「シングル介護」とは、配偶者や親の介護をたった1人で担っているケースを指す。厚生労働省によると、2023年度の家族・親族による高齢者虐待の相談・通報件数は1万8000件あまりとなり、過去最多を更新。2022年の国民生活基礎調査では、家族介護者は全国で約653.4万人(2021年時点)と推計され、主な介護者と要介護者との関係は、同居家族が45.9%、別居家族が11.8%(2022年時点)。同居家族の内訳は、配偶者が22.9%、子が20.7%、子の配偶者が7.5%となっている。
たった1人で介護を担う「シングル介護」は年々増加しており、介護時間の長期化や精神的・身体的負担の大きさが不安視されている。その当事者をめぐる状況は過酷だ。「一線を越えそうになる」という声もたびたび耳にしてきた。私の取材事例を通じて、社会に警鐘を鳴らしていきたい。
■12時間以上行方不明になった夫
電話は鳴らなかった。
老年科への通院を終えると夫(86歳)は通常、15時頃に「迎えにきてほしい」と連絡してきた。
松竹夏子さん(仮名・当時65歳)は不安になり、病院に電話をした。すると、「ご主人は、11時頃には薬局を出ています」と。「何かあったのかもしれない」という気持ちが一気に膨れ上がり、ケアマネジャーに連絡。その指示通り、警察に届けを出した。
「ケアマネさんと警察から、『ご主人が帰ってくるかもしれませんし、下手に動き回って連絡が取れなくなるといけないので、奥さんは家にいてください』と言われ、夫の写真を提供すると、19時頃には捜索の範囲は全国に広げられました。婦警さんに、『認知症の人は隠れてしまうことがあるので、念のため家の中を見せてください』と言われ、トイレやクローゼットの中、布団の中など、全部見せました。もしかして、私は疑われていたのでしょうか?」
ひと通り家の中を見せ終わり、別の警官から「誰かに相談しましたか? 息子さんとか」とたずねられたため、「いいえ。子どもはいません」と答える。
いったい、夫はどこへ行ってしまったのか。松竹さんは途方に暮れるほかなかった――。
■「お前は川で拾ってきた子だ」
松竹さんは、関東地方の町工場で働く父親と専業主婦の母親、10歳違いの姉の4人家族で育った。松竹さんが物心ついた時、すでに“家庭内いじめ”は始まっていた。
「両親は男の子が欲しかったのだそうです。私が物心ついた時には、『お前は川で拾ってきた』『どんぶら子、すっこっ子』と毎日のようにいじめられて泣いていました。10歳上の姉はいわゆる不良になって、気に入らないことがあると私のことを叩いていました」
4歳になった松竹さんは、親戚の家のゴミ捨て場にあったおもちゃのピアノを拾って帰り、遊びで鍵盤を自由にたたき歌い始めた。初めてのピアノなのに、メロディーになっていた。驚いた両親は、末娘を音楽教室でピアノを習わせ始めた。
「両親は鼻高々で、親戚の前で私にピアノを弾かせるのですが、その裏では、『お前は努力をしない怠け者だ』と言って貶められたり、『一回も間違えずに引け』とプレッシャーを与えられたりしました」
両親はオルガンだけは買い与えてくれたが、音楽教室の教師にピアノを買うことを勧められると、1年後にしぶしぶ買った。
「両親にはものすごく文句を言われました。『ピアノを買ったから』ということで、私はその後のクリスマスや誕生日のプレゼントはなしでした」
松竹さんのピアノの腕はメキメキ上達し、小学校に上がる前にはピアノコンクールの全国大会に出場。やがてピアノ教師から学ぶことがなくなると、別のピアノ教室に移った。だが、月謝が上がったことが不服だった両親は、松竹さんの意思を聞かずに数カ月でピアノを辞めさせてしまった。
■県内で一番の進学校で不登校
松竹さんは小6の時、担任教師に勧められ、国立大学附属中学を受験すると、見事合格する。
勉強があまりできなかった姉は、私立の中学から大学までエスカレーター式に進んだが、大学を中退して結婚。もともと二世帯住宅だった松竹さんの家には、父方の祖父母が同居していたが、両親と折り合いが悪くなった祖父母が別の親戚の家に移ったため、そこに姉夫婦が転がり込んだ。
すると松竹さんの母親は「更年期障害」と言って父親や松竹さんの分の家事を放棄し、自分のことしかしなくなった。
「母は、『親に頼るな、自立しろ』と言って寝てばかりで、姉のところへ行っては孫を抱き、食事を食べさせてもらっていました。満足に着替えも与えられていない私は、わずかなお小遣いを貯めて、自分で下着や服を買っていました」
町工場に勤めていた父親は、約3年周期で転職を繰り返していた。仕事を辞めるたびに夫婦喧嘩になり、母親は「離婚だ!」「自殺する!」と騒いだ。
「貧乏で、飲み物は水だけ。おかずがない時は塩を振って御飯を食べました。食べ物のことで何か言うと、『文句を言うんじゃない』と父にグーで殴られ、こぶができました。母に言い返せない憂さ晴らしだったと思います。それを見て母は面白がっていました」
栄養状態が悪かったせいか、中3の頃から急激に体力も気力も衰えていった松竹さんだったが、高校受験では県内で一番の進学校に合格。
しかし、両親は喜びもせず、褒めもしない。中学の卒業式さえ来ない。絶望した松竹さんは、高校で不登校気味になってしまう。
「学校から電話がかかってきても、母は『怠けている、わがままだ』と言って、すべて私のせいにしました。高校のクラスメイトは親がエリートで自己肯定感が高い子ばかり。自己肯定感がめちゃめちゃ低く、みすぼらしい私は浮いていたと思います。勉強が遅れ始めた私を心配した家庭科の教師は、近所の卒業生に声をかけて家庭教師を募ってくれましたが、母は『他人が家に上がり込むのは絶対に嫌だ』と猛反対。学校を休みがちになった私を見て、母はとても嬉しそうでした」
■食費や被服費などは全部自分で
高2になった松竹さんは、コーラス部に誘われたことがきっかけで不登校を脱する。コーラス部で刺激を受けた松竹さんは、音大進学を決意し、思い切って両親に打ち明ける。
だが案の定「音大なんて金がかかる! 国立大の教育学部の音楽科にしろ! 将来は公務員になることしか許さない!」と猛反発を食らったが、この時ばかりは引かなかった。松竹さんは、姉が中高大と私立だったことを引き合いに出し、「絶対に音大しか受けないし、行かない!」と譲らず、渋々両親が折れることとなった。
松竹さんは、高校の音楽教師の紹介で、音大の声楽科の教授とピアノ科講師から3カ月だけ指導を受け、見事合格する。
この時の指導料は親が渋々払ってくれたが、後々まで文句を言われ続けた。
音大に入学した松竹さんだったが、音大の学費だけは親が払う約束を取り付けていたものの、それ以外の食費や被服費などは、全部自分で賄わなければならない。家庭教師を掛け持ちし、長期休みはキャンプ場のインストラクターをやって稼ぎ、小ぶりのグランドピアノも自分のお金で購入。遊ぶ暇などなかった。
両親からは、「学がある女は結婚できない」「どうせお前は結婚できない」と顔を合わせるたびに罵倒された。
大学卒業後は、卒論でお世話になった障碍児の音楽療法を研究している施設に、住み込みで就職した。以後、松竹さんは両親とほぼ絶縁関係になった。
■21歳差のカップル
松竹さんは3年ほどで退職すると、音楽療法を学ぶためアメリカ留学を見据え、都内にある語学学校に入学。
「退職後、留学するまで実家に身を寄せようと考えたのですが、『お前がいると姉さん夫婦に角が立つ』と母に拒否されたので、アパートを借りて一人暮らしを始めました。障碍者施設の指導員を退職し、退路を断っていたので、半年後に奨学生に選ばれたのは幸いでした。授業料が無料になり、2カ月間ですが留学でき、現地での試験にパスして帰国した後、その語学学校の事務員に採用されました。当時、女性としてはかなり良い給料でした」
語学学校で働き始めた松竹さんは、27歳の時に現在の夫と出会う。
1年で語学学校の事務員を辞めてアメリカに渡った松竹さんは、日系企業の秘書を務め始めるが、会社の不祥事をきっかけに帰国。
28歳になっていた松竹さんは、交際が続いていた彼に結婚を迫り、ついに結婚。
実家を出て以降、没交渉となっていた両親に念のため結婚の報告をすると、祝福の言葉は一切なく、「結婚して変な子どもが生まれたら、うちのせいじゃないよ」「子どもを連れて戻って来るなよ」「二度と敷居をまたぐなよ」などと言われた。
「両親は毒親です。関わりを絶った私はあれ以降、文字通り敷居をまたいでいません。両親は亡くなったようですが連絡はなく、2024年に弁護士が『遺留分の請求権利を行使しないでほしい』という連絡をしてきたことで知りました」
権利行使しないでほしい理由の説明もろくになかったが、すでに絶縁状態だった松竹さんにも両親への愛情や遺産を受け取る意思もなかった。
■夫婦でうつ病に
結婚後、松竹さんは夫の希望で2年間は専業主婦となったが、夫の勤める語学学校の語学部責任者の席が空いたため、応募すると即採用される。その頃、夫は総務部に異動していた。
語学学校の語学部責任者として働き始めた松竹さんだったが、すぐに上司から勧められ、アメリカの大学に入学。アメリカ文学や英語教育を学んだ。
帰国後は、夫の勤める語学学校の非常勤講師として採用。2年後に試験に合格し、常勤の正規雇用の講師になった。
「この出世が火種になり、先輩からひどい扱いを受け、メンタルをやられました。大学入学を勧めてくれた上司も傍観です。誰もかばってくれませんでした。死にたくなりました」
ある日、いつものように仕事に行こうと目が覚めたものの、どうしてもベッドから起き上がれなかった。職場に休むことを伝え、かかりつけの内科を受診すると、精神科を紹介される。精神科では「うつ病」と診断され、カウンセリングに通い始めた。
「職場でのいじめに耐えられなかったのは、やはり子どもの頃の家庭環境に原因がありました。私は休職して、子ども時代のことを振り返り、“生き直し”を始めました」
松竹さんは37歳で休職を決め、その後、退職することになった。
一方、同じ職場に勤めていた夫は、60歳になると、それまでより仕事も給料も半分の契約になってしまった。このことをきっかけに、夫は徐々に元気をなくしていき、63歳でうつ病と診断され、最後の1年は傷病手当を受け取った。
「夫の語学力では、もともと契約内容を理解するのにハンデがあったのだと思いますが、うつ病になった夫はますます理解力が落ちていました。私が事態に気付いたのは、夫が契約書類を自分で処理できなくなってからでした」
■深夜1時半の電話
21歳年上の夫のうつ病は働かなくなってから徐々に症状が軽くなったものの、徐々に松竹さんによるサポートが必要な状態になっていった。そして、退職から二十数年たった2025年1月のある日、夫は病院から帰らず、行方不明になった。警察の協力を仰ぐも見つからない。
心配しながらも待ち疲れて寝てしまった松竹さんは、深夜1時半頃、突然のスマホの着信音に飛び起きた。夫からだった。だが声が違う。聞けば、タクシードライバーだという。
「ご主人が、住所がわからないと言っているのでかけさせてもらいました」
「親切なドライバーさんが気を利かせて、夫の携帯でかけてくれました。帰宅した夫は、『行方不明じゃない。ちゃんと帰ってきた!』と主張します。心底『バカヤロー』と思いました。飲まず食わず、トイレにも行かず、ズボンは濡れていました。ともかく風呂に入らせ、へとへとになりながら朝を迎えました。この日をきっかけに、1人での外出を禁止しました。夫も不安があったようで、『夏子が付いてきてくれるほうが安心だ』と納得しました」
夫は、80歳をすぎたから認知症らしい兆候が見られるようになったが、この一件以来、その症状が一気に進み、松竹さんは怒涛の介護生活にのみ込まれたのだった。
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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する~子どもを「所有物扱い」する母親たち~』(光文社新書)刊行。
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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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