「豊臣兄弟!」(NHK)で描かれる織田信長(小栗旬)vs.浅井長政(中島歩)・朝倉連合軍の激戦「姉川の戦い」。古城探訪家の今泉慎一さんは「戦いが行われた滋賀県で、信長が戦闘開始前に調略した2つの城がいかに堅固かを目にしてきた」という――。

■「姉川の戦い」前、無血の“前哨戦”
第9回:鎌刃城・上平寺城(いずれも滋賀県米原市)
浅井長政による謀反により生じた、信長の生涯最大のピンチ「金ヶ崎(かながさき)の退(の)き口(ぐち)」。秀吉や光秀らの奮戦で命からがら切り抜けてから約2カ月。1570(元亀元)年6月下旬、近江国の姉川を挟んで、信長と家康の織田・徳川連合軍は、浅井・朝倉軍と対峙していた。そして6月28日、戦の火蓋が切って落とされる、両軍あわせて数万(諸説あり)が激突した姉川の戦いだ。
戦国時代でも稀に見るほどの数千人もの死者を出したといわれる激戦は、織田・徳川軍の勝利となった。その戦いの経過については大河ドラマを見ていただくとして、実はこの決戦での勝利を確実にするために、信長は戦前に周到に手を回していた。
姉川の戦いの直前、琵琶湖北東部は織田vs.浅井の最前線。浅井家の軍勢が籠る横山城(図表1①滋賀県長浜市村居田)。織田・徳川軍がこの城を包囲攻撃するところへ、浅井・朝倉の援軍が駆けつけたことで戦いが勃発した。その横山城からみて南西、信長の本拠・岐阜方面から攻め込むルート沿いにあるいくつかの城を、信長は戦前に寝返らせることに成功している。
浅井から織田へ、反旗を翻した諸城のうち、いかにも攻めるに困難な難攻不落の城が2つある。ひとつが鎌刃城(かまはじょう)(図表1②滋賀県米原市番場)、もうひとつが上平寺城(じょうへいじじょう)(刈安城とも。
図表1③滋賀県米原市藤川)。前者は南北近江の、後者は近江・美濃の「境目の城」という重要な立地の城だ。
この2城を力攻めにせず味方につけられたことが、いかに信長にとって有利な状況を生んだのか。両城の跡地に残るその要塞ぶりを今に伝える遺構が、それを知る手がかりとなる。
■刃のような堀切と壁のような切岸
まずは鎌刃城から見て行こう。標高384m、麓からの比高250mの主郭を中心に、南東、北、西の三方に伸びる尾根一帯が城域となっている。
注目すべきはその尾根の至るところに造られた堀切群だ。特に南東尾根が凄まじい。左右が切り立った細尾根だけでも身がすくむようなのに、堀切によって容赦なく急なアップダウンが加えられている。その数実に7本。
■次々に現れる鎌刃城の防壁
尾根幅が広がりホッとさせられるのも束の間。今度は堀切と一体化した、ほぼ垂直の切岸(人工的に削り角度を急にした崖)が立ちはだかる。

這(は)うように登るしかない急斜面を、城兵の攻撃にさらされながら突破するのは相当至難の業だということは、写真で見るだけでも一目瞭然だ。
■圧巻の二重堀切と“水の手”もあり
主郭周辺は比較的幅も広く丁寧に削平されている。麓からの登山ルート、当時の大手道とされるのは北尾根から。主郭の北尾根側入り口は、石垣で方形のスペースに狭まった枡形虎口(ますがたこぐち)。その外側は急傾斜。息を切らせながら登ってきた敵を誘い込み叩く、まるで蟻(あり)地獄のような構造だ。
北尾根伝いに下った先には、場内最大の大堀切。外側にもう一本の堀切を従え、二重堀切になっている。
元々がどの尾根も急傾斜なのだが、大堀切手前の曲輪の西側面には、高さ4m、横幅30mにも及ぶ大石垣まで築かれている。
最後のもう一本、西尾根も当然の如く堀切が連続する。要するに尾根伝いにどこから攻め込もうとしても、堀切の「鎌刃」が頭をもたげているのだ。さらには、城脇の谷間には水量豊富な水の手もあり、籠城時の水の備えも万全だ。

もしこの城を力で攻め落とそうとしたら、一体どれだけの犠牲を払わねばならないのか。城内からは、小谷城や賤ヶ岳砦までも見張らせる眺望の良さもあり、戦略的な要所でもある。戦わずして味方につけられるなら、メリットは計りしれない。
■名門・京極氏の城だった上平寺城
上平寺城は、いわゆる国境を守る境目の城。南東に数kmも下(くだ)れば近江・美濃の国境だ。当時、美濃に拠点を持っていた信長にとって、浅井領に攻め込むには必ず手に入れておきたい城だ。
この城は元々、室町時代の四職家のひとつ、京極家の居城だった。かつては北近江の守護を任せられ、配下に浅井家を従えていたが、やがて立場は逆転し追放の憂き目に。姉川の戦い直前には浅井方の城だったが、内応により織田方へ。鎌刃城と同じく、信長はこの城を無傷で手に入れている。
なお、10km弱南に位置する同じく近江・美濃の境目の城・長比城(たけくらべじょう)(図表1④滋賀県米原市柏原)も同時期に浅井から織田へ内応している。
■中心部に行くほど堅固な守り
上平寺城の標高はなんと669mもある。
麓からの比高も380mと、いずれも鎌刃城を1.5倍以上も上回る。麓にある京極氏館跡からの登りは相当きついが、鎌刃城のように細尾根ではなく、どっしりした幅のある地形だ。
山頂部に近づくにつれてまず見えてくるのが、城の南端を守る畝状竪堀群。ただし規則的に並んでおらず、ほうぼうを向いているため部分的に横堀のようにも見える。
竪堀群を抜けた先が三の丸。連なる二の丸との間がこの城最大の注目ポイントといえる。深い堀切には中央に土橋がかかり、真正面には迫り上がる土塁の壁。その合間を折れながら縫うように道は伸びており、まるで攻め込もうとする敵を絡めとるかのような構造になっている。
■眺望と防備、いずれも万全の構え
三の丸にはほとんど見られないが、二の丸、本丸と城の中枢部の二つの曲輪は、外周部がびっしりと土塁で守られている。さらに本丸裏手には城内最大の大堀切。ここまでの幅の広い地形が嘘のように、急に極細の尾根。本丸背面の切岸とともに、北側の防御は万全と見える。

■独立した城ともいえる弥高寺
上平寺城の大堀切から道なりにしばらく進むと、一気に視野が開ける草原に出る。仁寿年間(851~854)年の創建と伝わる弥高寺(やたかでら)(図表1⑤滋賀県米原市弥高)という古刹跡だ。本堂のもとに60もの僧坊が並んでいたというこの場所、上平寺城の出丸の役割も果たしていたといわれている。
その証拠とでもいうべき遺構がいくつか残っている。まずは本堂跡の広大な平地を囲む土塁。いかにも城の構えに見える。
■弥高寺に残る「横堀」「枡形虎口」
さらに奥へと進むと、横堀に守られた丘のような地形が現れる。
本堂から僧坊跡の段々の地形を下ってゆく堀底道も、ところどころ屈曲している。本堂から120mほど降った場所が弥高寺大門跡。両脇に巨碧のような土塁。
弥高寺だけでも一つの山城といっていい規模と構造。上平寺城と連携して守りを固められると、容易に落とせないのは間違いない。
鎌刃城に負けず劣らずの難攻不落の要塞といえるだろう。
■失敗から学べる男・信長
「金ヶ崎の退き口」では退路をたたれてしまったため、危機一髪の事態に陥った信長。同じ轍(てつ)は踏まぬと心に固く誓ったのか、再決戦にあたり、最前線周辺の重要かつ堅固な敵方の城を複数、事前に味方に引き入れることができた。しかも、ひとりの兵も失うことなく無傷で……。なお、上平寺城の南方にあった長比城も、これら2城と同じく調略により戦わずして味方につけている。
万が一の際にも撤退ルートは確保してある。信長は後顧の憂いのない状態で、浅井・朝倉勢との決戦を迎えた。しかし、その姉川の戦いで勝利を得た後も、対浅井・朝倉戦はここから休戦期間も経て3年も続いていく。
「信長包囲網」による四面楚歌状態もあったが、金ヶ崎の退き口で学んだ慎重さもあったはず。その端緒が姉川の戦い前の“前哨戦”だった。転んでもただでは起きぬ、失敗から徹底的に学べる天才武将。それが織田信長という男なのだ。

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今泉 慎一(いまいずみ・しんいち)

古城探訪家

1975年、広島県生まれ。編集プロダクション・風来堂代表。山城を中心に全国の城をひたすら歩き続け、これまでに攻略した城は900以上。著書に『戦う山城50』(イースト・プレス)『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫)、監修書に『『山城』の不思議と謎』『日本の名城データブック200』(以上、実業之日本社)。『織田信長解体新書』(近江八幡観光物産協会)など、地域密着濃厚型のパンフレット制作を担当することもある。

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(古城探訪家 今泉 慎一)
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