昭和の高度経済成長期から平成3年(1991)ごろまで既婚女性は専業主婦のほうが多かった。企業社会の変遷について著書にまとめた今野晴貴さんは「当時、大手企業では妻たちを社員である夫に奉仕するよう積極的に“教育”しようとした」という――。

※本稿は、今野晴貴『会社で働くとなぜ幸せになれないのか』(SB新書)の一部を再編集したものです。
■会社員の夫を「飼育」する妻たち
日本経済が世界最高だったころ、自主的な企業への協力は、労働者の妻たちにも求められた。大手企業では妻たちを男性に奉仕するように積極的に「教育」しようとしたのだ。
大企業の妻たちの生活を丹念に研究した木下律子によれば、ある大手企業の人事部では「家庭人教育」と称して、「夫の飼育法二十ケ条――夫が妻に望むこと」という指導を行っている。
①毎日にこにこ顔で送り出し毎晩にこにこ顔で迎えること。

②良人(おっと)を全面的に信用すること。良人は外でもてないもの。

③良人の服装には細心の注意を払うこと。

④家庭での化粧を忘れぬこと。

⑤会社のことは絶対しゃべらない。

⑥家事のことはタイミングを心得てきりだすこと。

⑦夫の地位と自分とは無関係だと思うこと。


⑧会社が大事か家庭が大事かなど追いつめないこと。

⑨他人と比較しない。

⑩日曜は夫の慰安日であること

⑪夫の趣味を理解しなさい。

⑫夫の友人を大切にすること。

⑬家庭に於(おい)て亭主関白にしてやること。妻であり主婦くさくならない。

⑭少しは良人をよいキゲンにしてやれ。

⑮訂正できないものは文句をいわない。

⑯過去のことをすぐ持ち出すな。

⑰子供中心もほどほどに。

⑱へそくりは当然と思うこと。

⑲もっとユーモアを。


⑳尻をひっぱたかないで夫と一緒に走れ。

(『妻たちの企業戦争』207~209頁)
ここには、当時の企業が求めた妻の像がよく表れている。会社は妻たちをもマネージメントし、それによって夫を管理しようとしたのである。
■主婦の妻が監視された社宅住まい
社員が暮らす社宅では、私生活が直接に監視されていた。会社の人事部から家族の生活状況が管理され、住民同士の相互監視も行われる。妻が購読している雑誌の種類や日中出かける先まで、人事部によって把握されていることもあった。
妻がもし反企業的な雑誌を読んでいたり、日中に企業の市民団体や労働組合に接触していたりする場合、夫や妻本人が人事部に呼び出された。結果、別の地域に転勤させられてしまうということも珍しくなかったという。
■妻のイベント参加が出世に影響
余暇の地域生活でも、企業ぐるみの企画へと参加しなければならなかった。
これも企業共同体の一体感を強めることが目的である。その際、妻たちが積極的に動員された。しかもそうした企業の地域イベントへの参加は、なんと夫の査定の対象となる。

「妻がハイキングに参加するかどうか」が出世に影響した。同じく『妻たちの企業戦争』では、そうした様子が次のように描写されている。
社宅団地祭り、独身寮祭り、職場ごとに家族ぐるみのレクリエーション。気候のいいときには、社宅の運動会、工場の運動会、全社の運動会。そこに子供の運動会も加わるから、休みのたびに運動会があるような忙しさである。主婦は弁当作りや運動着の洗濯に追いまくられ、休日の朝どしゃぶりの雨が降っていたら、思わずバンザイと叫んでしまうという。シーズンが終わるころ、借り物競争で帽子を借りて走ったのはどこだったか、綱引きをしたのはどのクミだったか、記憶があいまいになってくるほどである。

「半強制的な行事が多いこというたら、もうめちゃめちゃですわ」

(『妻たちの企業戦争』134~135頁)
■人事部が「夫の代理パパ」を用意
こうして男性の余暇・地域の人間関係も企業関係者ばかりになっていくのだが、そもそも妻たちは男性の会社の都合で、全国転勤で住む場所も変わる。そうすると、地元には知り合いがおらず、休日も好きなことができるわけではない。ますます夫のケアと会社が用意するイベントだけが生活のすべてになっていく。
極めつきは、海外単身赴任のために、人事部が「代理パパ」を用意し、運動会など学校行事に父親に代わって参加するということもあったほどだ。
「〔…〕例えば、こどもの進学や住宅の新・増築、あるいは生命保険の手続きや財産の管理、夫人の就職など、相談を持ちこまれれば親身になって考え、その善後策にとびまわる。
引っ越し、大掃除には手伝いに行く。奥さんが病気になると、こどもを幼稚園へ送り迎えする。……新築の棟上げときけば、出向いていってモチまきもやる。冠婚葬祭にも代理で出席、要望があれば父親参観にもかけつける。要するに父親の代理をつとめるわけだが“本物”以上の活躍ぶりに海外から帰ってきた父親が比較されて困ることもあるそうだ。」

(『妻たちの企業戦争』210頁)
■「会社=人生」になっていた時代
さらに、多くの会社では手厚い企業年金や、老後生活をガイドする冊子を配布するなど、引退した社員の老後の世話まで見ていた。
このように、働くことは会社組織に組み込まれ、会社に貢献することと完全に一致するようになっていった。〈仕事=会社〉である。日本社会では異様な就職競争が起こり、入った会社でステータスや生活がほとんど決まってしまう。それはまさしく、会社中心の働き方と生活が確立した結果である。
こうして家族をも巻き込んで会社中心社会が形成された。〈仕事=会社〉の関係が深まっていくと、今度は会社に評価されるためには、たとえ会社が命令する仕事がどんなものであろうとかまわないという風潮が高まっていく。
■会社のことしか考えなくなり…
1991年に発行された、経済企画庁の『個人生活優先社会をめざして』と題する報告書がある。
行政文書として企業中心社会をはじめて主題として扱っているのだが、そこには単に労働時間にとどまらない問題が指摘されている。
報告書ではまず、「会社人間」を次のように整理されていた。
〔…〕「会社人間」とは「出世競争への参加を自己実現だと信じ、身を粉にして働き、さらには自分がいなければ組織が動かないと思い込んでいるような」人間のことであって、彼らは、高度成長期の公害隠しや、近年の銀行・証券会社による金融不祥事にみられるように、「組織のためなら非合法すれすれの行動をとり」、また「自分の所属する組織にのみ目が向き、幅広く国際問題、社会問題に関心を払うことができない」。(『企業中心社会の時間構造』51頁)
■企業の利益を優先し、公害も起きた
会社人間は長時間労働に明け暮れ、社内での出世ばかりに目が行って、社会的利益には無関心。彼らにとっての仕事とは社会への貢献ではなく、もっぱら会社の利益に奉仕することになっている。
こうした本来の〈仕事〉よりも〈会社〉の論理を優先する傾向は、すでに高度成長期の公害問題に表れていた。たとえば、水俣病では有機水銀という有毒物質を企業はコスト削減のために処理せずに垂れ流し、結果として数万人ともいわれる被害者を出している。水銀によって神経を侵された人びとは、身体の震えが止まらず、歩くことも話すこともできなくなった。
■「自分さえよければ」という考え
しかし、被害を出した新日本窒素肥料株式会社(後のチッソ株式会社)の労働者や労働組合は、むしろ病人たちを厄介者扱いし、差別した。後になって彼らが述べた反省の弁によれば、会社が補償を多くとられると自分たちが困ってしまう、「自分さえよければ」という考えがあったという。
まさに、会社と自己の利害を一体化し、これを社会よりも優先する。〈会社>社会〉という不等号が成立する発想である。

さらに、1980年代末から1990年代初頭のバブル景気の時代になると、商業主義的・拝金主義的な流れがよりいっそう強くなる。「土地転がし」「投機的融資」「脱法スキーム」「地上げ」などが横行し、一部では企業ぐるみで違法行為・暴力団との癒着・恐喝まがいの立ち退き圧力が生じた。官庁・自治体への贈答・接待・裏金や、計測データの書き換え、労災事故の報告抑制などの内向きの組織体質も問題化する。当時の会社員は企業の命令にどこまでも従い、社会に有害だとさえ思われ始めていた。
もともと戦後の会社員には、会社組織を自分のものとして考え、差別をなくし〈仕事〉にも自主的に取り組もうとした側面もあった。だが、会社員たちの会社への貢献意識は国際競争のなかで会社の勝利の手段になっていくことで変質する。結果、会社の利益のためなら手段を選ばないというところにまで行きついた。こうして、〈仕事=社会〉から〈仕事=会社〉、そして〈会社>社会〉へと変貌していったのである。

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今野 晴貴(こんの・はるき)

NPO法人POSSE元代表

1983年生まれ。仙台市出身。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。中央大学在学中に立ち上げたPOSSEを拠点にこれまで2万件を超える労働・生活相談にかかわる。ブラック企業対策プロジェクト共同代表。著書に『ブラック企業』(文春新書)、『生活保護』(ちくま新書)、『ブラックバイト』(岩波新書)など多数。

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(NPO法人POSSE元代表 今野 晴貴)
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