■比叡山焼き討ちの“真の中心人物”
織田信長の配下にあった有力武将が、元亀2年(1571)9月2日付で出した書状が残っている。宛先は近江(滋賀県)雄琴の土豪・和田秀純(わだひでずみ)。
和田は前年まで浅井長政に従い、信長と対立していた。しかし元亀2年に入ると浅井から離脱し、織田方につくことを決意する。書状の最初のほうは、そのことに対し感謝の意を述べる内容だった。
ところが後半になると、物騒な文言が並び始める。
「仰木のことはぜひともなでぎり(なで斬り)につかまつる」
「(信長は)志村城をひしころし(干し殺し)にした」
書状の差し出し人は、明智光秀である。彼は「仰木」(仰木は比叡山三塔の一つである横川中堂の麓の場所)の人々を、「なで斬りにする(殲滅する)」と書いている。
また「志村城」(滋賀県東近江市)は、信長に敵対していた本願寺一向宗が籠もっていた城で、直前に織田軍が兵糧攻めで落とし、数百に及ぶ首級をあげていた。書状は信長に従わない「仰木」も、「志村城」と同じ運命をたどるだろうと、示唆している。
光秀がこの書状を書いた10日後の9月12日、世に名高い「比叡山焼き討ち」が断行された。
さらにその功績によって、光秀は織田譜代家臣ではない“よそ者”であるにもかかわらず、異例の出世を遂げたと考えられる。
明智光秀にとって、比叡山焼き討ちは大きな転機だった。
■山が燃え、3000~4000人が斬られた地獄の1日
比叡山焼き討ちについて、『信長公記』はこう書き残している。
「諸隊の兵は、四方から鬨(とき)の声をあげて攻め上った。僧・俗・児童・学僧・上人すべての首を切り、信長の検分に供した。一人残らず首を打ち落とし、哀れにも数千の死体が転がり、目も当てられぬ有様だった」(『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)より抜粋)
この言葉通りなら、まさに地獄絵図だった。京の公卿・山科言継(やましなときつぐ)も、日記『言継卿記』九月十二日条に記す。
「織田弾正忠(信長)、夜明け前より放火、次に日吉社(比叡山の麓にある日吉大社)、山上東塔、西塔、無動寺残らず放火、山衆ことごとく討ち死に。僧俗男女三四千人切り捨て仏法破滅、王法いかにあるべきや」
言継は3000~4000という数をあげているが、実際には不明で、後世伝わるような広い範囲での焼き討ちや大量殺戮は、誇張が過ぎるのではないかとの見方もある。しかし「王法いかにあるべきや」とは、仏法を守護し国を統治するあり方が失われてしまったということを指しており、信長=仏への反逆者と見られていたのは確かなようだ。
■一夜にして“よそ者”が信長の右腕になった
だが、「誰が直接手を下したか」については、何も書かれていない。
この前年の元亀元年(1570)8月、信長と熾烈な戦いの渦中にあった浅井長政・朝倉義景の軍勢が比叡山に逃げ込み、立て籠もると、延暦寺はあからさまに信長に敵対する姿勢を見せ、浅井・朝倉を支援した(志賀の陣)。
このときは正親町(おおぎまち)天皇の調停によって和睦したが、信長が「(今後は)中立を保ってほしい」と要請したにもかかわらず、以降も比叡山は信長への敵意を崩そうとしなかった。
信長は比叡山を攻撃する準備を着々と進めた。
光秀はこの間、宇佐山城(滋賀県大津市)にあって西近江の橋頭堡(きょうとうほ)として奮闘し、前述の和田秀純らの調略にあたっていた。その結果、織田に味方した者には書状で丁寧に謝意を表し、その一方で「信長は逆らう者には容赦しない」と脅してもいる。飴と鞭の使い分けが巧みだったと察せられる。
そして焼き討ちの後、光秀は京にある比叡山領を管理し、志賀郡(現在の大津市に相当するエリア)も与えられた。戦後処理を任されたといえる。
光秀はまた、琵琶湖西岸に坂本城を築くことも許された。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは著書『日本史』で、坂本城を「安土城に次ぐ壮麗な城」と評している。
■義昭を見限り、信長に賭けた
「頼りになる存在」との評価を、信長から勝ちとった光秀だったが、逆にこれまで帰属していた幕府15代将軍・足利義昭との関係には、亀裂が生じ始めた。
その原因は、光秀が比叡山領の支配権を強めていくことに、義昭が不快感を示したからだという。こうしたこともあって元亀2年(1571)、光秀は義昭の側近・曽我助乗(そがすけのり)に、
「義昭の家臣としての自分の行く末には、見込みが立たない。それゆえ暇をもらって剃髪したい。ついては義昭に取りなしてほしい」
と、依頼する書状を出している。(『神田孝平氏所蔵文書』)。
もちろん出家するつもりなどなかっただろう。義昭の下から離れたいという方便として、「剃髪」という言葉を使っただけで、実際、光秀は坂本城の築城に始まり、浅井・朝倉・六角との戦いなど、この後も多忙を極めている。
また「暇をもらいたい」の申し出もすぐには認められず、義昭との関係はしばらく維持された。ようやく決別できたのは元亀4年(1573)だった。この年の2月頃、信長と義昭の対立が決定的となり、7月に義昭が京から追放される。その際、光秀は信長方についている。
光秀は義昭を見限り、信長に賭けた。
■信頼の証「丹波攻略」は難航を極めた
その後の光秀は、信長家臣団のなかでも大車輪といえる存在感を示した。まず、京都所司代の村井貞勝と共に、代官として京の行政を担った。
次いで天正3年(1575)からは、丹波(京都府中部及び兵庫県北東部など)の攻略を命じられた。柴田勝家の北陸方面軍、羽柴秀吉の中国方面軍、滝川一益の関東方面軍と並び立つ畿内(丹波)方面軍の司令官、それが光秀だった。
この頃の光秀を信長がどれだけ信頼していたかは、下記からも理解できる。
同年6月7日付け、丹波の国衆である川勝継氏(かわかつつぐうじ)宛て信長書状――。
「光秀を丹波に遣わすので忠節を尽くすように」
同年7月、信長の斡旋によって「日向守(ひゅうがのかみ)」を叙任。「惟任(これとう)日向守」と名乗るようになる。
ただし丹波の攻略は、八上城(兵庫県丹波篠山市)の城主・波多野秀治(はたのひではる)の造反や、各地の領主たちが中国の毛利と手を結ぶなど、かなりの苦戦を強いられた。
こうしたことを背景に、後世には波多野氏に人質として差し出した光秀の母が、磔(はりつけ)に処されたという逸話まで流布した。磔は史実とは言い難いが、それだけ丹波攻めは難航したのである。
■激動の4年を経て、異例の出世
その合間の天正4年(1576)には大坂本願寺攻めにも参陣し、5月7日には天王寺砦(大阪市天王寺区)にいたところを本願寺勢に包囲され、援軍が駆けつけたことによって危機を脱している。
同年5月23日には病のため一時的に戦線を離脱。11月には妻の煕子が死去するなど、厳しい日々は続いた。
・天正5年(1577)10月、松永久秀との信貴山城の戦いに参陣
・天正6年(1578)10月、信長に背いた荒木村重を攻めるため、摂津・有岡城の戦いに参陣
・天正6年、丹波攻略の拠点として亀山城(京都府亀岡市)を築城
働き詰めである。
光秀が丹波を平定するのは、天正7年(1579)8月だった。4年の歳月を要した。同年10月、安土城に赴いた光秀を、信長は感状を出して称賛し、丹波・丹後の両国を与えた。この結果、光秀は計34万石を領する織田家の重鎮へと、のし上がった。
■よそ者ゆえの成果第一主義
光秀の前半生は謎ばかりだ。一説には美濃国(岐阜県)の守護・土岐氏の血を引く土岐明智氏の出身で、斎藤道三の家臣だったが、道三と息子の斎藤義龍が争った際に道三方について敗北したため牢人となり、越前の朝倉義景のもとに身を寄せた。そこで、同じく義景を頼って越前にやって来た足利義昭に出会い、仕えたという。
令和2年(2020)のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」及び「豊臣兄弟!」は、この説を採用している。
しかし、実際に光秀が歴史の表舞台に本格的に登場するのは、信長が義昭を奉じて上洛する永禄11年頃(1568)からで、そうした意味で言えば、わずか10年足らずで織田の重鎮になるという、ハイスピードの出世をなし遂げたことになる。
成功の要因は、これまで見てきた通り全身全霊、粉骨砕身、信長に尽くして結果を出したからといってよい。ストレスも並大抵ではなかったはずだが、プレッシャーを跳ね返し、信長の期待に応えた。出自もはっきりしない者が織田政権下で台頭するには、成果第一主義に徹する他なかったのだろう。
そうした立場は、豊臣秀吉・秀長の兄弟に似ている。秀吉と光秀は、出世を競うライバル関係にあったと見ることもできる。
■万能型のハイスペック中途採用者
それに加えて光秀は、坂本城や亀山城で駆使した築城術や、苦労しつつも丹波を平定した軍事力と外交力、さらに義昭の側近だったことから教養も備えており、それが京の行政面の運営にも役立ったと考えられる。
ひと口にいえばハイスペックな人材――そう思ってよいのではないだろうか。
現代にたとえれば、織田という新興勢力に加わった中途採用者といえよう。しかも信長は志も要求も高く、誰でも家臣が務まるような男ではない。そこに光秀は実直に従事し、結果を出し続けた。そんな有能な人物だからこそ、出世できた。
もっとも、これは推測の域を出ないが、こうした過酷な環境の中で積み重ねられた負荷が、後年の光秀の叛逆的な行動に影響を与えた可能性も、否定できない。光秀は心中に、次第に刃を抱え始めていた。
本能寺の変に走ったのは、34万石を賜った3年後だった。
参考文献
・柴裕之『図説 明智光秀』(戎光祥出版、2018年)
・和田光生『比叡山焼き討ちと天正の復興~明智光秀の果たした役割』(成安造形大学附属近江学研究所紀要第11号、2021年)
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小林 明(こばやし・あきら)
江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表
編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。江戸文化風俗研究家としてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。
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(江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

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