一世を風靡した人気占い師、細木数子氏とはどんな人物だったのか。ノンフィクションライターの溝口敦さんの書籍『喰うか喰われるか 私の山口組体験』(講談社)より、細木氏の知られざる一面を紹介する――。
(第1回)
■目障りな女がいるなぐらいの認識だった
2006年3月、講談社の加藤晴之さんに会ったとき、彼から「細木数子について4回ぐらい連載できないか」といわれた。彼はこの年2月、「週刊現代」の編集長に就いたばかりだった。
細木数子に特別関心があるわけではなかった。何か目障りな女がいるなぐらいの認識で、テレビで彼女が登場する番組に出合うと、チャンネルを替えていた。彼女を見る気がしなかったのだ。
しかし考えてみると、彼女の存在を無視していいものではない。占いの類には信用を置かないが、かといって嫌うだけで、彼女の当たらない占いや強迫的な言辞を放置していていいわけがない。細木数子は社会に大きな影響力を持ち、彼女の信者は多数に上っている。
■人脈がヤクザ世界に広がっていた
私は加藤さんの提案を受け入れ、彼女について書くことにした。担当の編集者は同誌編集部の片寄太一郎さんと決まった(途中で人事異動のため木原進治さんと交代)。
編集部の力も借り、細木とその周辺の下調べに入っていった。と、彼女にからむ人騒がせな話がボロボロ出てきた。
単に彼女の人脈がヤクザ世界に広がっているというだけでなく、彼女自身がほとんど女ヤクザだった。
彼女の伝法な物言いはヤクザ的というより、ヤクザであることに発する語り口だった。
この分だと毎号4ページの記事4回分では、細木のことはとうてい書き尽くせない。せめて10回分の連載は必要だと編集部に話し、加藤さんの了解を得た。
■週刊文春が反論を掲載
当初、連載は必ずしも細木批判を意図したものではなかった。事実を掘り起こし、淡々と客観的、中立的にリポートできればと考えていた。だが、連載が開始される前から細木数子は、私たちからの取材申し込みに対し、弁護士を通じて取材を拒否し、「名誉毀損などの部分があれば、そのときはまた対応する」などと牽制球を投げてきた。
私は「週刊現代」2006年5月20日号から14回にわたって『細木数子 魔女の履歴書』を通しタイトルとする連載をはじめた。
だが、細木は何を血迷ったかすぐ「週刊文春」6月1日号誌上に「『魔女の履歴書』週刊現代への大反論 ここまで語るか細木数子『わが生涯』」と題するインタビュー記事を掲載しはじめた。私たちに対し戦意ギラギラの対決姿勢である。
■「名誉毀損で訴えると言っている」
私も細木の「大反論」に目を通したが、どこが大反論なのか小首を傾げた。細木の意に反して、おおむね私の連載が正しいと証明してくれるような内容だった。

連載の2回目を出したあたりで、細木の側近でもあるのだろう、女性誌の編集者から「細木が名誉毀損で週刊現代を訴えると言っている。それについてコメントがほしい」と言ってきた。
そうか、細木は裁判をぶつけてくるのかと覚悟したが、だからといって細木に脅威を感じることはなかった。
私は連載の4回目(6月10日号)で「細木数子は暴力団最高幹部に私の原稿つぶしを依頼した」を書いた。
誌面では組織の名や幹部の名、役職名などは伏せたが、暴力団の元職と現役が私に「記事を書くな」と言ったのは事実だ。私は彼らと決定的な関係悪化を避けるため誌面では匿名を通したが、細木側は裁判のなかでその名を明かせと要求してきた。名を伏せたままでは迫力と説得力に欠ける。私の作りごととも思われる。
■元住吉会幹部のヤクザから受けた圧力
私は自衛上、心ならずも裁判所限定で彼らの名を明かした。ただ裁判がはじまる前、裁判官を交えて両者が話し合う争点整理の段階だったから、第三者やメディアの傍聴や立ち会いはない。
世間に暴力団幹部の名が知られることはないと踏んだ。
だが、暴力団側は私が世間に名を公表したと錯覚したのか、その後、私を敵視して悪しざまの陳述書を寄せてきた。

そのためここではわかりやすさを考え、組織名も個人名も実名で記述する。2人のうち1人は鬼籍に入り、もう1人は現役だが、私が記す事実に左右されないほどの地位を確立している。ここに記す出来事は15年も前の話である。もう「時効」になっていよう。読者は私が執る実名措置を了とせられたい。
暴力団とのいきさつは具体的にはこうである。
2006年4月24日の午後3時、私は虎ノ門のホテルオークラで元住吉会の金子幸一氏(2016年没、享年85)に会った。通称がバービーとかバンビとかいう有名人で、芸能界に人脈が広いらしい。
■細木氏の生家は売春を営んでいたのか
前日、私が電話で若い時代の細木数子について教えてもらいたいと申し込むと、金子氏は快諾し、この日の取材となった。私は金子氏と初対面であり、金子氏が私に渡した名刺には、「住吉会会長補佐 住吉一家家根弥(やねや)八代目総長 金子幸一」とあり、黒色のボールペンで肩書き部分が消されていた。
金子氏が言うには、
「いまは現役を退いたが、新しい名刺を持たず、古い名刺で代用している。そのためこれで勘弁してくれ」
こういう金子氏について、「広域暴力団の元最高幹部」と表現することは不自然ではなかろう。

金子氏は1958(昭和33)年から1964(同39)年まで服役していたとのことで、当時、細木数子がバーなどを営んでいた新橋、銀座時代を知らず、それ以前、細木が10代のころを過ごした渋谷の記憶も薄く、あまり参考になる情報を持っていなかった。
私は渋谷百軒店の細木の生家が簡易・安直な座布団売春の店だったのではないかと疑い、金子氏に当時の模様を話してくれるよう頼んだが、金子氏はそのころ渋谷で遊ぶことが少なく、確たる情報を持っていなかった。
■「細木は悪いことをしていないよ」ヤクザが断言
そのため私は細木の渋谷時代をよく知っているはずの住吉会現役幹部のIを紹介してくれるよう頼んだ。
金子氏はIを紹介することを確約してくれた。
翌4月25日、金子氏の態度は豹変した。
私はこの日、立川市内にある自宅を出て、午後2時ごろ、西武新宿線の高田馬場で山手線に乗り換えようとした。そのとき金子氏から私の携帯電話に架電があった。金子氏はこう言った。
「あんたの取材を受けた後、あんたから取材があった、と細木に電話した。細木の家が(芸者)置屋みたいなことをしていたのは事実だけど、自分はパン助みたいなことはしてないと細木は言っていた。細木はそこまで認めてるんだ。どうだろう。
あんたがいまさら細木について二番煎じ、三番煎じのことを書いてもしょうがないじゃないか。細木は悪いことをしていないよ」
金子氏はぬけぬけとこう言った。
■「細木を擁護するように書いてくれないか」
私は答えた。
「私の一存で決められる話ではないし、編集部に諮らなければならない。それに電話でお話できる内容でもない」
「書かないほうがいいと思うけど、どうしても書くというなら、細木を擁護するように書いてくれないか。そのほうがお互いのためだ」
金子氏はなかば恫喝するようにこう言って電話を切った。金子氏との電話のやり取りは4~5分だったろう。これで金子氏に頼んだIを紹介してくれる話も吹き飛んだ。
おそらく細木は金子氏から電話を受け、溝口が細木について取材を進めていることを知った。
その上で金子氏に「連載を中止させる方向で動いてくれるよう」依頼したのだろう。だから金子氏は次の日、私に「書いてもしょうがない」「書かないほうがいい」と、わざわざ自分から溝口に電話したのだろう。
正直、私は金子氏の言葉に脅えることはなかったが、人によっては元職とはいえ、住吉会の名に強い圧力や恐怖を感じるだろう。
間違いなく細木は暴力団を使って、私に「書くな」と言ってきたのだ。

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溝口 敦(みぞぐち・あつし)

ノンフィクション作家

1942年生まれ。東京都出身。早稲田大学政治経済学部卒業。『食肉の帝王』で2004年に講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『暴力団』『山口組三国志 織田絆誠という男』などがある。

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(ノンフィクション作家 溝口 敦)
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