テキサス州対ジョンソン事件(Texas v. Johnson)」において、五対四の僅差ながら歴史的判決を下した。

政治的抗議としての国旗焼却は、合衆国憲法修正第一条(First Amendment)によって保護される「象徴的言論(Symbolic speech)」である──。テキサス州法は違憲無効と宣告された。

法廷意見を執筆したウィリアム・J・ブレナン・ジュニア判事の言葉は、いまも語り継がれる。

「我々は、国旗を燃やした者に対する最も適切な対応は自らの国旗を振ることだと考える。燃える国旗の尊厳を守る最も確実な方法は、その残骸に敬意を持った埋葬を施すことである。我々は国旗の損壊を罰することによって国旗を神聖化するのではない。そうすることは、この大切にされているエンブレムが表す自由そのものを希釈することになるからだ」

国旗が表象する価値そのものを、国旗を保護する法律が裏切ってしまう──このパラドックスを、ブレナン判事は鮮やかに突いた。

しかし、この判決に対する世論の反発は激烈であった。退役軍人団体、保守層、宗教右派が一斉に憤激し、連邦議会は即座に新たな「一九八九年国旗保護法(Flag Protection Act of 1989)」を可決して再び国旗損壊を犯罪化しようと試みる。だが翌一九九〇年、最高裁は「アメリカ合衆国対アイクマン事件(U.S. v. Eichman)」においてこの連邦法もまた違憲とし、表現の自由の優位性を再確認した。

これ以降、通常立法による国旗損壊禁止は、米国においては事実上不可能となった。残された道はただひとつ──合衆国憲法そのものを修正し、「国旗損壊を禁止し、処罰する権限を議会に与える」という条項を組み込むことである。

この「国旗損壊禁止憲法修正案(Flag Desecration Amendment)」は、その後幾度となく連邦議会に提出されてきた。下院では数回にわたって必要な三分の二の賛成を得て可決にこぎ着けたが、上院では常に否決されてきた。最も成立に肉薄したのが二〇〇六年六月二十七日の採決である。このとき上院では、わずか一票差で同修正案が否決された。アメリカは、文字通り紙一重の差で「国旗を燃やせない国」になりかけたのだ。

近年でも修正案は息を吹き返している。二〇一九年六月、そして二〇二一年六月には、スティーブ・デインズ上院議員らがトランプ政権の支持を得て同修正案を再提出した。国旗という国家象徴を巡る政治的分断は、アメリカにおいて今なお継続している。

アメリカの判例史が他国に投げかける問いは重い。国旗を燃やす自由を許容することは、果たして国家の威信を傷つけるのか、それとも国家の表象する自由の理念をこそ守ることになるのか。ブレナン判事の答えは明快だが、半数近いアメリカ人がいまも別の答えを求めている。

三 闘う民主主義と欧州人権裁判所──ヨーロッパ的均衡

表現の自由を絶対視する米国のアプローチに対し、欧州諸国──とりわけドイツ──は、国家秩序の維持と表現の自由との間で独自のバランスを模索してきた。その思想的核を成すのが「闘う民主主義(Militant Democracy / Streitbare Demokratie)」と呼ばれる防衛論理である。

ドイツ連邦共和国基本法(Grundgesetz)の体系は、ワイマール共和政とナチズムという二〇世紀ドイツの歴史的トラウマを教訓に据えて設計された。民主的プロセスを利用して独裁政権を樹立したナチスの記憶──民主主義は、自らを破壊する力に対しても無防備であってよいのか、という痛切な問い──から生まれたのが、闘う民主主義という発想である。

その核心は単純だ。自由民主主義の基本秩序(Free democratic basic order)を破壊しようとする政党や運動に対しては、民主主義の恩恵──結社の自由、表現の自由──を認めず、これを排除する。事後ではなく事前に、回顧的ではなく将来的に。

イタリア憲法がファシスト党の再建を禁じるのは、明確に「過去への対処(Retrospective)」である。これに対しドイツ基本法第二十一条二項などの規定は、未来のあらゆる民主主義の退化に対する「普遍的・将来的(Prospective and enduring)」な防波堤として設計されている。憲法そのものに、民主主義の自衛装置を組み込んだのだ。

この思想的土台のうえに立つドイツ刑法は、国旗や国家象徴の損壊を厳格に罰する。連邦共和国の存在やその憲法原則に対抗する意図をもって国家象徴を侮辱する行為には、最高五年の拘禁刑が科される。

しかし、ドイツの司法は象徴保護を無条件で認めてきたわけではない。基本法第五条一項が保障する表現の自由および芸術の自由との調整は、常に裁判所の課題であり続けてきた。

一九九〇年、連邦憲法裁判所(BVerfG)は、国旗を損壊する表現を含む芸術作品に関する事件において、注目すべき判断を下した。下級審が表現の自由・芸術の自由の保護と国旗保護の要請との間の利益衡量(Balancing)を適切に行っていなかったとして、有罪判決を差し戻したのである。象徴を保護しつつも、個別の文脈において表現の権利を慎重に計量する──この均衡感覚こそ、ドイツ的法論理の真骨頂である。

ドイツ国内の判例を超えて、ヨーロッパ全体の象徴と表現を巡る基準を打ち立ててきたのが、欧州人権裁判所(ECtHR)である。

欧州人権条約(ECHR)第十条は表現の自由を保障するが、同第二項において、国家の安全、領土の保全、公共の安全、無秩序や犯罪の防止などの正当な目的のために「民主的社会において必要(necessary in a democratic society)」と認められる制限を許容する。問題は、「必要」とは何か、である。ECtHRは一連の判例を通じて、その輪郭を少しずつ明らかにしてきた。

一九九七年の「グリゴリアデス対ギリシャ事件(Grigoriades v. Greece)」は、徴兵制下での軍隊生活や軍隊制度そのものを厳しく批判する手紙を上官に送った申請者が、軍を侮辱したとして有罪となった事案である。ECtHRはこれを第十条違反──表現の自由の侵害──と認定した。批判の言葉が強くても、それがより広範な一般公開を伴わず、軍隊制度への一般的・思想的批判の文脈で行われたものであり、軍の規律に対する客観的影響が軽微である以上、刑事罰は「民主的社会において不必要」だというのである。

二〇一二年の「ファベル対ハンガリー事件(Faber v. Hungary)」も興味深い。アールパード・ストライプ──歴史的に極右やファシズムと結びつけられることの多い、物議を醸す旗──を掲げたデモ参加者への制裁が問われた。ECtHRは平和的集会の自由(第十一条)と絡めながら、歴史的に不快感を与える象徴の使用であっても、直接的な暴力の扇動(Incitement to violence)や他者の権利への直接的脅威がない限り、直ちに処罰することは条約違反だと判断した。

ただしECtHRは、表現の自由を絶対視しているわけでもない。国家元首や国家機関への度を越した誹謗中傷やヘイトスピーチに対しては、各国の「裁量余地(Margin of appreciation)」を広く認める姿勢を示している。

その代表例が、スペインのラッパー、パブロ・ハセル(Pablo Hasél)を巡る一件である。彼は楽曲やX(旧Twitter)への投稿で、前国王フアン・カルロス一世を「マフィア」「泥棒」と呼び、王室への誹謗中傷罪およびテロリズム賛美の罪で総額約三万ユーロの罰金および実刑判決を受けた。ハセルはこの処分をECHR第十条違反だとしてECtHRに提訴したが、二〇二三年十一月、ECtHRはこの訴えを「明白に根拠を欠く(manifestly ill-founded)」として受理不可(Inadmissible)と決定した。

ECtHRの判断は明確だった。ハセルの表現は証拠のない深刻な犯罪の告発であり、国家機関への度を越した誹謗であること。国内裁判所はテロ賛美の危険性と表現の自由との利益衡量を適切に行っていたこと。科された罰金等の刑罰も不均衡(Disproportionate)ではないこと──。

ヨーロッパが採るのは、絶対的保護でも、無制限の規制でもない。利益衡量の精緻な技法によって、象徴と表現の境界線を一件ごとに引き直すアプローチである。ドイツの闘う民主主義と、ECtHRの裁量余地論理──ヨーロッパ的均衡は、この二本の柱に支えられている。

四 国旗の彼方の象徴たち──不敬罪、国歌法、超国家旗

国家的象徴の保護は、物理的な国旗のみに止まらない。国家元首──君主や大統領──、国歌、国章。これらに対する批判や冒涜を封じ込めるための法制が、「不敬罪(Lèse-majesté)」や「国歌侮辱罪」として、世界各国で運用されている。

不敬罪は古い。古代ローマ帝国の反逆罪(maiestas)にまで起源を遡るこの法理は、君主や国家元首、あるいは国家そのものの尊厳を害する行為を処罰する。現代において、それは一部の君主制国家のみならず、大統領制国家においても「名誉毀損」や「国家機関への不敬(desacato)」という名目で生き残っている。外国人旅行者であってもSNSの投稿ひとつで、罰金、国外追放、あるいは実刑の対象となりうるリスクが指摘されている。

タイの刑法第百十二条──通称「不敬罪」──は、世界で最も厳格な君主制保護法のひとつとして知られる。同条は国王、王妃、王位継承者、摂政に対する中傷、侮辱、脅迫を禁じ、違反者には一件につき最長十五年の懲役を科す。

タイ人権弁護士協会(TLHR)の統計データは、近年のこの法律の運用がいかに激烈なものであるかを露わにする。二〇二〇年の民主化デモ以降、同法に基づく訴追は爆発的に増加した。二〇二一年十一月から二〇二三年十月までのわずか二年弱の間に、同法違反で百名以上の被告人に第一審判決が下され、七十九名が有罪となった。有罪率は実に七十九パーセント。最長で二十八年の実刑判決が言い渡されている。最新のデータでは、不敬罪で訴追された個人は少なくとも二百六十二人、件数にして二百八十七件にのぼる(別の集計では二百七十四名・三百七件とも報告されている)。

具体的な事例を見ると、その峻烈さがより鮮明になる。著名な人権派弁護士でありTLHRの創設メンバーでもあるアーノン・ナムパー(Arnon Nampa)氏は、二〇二〇年の民主化デモでのスピーチや、Facebook上の投稿で王室改革を求めたことを理由に、これまでに四度の有罪判決を受けている。彼の累積刑期は十四年二十日に達している。国連の専門家や、国際人権連盟(FIDH)、世界拷問防止機構(OMCT)といった国際人権団体は、これを「表現の自由の深刻な侵害」として極めて強い懸念を表明し続けている。

「前進党」の国会議員チョンティチャー・ジェーンレオ(Chonthicha Jangrew)氏も、王室予算を批判する書簡をSNSに投稿したこと等を理由に、禁錮二年八カ月の実刑判決を受けた。象徴の保護を定めた法律が、政治的異議申し立てや民主化要求を沈黙させるための治安維持ツールへと転化している──タイの現実は、この一点をこれ以上ないほど明瞭に示している。

モロッコの状況も類似する。同国でも刑法を適用して、国王に対する「正当な敬意の欠如」や「国家機関の誹謗中傷」が厳しく取り締まられている。本来であれば、言論活動には懲役刑を伴わない「出版・報道法(Press and Publications Law)」が適用されるべきところを、当局は意図的に実刑を伴う刑法典を適用しているとされる。

近年、YouTubeやTikTokを舞台とするインフルエンサー、アーティスト、市民ジャーナリストが、権力者のライフスタイルや国家政策の失敗を批判するラップの歌詞やSNS投稿を理由に、逮捕や実刑判決を受ける事例が急増している。ヒューマン・ライツ・ウォッチの二〇二〇年報告によれば、平和的な表現活動を行っただけで少なくとも十名が逮捕・起訴され、うち七名が実刑判決を受けて服役した。直近でも、「Molinex」「Elias al-Malki」「Adam Benchkron」として知られる著名なTikTokインフルエンサーらが、公然のわいせつ、国家機関への侮辱、薬物所持といった複合的な嫌疑のもとに一斉に拘束されている。言論統制の強化が指摘されている所以である。

ヨルダンにも刑法第百九十五条による不敬罪が存在する。ただし二〇二四年十月、アブドゥッラー二世国王の指示によって、同罪で最終判決を受けた者に対する特別恩赦が実施された。法適用に政治的緩和を持たせる動きも、同時に観察できるのである。

象徴保護のもうひとつの重要な戦線が、国歌である。

中国の国歌「義勇軍進行曲(March of the Volunteers)」は、歴史的には抗日戦争期の愛国的な軍歌・反逆の歌に起源を持つが、現在では国家の不可侵の象徴として位置づけられている。中国政府は刑法を改正し、公共の場で国歌を歪曲・蔑視して歌唱・演奏する行為、意図的に歌詞やメロディーを改変する行為に対して、政治的権利の剥奪、拘留、または最高三年の懲役を科すと定めた。

この国歌法は、中国本土に止まらなかった。香港の基本法付属文書III(Annex III)に組み込まれ、香港特別行政区における現地法制化(Local legislation)の根拠となったのである。香港の国歌条例は、国歌を「侮辱」したり「誤用」したりした者に対して、最高五万香港ドルの罰金および最長三年の禁錮刑を科す。

問題は、何が「侮辱」や「蔑視(derogatory manner)」に該当するかについて、客観的基準が曖昧であることだ。判断は事実上、当局の裁量に委ねられている。アムネスティ・インターナショナルは、この法律の広範かつ主観的な規定が「平和的な反対意見を犯罪化するための試み」であり、国際人権法が保護する表現の自由を著しく侵害するものだと非難している。

インドにおいても、一九七一年制定の「国家名誉侮辱防止法(Prevention of Insults to National Honour Act)」のもと、国旗と並んで国歌に対する敬意の欠如が犯罪化されている。国歌の演奏を妨害する行為は処罰対象であり、公の場における国家象徴への態度は厳格に監視されている。

そして最後に、もうひとつ見落とせない領域がある。国家を超えた象徴──超国家的シンボル──の保護である。

工業所有権の保護に関するパリ条約第六条の三(Art. 6ter Paris Convention)は、世界貿易機関(WTO)加盟国に対し、国旗その他の国の紋章に加え、国際機関の紋章、略称、名称の許可なき登録や使用を拒絶または無効化することを義務付けている。国際連合のエンブレム──北極を中心とした世界地図とオリーブの枝──や、赤十字の標章などは、この条約によって国際的に保護されている。

特に欧州においては、「欧州旗(European flag)」の保護が注目される。青地に十二個の金色の星を配したこの旗は、もともと一九五五年に欧州評議会(Council of Europe)が制定し、一九八五年に欧州共同体(現在のEU)が公式エンブレムとして採用したものである。

EU全体として統一された旗の損壊禁止法は存在しないが、加盟国の一部は国内法で独自の刑事罰を設けている。リトアニア刑法第百二十八条は「外国国家の象徴および欧州連合の象徴の冒涜(Desecration of symbols of a foreign state, the European Union)」を禁じ、EU旗を公然と破り、燃やし、または汚損した者に対して、罰金または最長二年の拘禁刑を科すと定める。スロベニア刑法第一編(CC-1)も、公の秩序と平和に対する罪、あるいは共和国への侮辱に関する条項のなかで、EU旗の公然たる冒涜への処罰を規定する。オーストリア刑法第二百八十三条に基づくヘイトスピーチ法制等は、直接的にEU旗を言及しないものの、特定の集団や象徴的価値を貶める表現活動を制限する枠組みとして機能する。

国家のアイデンティティと並行して、「欧州統合」という超国家的イデオロギーを刑法的に擁護しようとする試み──それが欧州旗保護法制の本質である。象徴と法の連環は、もはや国境を超えて広がりつつある。

国家的象徴の法と社会──国旗損壊罪、不敬罪、そして象徴的言論の限界
不敬罪と国歌侮辱罪──象徴保護が政治的弾圧の武器へと転じるとき五 日本という法的特異点と二〇二六年の地殻変動

これまでに見てきた国際的な法的潮流のなかで、極めて特異な位置を占めているのが日本の法体系である。

日本の現行刑法第九十二条は「外国国章損壊罪」を定める。「外国に対して侮辱を加える目的で、その国の国旗その他の国章を損壊し、除去し、又は汚損した者」には、二年以下の懲役または二十万円以下の罰金が科される。

ところが、日本国自身の国旗──日章旗(日の丸)──の損壊を処罰する規定は、刑法にも、その他のいかなる特別法にも存在しない。

すなわち日本では、他国の国旗を公然と燃やせば「外国国章損壊罪」に問われる可能性があるが、自国の国旗を燃やしても、それが他人の所有物に対する器物損壊罪等に該当しないかぎり、国旗損壊それ自体としては無罪となる。

この著しい非対称性の根拠は、刑法第九十二条の保護法益が「国家の象徴に対する尊厳そのもの」ではなく、「国交に関する罪(Crimes Concerning Diplomatic Relations)」として外国との平穏な外交関係を保護することに置かれている点にある。同罪は、外国政府からの要請がなければ公訴を提起できないという、親告罪に近い要件──請求待機罪──となっている。

国際的に見ても、外国国旗の損壊を自国国旗と同様に禁止している国は、キューバ、デンマーク、エジプト、ドイツ、ギリシャ、クウェート、スーダン、スイスなど、ごく一部に限られる。しかもドイツやギリシャでは、外国政府からの訴追要求に加えて「相互主義」──自国の国旗も相手国で保護されていること──が条件とされている。

日本のように「自国国旗は無保護で、外国国旗のみを特別に保護する」という法体系は、世界的に見ても極めて異例なのである。

この法的不均衡を是正しようとする政治的動きは、近年活発化している。二〇一二年、自由民主党が野党であった時期、そして二〇二一年、高市早苗議員らは、日本国を侮辱する目的で国旗を損壊・除去・汚損する行為に対して二年以下の懲役または二十万円以下の罰金を科す刑法改正案を国会に提出した。だが、いずれも表現の自由への懸念等から廃案となった。

地殻変動が起きたのは二〇二五年である。

同年十月に実施された総選挙を経て、自由民主党と日本維新の会が連立政権を樹立した。その政策合意のなかに、二〇二六年の通常国会中に「国旗損壊罪(National Flag Desecration Law)」を新設する法案を成立させる旨が明記されたのである。

高市首相は街頭演説でこう主張した。「外国の国旗を破れば刑務所に入れられる可能性があるのに、日本の国旗はどう扱ってもよいというのはおかしい。いかなる国旗も平等に尊重されるべきである」。維新の吉村洋文代表や参政党の神谷宗幣代表も、日の丸を外国の国家的象徴と同等の基盤に置くことは「全く合理的な要求」であると同調している。

保守派の支持者の論理は明快だ。国旗は集合的アイデンティティを象徴するものであり、公然の劣化から保護されるべきである──。これはドイツや韓国などの法体系と軌を一にするアプローチであり、ある意味で「国際標準への接近」と説明することもできる。

しかし、この立法動向には国内外から強い反発と懸念が寄せられている。

ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)のアジア局プログラム・オフィサーである笠井哲平氏や、国連人権規約委員会は、こうした法律が象徴的な政治的表現を制限し、政府への反対意見を抑圧・萎縮(Chilling effect)させるための道具として乱用される危険性を指摘する。HRWは、香港において国旗・国章法制が民主派活動家の弾圧に利用されている事実を挙げ、象徴的不敬を犯罪化することの危険性を警告する。

日本国内でも、一部の議員や法学者が、刑法のこの改正は「憲法上の表現の自由、思想・良心の自由に対する侵害の恐れがある」と懸念を表明している。

日本において国旗(日の丸)や国歌(君が代)の法制化が常に深刻な論争を呼んできた背景には、これらが戦前の軍国主義や天皇制と密接に結びついていたという、独特の歴史的記憶がある。一九九九年に「国旗及び国歌に関する法律」が法制化された際にも、当時の世論調査では半数以上が法制化に反対、もしくは慎重な審議を求めるなど、国民的合意の形成には至っていなかった。

その後、教育現場においては、東京都の石原慎太郎知事時代を中心に、卒業式等の学校行事での起立・斉唱を命じる職務命令に従わなかった数百名の教員が大量処分を受けるなど、国家権力による「愛国心の儀礼的強制」を巡る深刻な対立が生じた。法律としての制定と、現場での運用との間には常に緊張関係が走り続けてきたのである。

こうした歴史的経緯を踏まえると、二〇二六年の国旗損壊罪新設は、単なる法的不均衡の是正を超えて、国家と個人の内面的自由に関する根本的な対立を再び呼び覚ますことになる。「他国を侮辱しないために他国国旗を守る」という外向きのロジックと、「自国の象徴への敬意を強制する」という内向きのロジックは、似て非なるものだ。日本社会がこの違いをどう受け止めるかは、これからの数年で問われる大きな課題である。

六 データが語る象徴の社会心理

法律によって国旗の損壊を禁じるか否かに関わらず、社会を構成する一般市民は、国旗等の象徴を心理的・社会学的にどのように認識しているのか。世論調査データや社会学的な実証研究は、国旗への敬意や「国家への誇り」が、その社会の宗教的価値観、年齢層、イデオロギーと深く結びついていることを示している。

米国の世論調査機関のデータは、まず国旗損壊に対する人々の認識が政治的イデオロギーによって明確に分断されていることを明らかにする。

YouGovの調査(二〇二〇年)によれば、米国人の約三分の一──三十四パーセント──が「政治的抗議としての国旗焼却は合法であるべきだ」と回答している。しかしこの認識には、強烈な党派性と世代間格差が刻まれている。共和党支持者の七十七パーセントが「違法であるべき」と答えたのに対し、民主党支持者では三十五パーセントに留まる。さらに五十五歳以上の層では六十二パーセントが違法化を支持する一方、十八歳から二十四歳の若年層では四十五パーセント──相対的多数──が合法であるべきだと答えている。

ギャラップの調査(二〇〇六年)でも、共和党支持者の六十七パーセント、民主党支持者の四十九パーセントが「国旗焼却を違法とするための憲法修正を支持する」と回答した。全米成人の約半数以上が、感情の次元では国旗焼却に強い嫌悪感と処罰感情を抱いていることが見て取れる。

ところが、ピュー・リサーチ・センターの同時期の調査が示すのは、別の興味深い事実である。国民の約四分の三が国旗焼却の違法化を望んでいるにもかかわらず、これを「国家の優先事項」とは見なしていない、という事実だ。連邦議会が取り組むべき課題の優先順位において、イラク戦争(三十五パーセント)、ガソリン価格(二十八パーセント)、移民問題(二十六パーセント)などが上位を占めるなか、国旗焼却問題への関心は全体のわずか四パーセント、十九課題中の十四位に過ぎなかった。

国旗損壊問題は、エモーショナルな「文化戦争(Culture war)」の象徴としては機能するものの、国民生活の根幹を揺るがす実存的危機とは認識されていないのである。象徴を巡る怒りは深いが、その怒りは生活を圧倒しはしない──このアンビバレンスは、現代民主主義の心情構造を示すうえで興味深い。

よりグローバルな視点から「国家の象徴的認識」を測定するうえで有用なのが、世界約百二十の社会を対象に実施されている「世界価値観調査(World Values Survey: WVS)」のデータである。

WVSのWave 7調査項目「G006:あなたは自分の国籍(国民であること)をどの程度誇りに思っているか」、および「E069_11:自国政府に対してどの程度の信頼を持っているか」という設問は、人々のナショナリズム的信念体系や権威主義的傾向を測定する主要な指標として、世界の学術研究で広く用いられている。

WVSのイングルハート=ウェルツェル文化地図(Inglehart-Welzel Cultural Map)の分析によれば、「伝統的価値(Traditional values)」を重んじる社会──中東、南アジア、アフリカ等の宗教の重要性が高く、権威や家族への服従を重視する社会──の市民は、極めて高いレベルの「国家への誇り(National pride)」とナショナリスティックな展望を持ち、社会的同調性を強調する傾向がある。これらの社会では、国旗や国家元首といった象徴は神聖不可侵の領域に属するものと認識されやすく、不敬罪や国旗損壊罪に対する社会的許容度も極めて高い。

対照的に、スウェーデン、ドイツ、日本などの「世俗的・合理的価値(Secular-rational values)」が高く、自己表現の価値(Self-expression values)を重んじる社会では、権威への盲目的服従や無条件の「国家への誇り」は相対的に低く、個人主義的・批判的傾向が強い。

心理学者シャローム・シュワルツの価値観フレームワークに基づく十一カ国対象の研究でも、米国、オーストラリア、カナダ等の英語圏の市民は「平等主義」や「自己決定・自律性(Affective autonomy)」の価値観を国旗と強く結びつけている。彼らにとって国旗とは、権威への服従の象徴ではなく、自由と権利の象徴なのだ──そうした認識構造の存在が示唆されている。

国家の象徴に対する認識が、宗教的帰属意識といかに強く結びついているかを示す証拠もある。

米国におけるベイラー宗教調査(Baylor Religion Survey 2021)のデータ分析によれば、宗教活動──礼拝空間──において「星条旗」が提示されていることは、参列者の「キリスト教ナショナリズム(Christian nationalism)」への支持を統計的に有意に上昇させるプライミング効果(Priming effect)を持つことが判明している。

驚くべきことに、宗教的帰属を持つ米国の成人の約半数が、日常的に国旗が掲げられた空間で礼拝を行っている。特に白人プロテスタントや高齢者に顕著で、特定のイデオロギーを持つ人々が国旗を掲げる教会に自己選別的(Social sorting)に集まるという現象が確認されている。礼拝堂と国家、十字架と星条旗──二つの聖性が融合する空間が、現代アメリカには確かに存在している。

ピュー・リサーチの別の国際調査でも、中東やアジアなど非西洋諸国においては、特定宗教への帰属が「真の国民的アイデンティティ」と不可分に結びついている社会ほど、宗教的聖典や国家元首への批判が等しく「国家共同体への重大な反逆」と解釈される傾向が見られる。国家の象徴と宗教的象徴の融合は、国旗損壊を単なる器物損壊や政治的抗議を超えて、「神への冒涜(Blasphemy)」に匹敵する激しい嫌悪を惹起させるのである。

一方で、日本の文脈においては、まったく異なる心理的ダイナミズムが観察される。

町田氏(Machida)によるオンライン・サーベイ実験の研究によれば、日本において「日の丸」の画像を被験者に提示することは、若年層──十九歳から三十九歳──の回答者の間における「愛国心スコア(ナショナル・プライド等)」を、統計的に有意に低下させる(Erode)効果を持つことが実証されている。

その原因として研究者が挙げるのは、日本において国旗が歴史的な戦争責任や戦後のイデオロギー対立と密接に結びついており、市民の心にネガティブなイメージや強いアンビバレンスを喚起するため、というものだ。

米国の教会で星条旗がナショナリズムをブーストさせるのとは正反対に、日本では国旗の視覚的提示が国民統合のシンボルとしての「象徴的権力(Symbolic power)」を欠いている。むしろ国家との感情的なつながりを希釈してしまうという、極めてユニークな現象が起きている。

このエビデンスは重い意味を持つ。法制化によって国旗の保護を強化しようとする政治的試みが、必ずしも市民の内面的な愛国心や国家統合の強化には直結しない可能性を、強く示唆しているからだ。法は意図したものとは反対の方向へ、社会心理を動かすことすらある。

最後に、近年の世界的なトレンドを示すデータに目を向けたい。

米国の独立系シンクタンク「The Future of Free Speech」が二〇二四年十月に発表した三十三カ国対象の調査『Who in the World Supports Free Speech?』によれば、「論争を呼ぶ言論(Controversial speech)を保護する」という原則に対する市民のコミットメントは、世界の多くの地域で侵食されている。

同指標において、デンマークやノルウェーといった北欧諸国が上位を占める一方、米国、イスラエル、日本といった民主主義国家において、表現の自由への支持の著しい低下(Drops)が確認された。日本は対象三十三カ国中、下位グループに沈んでおり、インドも二十四位に位置する。

国家が「国旗損壊罪」や「国歌侮辱罪」を新設・厳罰化しようとする近年の政治的動機は、表現の多様性を擁護することよりも、国家の威信や公共の秩序を優先しようとする社会的な「不寛容化・保守化」のトレンドによって、強力に下支えされている──このデータはその構造を、これ以上ないほど鮮明に示している。

おわりに──象徴を巡る民主主義のジレンマ

本稿による網羅的かつエビデンスベースの調査から、国家的象徴──国旗、国歌、国家元首、超国家的シンボル──に対する各国の法的アプローチおよび社会的認識に関して、三つの結論を導き出すことができる。

第一に、法的アプローチの著しい二極化と、その権威主義的利用の実態である。

米国のように、国旗焼却を憲法修正第一条で保護される「象徴的言論」の究極の形態として擁護し続ける法域がある一方、国際社会の大多数の国──欧州諸国を含む──は、何らかの形で国家象徴の損壊を犯罪化している。特にドイツに代表される「闘う民主主義」の体制下では、自由民主主義の存立基盤を防衛するための論理的帰結として、象徴保護が正当化される。

しかし同時に見過ごせないのは、タイの不敬罪(刑法第百十二条)、中国・香港の国歌法、モロッコにおけるインフルエンサー弾圧の事例に見られるように、象徴保護法制が往々にして、体制批判や民主化要求を物理的に排除・投獄するための「治安維持の武器」として、意図的かつ恣意的に運用されているという事実である。象徴を守る法律は、しばしば象徴に守られるべき民主主義そのものを蝕む。

第二に、日本における法的非対称性と、二〇二六年の立法動態がもたらす構造的矛盾である。

「外国国旗の損壊のみを罰し、自国国旗は対象外とする」という現行刑法第九十二条の特異性を是正すべく、二〇二六年現在、自民・維新連立政権下で「国旗損壊罪」新設の動きが本格化している。法的不均衡の是正という観点だけを取れば、これは合理的な改革と評価することもできよう。

しかし、社会学的実証データが示す通り、日本において国旗(日の丸)は単純な国民統合のシンボルとしては機能していない。その提示は若年層の愛国心をむしろ低下させるという、逆説的な心理的反応を引き起こす。国家権力による上意下達の法規制が、歴史的論争を孕む象徴に対する市民の複雑な感情的アンビバレンスを解消し、真の国家統合に寄与するかどうか──この点については、極めて慎重な評価が必要である。法を作ることと、心を動かすことは、必ずしも同じ作業ではない。

第三に、象徴の「聖化」と、表現の自由に対する世界的な寛容性の後退である。

世界価値観調査やピュー・リサーチなどの統計データは、国旗や国家的象徴が単なる世俗的マーカーではなく、宗教的帰属や伝統的権威と不可分に結びついた「神聖な媒体」として深く社会に根を下ろしていることを証明している。キリスト教ナショナリズムと星条旗の融合に見られるように、象徴への態度はイデオロギー的な自己選別の指標となっている。

さらに近年の国際的な世論調査は、「論争を呼ぶ極端な言論」を許容する民主主義社会のキャパシティが、目に見えて縮小していることを示している。

国家が自らの象徴を刑法という強制力をもって保護しようとする試みは、常に「国家の統合と威信の維持」という正当な利益と、「民主的社会の根幹をなす政治的批判と表現の自由」との間の、深刻な緊張関係(Tension)を伴う。

国家が市民に対して象徴への無条件の敬意を強制するとき、その象徴が本来表象すべき自由、多様性、寛容の精神そのものが、内部から希釈されるというパラドックス──これこそ、ブレナン判事がジョンソン判決で見抜いた本質である。

フェイクニュースやヘイトスピーチへの規制が強化される現代の言論空間において、国旗損壊や不敬行為のような「象徴的言論」の限界線をどこに画定するのか。この問いは、その法域の民主主義の成熟度と、権力への牽制機能を測る、最も鋭利なリトマス試験紙であり続けるであろう。

布、歌、ひとり。物理的にはささやかなそれらの象徴をどう扱うかという問いに、ひとつの社会のすべてが映し出されている。

The post 国家的象徴の法と社会──国旗損壊罪、不敬罪、そして象徴的言論の限界 first appeared on MOGU2NEWS.
編集部おすすめ