老後資金に不安を感じる人が多い。立命館大学准教授の戸谷洋志さんは「老後に困窮するのは計画的に貯蓄や投資をしておかなかった本人の責任だ、という風潮があるが、このような自己責任論が本当の問題を包み隠してしまっている」という――。

※本稿は、戸谷洋志『自己責任とかないから』(宝島社)の一部を再編集したものです。
■努力しなかった人は報われない?
何かトラブルが起きたときに、人々が口にしがちな言葉があります。それは、「本人の自己責任だ」というものです。
失業して生活が苦しくなった人に対して、「もっと早く資格を取っておくべきだったのではないか」。過重労働で心身を壊した人に対して、「無理だと思った時点で辞めればよかったのに」。人間関係で深く傷ついた人に対してさえ、「相手を見る目がなかったのだからあなたにも責任がある」と言われることがあります。こうした自己責任論を、人に押しつけられた経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。
自己責任論は、個人の自立や自由が重視される現代社会において、非常に受け入れられやすい考え方です。自分で選んだのなら、その結果も自分で引き受けるべきだ。努力した人が報われ、努力しなかった人が報われないのは当然だ。誰かの失敗を他人が肩代わりするのは不公平だ。こうした見方には、もっともらしい「正しさ」が感じられます。

■「自己責任」で隠される問題がある
自己責任論がここまで強く働くのは、それが人々の内面に深く入り込んでいるからです。問題が個人の失敗として理解されるほど、社会はそのままで済みます。本来であれば見直されるべき制度や環境の問題も、「個人の努力」で処理されてしまうのです。
また、他者を評価するときだけではなく、自分自身を評価するときにも、自己責任論は影響を及ぼしています。問題が起きたときに、本当は環境や制度に問題があったとしても、まず「自分に原因がある」と必要以上に自分を責めてしまう――そうした経験に、心当たりがある人も少なくないはずです。
自己責任論は単なる道徳的スローガンではありません。人々を社会から切り離し、孤立した個人が助けを求めにくくなる力を持っているのです。
もちろん、何でも社会や制度のせいにすればよいわけではありません。問題なのは、「個人に責任があるか」という問いだけが強調され、他の問いが置き去りにされてしまうことです。
なぜその選択しかできなかったのか。なぜ支援がなかったのか。なぜ失敗を支える仕組みがなかったのか。
こうした問いが立てられる前に、「自己責任」という言葉で片づけられてしまい、問題の本当の原因に目が向けられなくなってしまいます。
■責任が明らかにならないまま思考停止
自己責任という言葉は、表面的には筋の通った原則のように見えます。しかし実際には、それは責任の所在を明らかにするためではなく、責任を一方向に固定するために使われることも少なくありません。
現実の出来事は、ほとんどが様々な要因が絡まり合って引き起こされています。たとえば失業一つを取っても、本人の判断だけでなく、景気や企業の状況、家庭事情や健康状態など、複数の要因が重なっています。それにもかかわらず、「転職に失敗したのは自己責任だ」と言われた瞬間に、その複雑さは切り落とされ、責任は一人に集中してしまいます。
このとき自己責任という言葉は、問題を説明するものではなく、むしろ説明を打ち切る言葉として機能しています。本来であれば、「なぜその選択しかできなかったのか」「なぜ失敗が深刻な結果につながる制度になっているのか」といった問いが続くはずです。しかし、「自己責任」と言われた瞬間に、それ以上の検討は不要であるかのように扱われてしまいます。つまりそれは、責任を明らかにする言葉というより、思考を止める言葉なのです。
■「本当にそれだけなのか?」と問い直す
さらに重要なのは、この言葉が多くの場合、他者に向けて使われるという点です。「その人が選んだのだから、責任はその人が引き受けるべきだ」とすることで、支援しないことが正当化されます。
責任を問うように見えて、実際には他の責任を見えなくし、自分や社会がその問題に関わらなくてもよい理由として使われているのです。
支援の必要性と責任の所在は別の問題です。たとえ判断に誤りがあったとしても、困難に直面している人が支援されるべきであることは変わりません。
それでも自己責任論は強く支持されます。制度にとって都合がよいだけでなく、自分が他者を裁く側に立てるという感覚が得られ、個人にとっても、自分を安全な側に置いておくための心理的な装置として機能するからです。
だからこそ、「自己責任」という言葉を聞いたときには、その場で話を終わらせてはいけません。むしろ、「本当にそれだけなのか」「誰かの責任が見落とされていないか」と問い直す必要があります。そうしなければ、私たちは知らないうちに、責任の不公平な配分に加担してしまうことになるからです。
■「お金のない高齢者」は自業自得なのか
Q.老後資産を貯めておかなかったのは自分が悪い?
老後の生活資金については、「若いうちから計画的に貯蓄や投資をしておくべきだったのに、それを怠った結果が今の困窮なのだから、自業自得だ」という言い方がしばしばなされます。
その背景にあるのは、年金制度の先行きが不透明であることや、終身雇用が崩れつつある、ということなのかも知れません。これもまた、老後の困窮の原因を、それまでの本人の準備不足のうちに見出す、自己責任論です。
実際、家計管理や資産形成に関する情報は以前よりも手に入りやすくなり、努力次第で将来に備えることができたはずだ、という見方もあるでしょう。
戦略的に老後の資産形成をすることが望ましいことも、事実かも知れません。
しかし、老後の資産形成が一つの規範になってしまうと、十分な老後資産を準備できなかった人が、生活に不安を抱えるのは当然の帰結であり、社会が特別に配慮する必要はない、と考えることが正当化されてしまいます。
■社会的・構造的な要因が見落とされる
A.老後資産の不足は個人の怠慢だけでは説明できない
老後の生活資金に備える重要性それ自体は、否定されるべきものではありません。将来の不確実性が高まるなかで、可能な範囲で貯蓄や資産形成を行うことが、個人にとって一定の安心につながることも事実でしょう。
しかし、その事実だけを根拠に、老後資産を十分に準備できなかったことを個人の責任として片づけてしまうならば、私たちは老後不安の背後にある社会的・構造的な要因を見落としてしまう恐れがあります。
そもそも、老後に備える必要性を理解しているとしても、経済的な余裕がなければ貯蓄はできません。非正規雇用の拡大や賃金の伸び悩み、長時間労働による生活の不安定さなどによって、目の前の生活を維持するだけで精一杯という状況に置かれている人に、老後資産に心を割く余裕はないでしょう。
そうした人が貯蓄をできないことは、個人の意志の弱さというよりも、そうした選択を取りにくくする社会経済的条件の問題だと言えます。
■年金制度、最低保障、賃金構造…
また、資産形成に関する情報が広く流通しているとはいえ、その情報を理解し、実際に活用できるかどうかは、人によって大きく異なります。金融リテラシーの差は、家庭環境や教育機会、相談できる人的ネットワークの有無といった要因に左右されます。
景気の変動や金融市場の動向といった、本人の努力では制御し切れない偶然的な要素によっても、資産運用は影響されます。慎重に備えてきた人が思いがけない経済危機によって資産を激減させる一方、恵まれたタイミングに居合わせた人が莫大な富を築くこともあります。

こうした現実を無視し、老後の困窮を自己責任に帰してしまうと、社会制度を見直す視点そのものが弱まってしまいます。年金制度の持続可能性、最低保障の水準、雇用の安定性、賃金構造の問題など、個人の努力だけでは解決できない課題に目を向ける契機が失われてしまうのです。しかしこれは、一面的な見方であると言わざるを得ません。
むしろ私たちは、「誰もが将来に備えやすい雇用環境や所得水準、そして最低限の生活を保障する制度を整える」という視点を、社会全体で共有する必要があります。老後資産の不足は、個人の選択によってだけでなく、雇用や賃金、社会保障制度、経済状況といった複数の要因が絡み合って生じるものです。その前提を踏まえたうえでこそ、老後不安という問題に対して、より現実的で持続可能な対応を考えることができるでしょう。

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戸谷 洋志(とや・ひろし)

立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授

1988年、東京都生まれ。法政大学文学部哲学科卒業、大阪大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。ハンス・ヨナスを主要な研究対象としながら、「責任」「未来」「技術」「対話」をキーワードに研究。対話型ワークショップ「哲学カフェ」の実践を通じて、多様な人が対等な立場で対話できる場を提案している。著書に『ハンス・ヨナスの哲学』(角川ソフィア文庫)、『親ガチャの哲学』(新潮新書)、『哲学のはじまり』(NHK出版)、『生きることは頼ること 「自己責任」から「弱い責任」へ』(講談社現代新書)、『13歳からの概念思考』(大和書房)など。


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(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授 戸谷 洋志)
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