■石井敬太社長もトップを務めた伊藤忠の重要拠点
総合商社の伊藤忠は現在、世界59カ国に85の拠点を持っている。拠点によるが、営業は、繊維、機械、金属、エネルギー、化学品、食料、住生活、情報・金融、第8の各カンパニーの担当者が駐在し、現地の社員と一緒にビジネスを行っている。
内容はそれぞれ国内、輸出入と三国間取引、そして、事業投資だ。
伊藤忠タイ会社は日本人、タイ人を合わせて159人ほどの陣容となっており、日本人は31人だ。
社長は田中光昭。1994年の入社だ。入社した時から金属に配属となり、うち非鉄金属分野を中心に担当してきた。非鉄金属は銅、アルミニウムといったものだが、田中はアルミニウムを扱ってきた。ちなみに伊藤忠本社の石井敬太社長もかつて伊藤忠タイ会社の社長を務めていた。伊藤忠にとって、タイは重要な海外拠点の一つなのである。
田中が伊藤忠タイ会社の社長になったのは2024年で、それ以前はアジア太平洋州ブロックの金属グループ長だった。当時はシンガポールに駐在していた。タイに駐在するのは3度目で、通算9年の経験がある。入社以来、非鉄金属を取り扱ってきた関係から、伊藤忠メタルズという非鉄金属を扱う伊藤忠の子会社へ8年間程出向した経験を持つ。

■機械からエネルギー、情報・金融すべてを取り扱う
伊藤忠タイ会社はバンコク市内のルンピニ公園の近く。BTS(バンコクの高架鉄道)のシーロム線サラデーン駅から歩いて10分の距離にある。バンコク市内はつねに渋滞している。わたしはBTSを利用して伊藤忠タイ会社のオフィスへ行った。
社長の田中は「伊藤忠タイ会社の特徴はほぼすべての分野が揃(そろ)っていること」と言った。
「タイ会社では事業投資もありますが、実際はトレードが中心です。そして、ほぼすべての営業部署が揃っています。第8カンパニーというファミリーマートを所管している部署はありませんが、それ以外は全部あります。
営業部署が揃っていることもあり、タイ会社はアジア太平洋州ブロックではもっとも大きい拠点のひとつになると思います。ただ、シンガポールにはブロック全体を管理するスタッフ機能があるので、その人数を入れると、シンガポール拠点のほうがやや多いかもしれませんが」
タイ会社をはじめ海外拠点ではトレード事業の割合が多くなる。ただし、情報・金融といった部署はそもそもトレード事業をほぼやっていない。海外拠点でもそういった部署の担当者は事業投資を中心に取り組んでいる。
タイが重要拠点なのは田中が言うように、すべての営業部署があり、そのため人員も揃っているからだ。
■日本の自動車産業も支えている
田中は非鉄金属の担当者だった頃、タイでは自動車部品の営業をしていた。タイは自動車産業が盛んで、東南アジアの自動車製造拠点となっている。日系自動車会社の市場シェアが高いが、日系だけでなく、さまざまな国の自動車会社が進出している。
伊藤忠の自動車ビジネスに関しては、日本国内、海外ともにいすゞとの取組が多いが、タイでは伊藤忠ではなく三菱商事が主にいすゞと仕事をしている。伊藤忠はタイにおいては自動車部品、材料サプライヤーとして、もしくは自動車に関わる保険、金融サービスの提供している。
「私が1度目にタイに赴任した時、トヨタさんにアルミ製自動車部品を売り込んで、採用していただいたことがありました。タイで生産しているSUVのルーフについているレールの部品です。そのため、当社はトヨタさんのTier-1サプライヤー(ティアワン 1次サプライヤー)になっています」
■海外駐在は「語学の上手さ」では決まらない
総合商社の人間であれば海外駐在があるのが当たり前と思ってしまう。しかし、実際には入社して所属した部署によって海外駐在の有無と頻度が決まるところがある。
田中はこう言っている。
「営業に配属された人間であれば海外へ駐在する機会はそれなりにあるでしょう。
ですが、繰り返し行く人と、そうでもない人に分かれますね。それは語学が上手だからといった理由ではなく、やっている仕事の内容によると思います。たとえば、食料カンパニーのある部は日本向けのビジネスが多く、海外から商品を調達して国内のスーパーやコンビニエンスストアに卸す。そういった仕事では国内に営業を張り付けることのほうが多いでしょう。
逆に自動車や機械関係などは日本から輸出しているものが多くあります。日本から輸出した製品の現地での販売を強化するために、駐在員を海外に派遣するケースが多くなります。日本からの輸出ビジネスが多い部署や、海外事業に携わる部署では、頻繁に海外に駐在員を派遣する傾向にあります」
■日本車大国のタイにも中国製EVの波が
海外駐在担当の役割はむろん、駐在先の業績を上げることだ。だが、それ以外にも、駐在している国の現地事情についてリサーチする役割がある。
わたしもタイのバンコクに行ってわかったことがある。タイでは日本車が圧倒的に多いのだが、中国製のEVも目に付く。ただし、それはバンコクなど都市だけだ。地方へ行くとEVはまず見かけない。
充電施設が足りないのだろう。また、中国製EVといってもそれは乗用車だ。タイの地方、農村部で使われているのはピックアップトラックがほとんどで、これに限ってはトヨタ、いすゞといった日系の自動車会社がマーケットをほぼ占有している。そして、わたしは中国製EVを買ったタイ人ふたり(女性)に話を聞いたが、「2台持っているうちの1台を変えた」とのことだった。
■日本はもはや先進国ではなくなった
都市の富裕層が2台持ちしているのも少なくないこと、また、それまで乗っていた小型車の代替としてとりあえず、買ってみたということが伝わってきた。確かに数字を見ると、タイにおける中国製EVの伸び率は大きい。ただ、タイ全土自動車事情を知るにはバンコクだけでなく、地方の様子を見て、なおかつ買った人に直接、話を聞いてみないとわからない。
それはそれとして、バンコクの物価はほぼ東京と変わらない。ホテル代、高級レストランの勘定は同クラスであればむしろ東京よりも高いかもしれない。タイの町角にあるカフェのカフェラテ、マキアートの価格も東京とほぼ同じだ。ただ、地方へ行けば日本よりも外食、宿泊代などはかなり安い。こうしたことも現地へ行ってみなければわからない。

それにしても、バンコクにいる限り、「日本はもはや先進国ではなくなった」と痛感する。東京よりも割安と感じたのはタイマッサージの値段と屋台の食事代くらいだ。
■コーヒーの需要増、ペット人気、どれもビジネスになる
田中は「私たちも町に出ては食料品の値段などを見ています」と言った。
「タイではコーヒーの需要が増えています。スターバックスだけでなく、タイのチェーンも含めてカフェとパン専門店が増えてます。コーヒー豆については弊社でも海外産地からタイ国内に輸入しています。
タイの人々の生活水準は以前と比べれば向上していると思います。私が初めて駐在した20年前はバンコクでは野良犬がたくさんいました。ですが、今では見かけなくなっています。そして犬や猫をペットとして飼う人が増えてきたと思います。ひとり暮らしする人が自宅でペットとして飼っているのでしょうね。タイ人の生活意識、生活環境が変わってきたのです。

私たち商社の人間はタイの人たちの生活変化を見てビジネスに結び付けるわけです。たとえばコーヒー豆の輸入だったり、あるいはペットフードに関する原料、必要資材だったりします。ペットフードの中身の主体はツナですから、食料部門がペットフードを開発する。また、金融部門の人間はペット保険を考えるわけです。コーヒーの輸入、ペットフードとペット保険、いずれも今やビジネスになっています」
■日本人の食卓をタイから支える
伊藤忠タイ会社でもっとも取引規模が大きいのが食料部門だ。部長の河野剛は単身赴任で、日々、東奔西走している。
河野剛は1995年の入社。田中より1年後に入社している。入社以来、食料カンパニーに所属し、ツナ缶の原料であるマグロ、カツオの調達から最終製品にするまで商品化を担当。海外駐在ではカツオ、マグロが獲れるインドネシアに6年いたことがある。2024年タイに赴任し、食料部の部長となった。ツナ缶だけでなく、畜産品、水産物穀物関連、加工食品に至るまですべてを見ている。
河野は説明する。
「生鮮食品部門ですと、カツオ・マグロに加えて、大きな取引になっているのが鶏肉です。冷凍焼き鳥の産地の中心は今は中国になっていますが、同じ冷凍品でもフライドチキンはタイ産です。また、コンビニで売っているサラダチキンもタイです。唐揚げやフライドチキンなどの畜産加工品はコンビニエンスストア、スーパー、外食産業向けの商材。弊社が扱っているタイ産畜産加工品は数量でいくと約5万5000トン。ひとつ約100gなので約5億5000万食となります。
畜産品では豚肉も扱っています。伊藤忠の事業会社のタイ工場向けに原料を供給しています。ここで生産されたものは、主に日本向けの食品ですけれど、それとは別に輸入したカツオ、マグロをタイのパッカー(食品加工業者)に売る仕事もあります。
コンビニエンスストアに供給されている代表的な食材は、ツナとサラダチキン。どちらもそのまま食べるだけでなく、サンドウィッチに入れたりすることができる。そうした商材をタイの人たちとフェイストゥフェイスで話しながら商品開発しています」
■午前7時半、8時半、9時の3シフト制
海外駐在の商社パーソンの一日の過ごし方とはどういったものなのか。
河野剛の話だ。
「オフィスに来るのは朝の6時40分。比較的近くに住んでいるからそれくらいの時間に出社しています。会社の規定で駐在員は自分で車を運転してはいけない地域ですから、運転手が迎えに来てくれる。車はトヨタのマジェスティという大型車で、これで空港までお客さんを迎えに行ったり、地方に出張に行ったり。大きな車のほうが楽です。
出社して、最初にやることはメールのチェック。これはみなさん、同じでしょう。今、うちは出社が3つのシフト制になっています。午前7時半、8時半、9時の3つ。他の海外拠点ではフレックス制になっているところもありますが、うちはコロナの後、3シフト制にしました。タイ人スタッフにも評判がいいので、そのまま続けています。7時半出社の場合は終わりが午後4時15分です。子どもを迎えに行く社員は喜んでいますよ。
タイの企業の場合、始業はだいたい午前8時半もしくは9時。午前7時半始業は珍しいかもしれません。タイの人たちは自宅で朝食を作るより、屋台で買ってきて、会社で食べたりしています。私は単身赴任ですから、朝は自宅でサラダチキンを一個食べるくらい。それがちょうどいい量です」
■「会食や接待でビジネスは取れない」
「出勤してメールチェックした後はお客さんとの面談です。養鶏場や食肉加工場などを訪ねる時は片道、2~3時間近くかかるので、そういうところへ面談に行く時は朝一番にバンコク市内を出ます。その他、タイ国内を飛行機移動するケースもありますし、周辺国への出張もあります。
面談から社内に戻ったら打ち合わせ、会議に出席します。日本の本社とはオンラインで打ち合わせしています。日本とは時差が2時間あって、日本が進んでいます。そういうのが終わると午後4時くらい。
その後はまたメールチェックをして、お客さんとの会食に備える。バンコクは渋滞がひどいので、いつも早めに出ることにしています。伊藤忠では『110運動』といって、会食は1次会だけで、午後10時までに終えると決まっています。日本の本社で始めたことですけれど、海外でも同じです。
岡藤正広会長は『会食や接待でビジネスは取れない。接待負けするならそれでいい』が持論です。会食を終えたら、そのまま帰宅して酒を飲むことはほとんどありません。テレビを見たり、本を読んだりして眠る。朝早く来て仕事をする。そんな生活です」
■食料、繊維、金融担当が同じフロアで働く強み
日本の伊藤忠本社にすればなかなか他の部署と日々交流する機会は少ない。だが、海外オフィスは人数が少ないから、全員が同じフロアで働く。食料担当部署の横に繊維担当、金融担当が座っていたりする。そのため、横のつながりが自然と生まれてくる。
社長の田中は「海外勤務のなかで、これは一番のメリットだと思います」と言った。
「私は伊藤忠タイ会社の社長です。ですが、個々のビジネスにおける指揮命令系統は本社の主管部になっています。たとえばタイの食料のビジネスでも、基本的には本社の主管部の部長が指揮する。社長の私は統括しながら仕事をサポートするのが役目です。ただし、ビジネスの内容はすべて把握しています。
問題はバランスなんです。これは伊藤忠だけでなく他の総合商社も同じだと思うのですが、本社の意向が強すぎると、現場の事情とかけ離れることがある。私は現場と本社のバランスを考えて統括していくわけです。
加えて、ひとつの仕事を他の部署とも連関させて大きくしていく。たとえば、食料でサラダチキンが売れているとします。日本へ持っていく時の包装にはパウチの袋に入れなくてはなりません。タイでパウチの袋を作るには樹脂材料のニーズが生まれ、樹脂供給のビジネスにつながります。樹脂部の担当者が食品担当と話をして包装のパウチを開発するとか。また、ペットフードが売れていたら、ペットが増えているのだろうから、今度はペット保険を開発する。関係する部署の人間が垣根を超えて連携して仕事を開発していくわけです。私の役目はそういった横のつながりを考えることです」
■海外駐在でも社員旅行、運動会が重要な理由
むろん、本社でも同様に横のつながりを考えて仕事の開発をするだろう。しかし、デスクが隣り合わせであれば話が早い。迅速に総合商社らしい仕事のパッケージができあがる。
そのためには日ごろから横のつながりを大切にする土壌を涵養(かんよう)しなければならない。田中は社員旅行、運動会といった行事を主催して、社員たちの交流を進めている。
田中は言う。
「社員旅行、運動会、飲み会、重要です。私はとても重要だと思います。私自身、行事には必ず出席してあいさつします。運動会の競走にも参加します。せっかく同じ時期に、同じ場所に勤務しているわけですから、お互いの関係を密にして、相談できる仲間になったほうがいい。
私は意識して、社員みんなと会食の機会を設けています。日本人スタッフ、タイ人スタッフ共にグループ分けしてディナー、ランチの機会を作りました。
私自身、最初の駐在でタイに来た時、金属の駐在員は私ひとりだけでした。他の部署の人たちに大変お世話になったのです。仕事の悩みを始め、どこで会食すればいいか、子どもの学校のことまで相談に乗ってもらいました。タイの駐在生活がものすごく充実したものになったのは、他の部署の人たちと話をして、世話をしていただいたからです。そんな経験もあって、今いる社員には『横のつながりを大切に。困ったことがあれば何でも隣の人や私に相談してくれ』と言っています。駐在生活をしていると、総合商社の良さを感じることができます」
総合商社の海外拠点は少人数のベンチャー企業だ。頼りになるのは同じ社内の仲間なのである。田中の言うように、総合商社の良さをより体感するには海外拠点に勤務することだろう。

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)

ノンフィクション作家

1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)、『名門再生 太平洋クラブ物語』(プレジデント社)、『伊藤忠 財閥系を超えた最強商人』(ダイヤモンド社)など著書多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。ビジネスインサイダーにて「一生に一度は見たい東京美術案内」を連載中。

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)
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