兵庫県朝来市にある竹田城は天空の城として人気だ。歴史評論家の香原斗志さんは「NHK大河『豊臣兄弟!』の主人公・秀長ゆかりの城だが、現在の石垣は彼が築いたものではない。
竹田城のそばにある古城にある石垣は、秀長の痕跡をよく残している」という――。
■秀長の時代の「竹田城」と現在の姿はまったく違う
織田信長(小栗旬)はいよいよ西国への侵攻を本格化させた。丹波(京都府中部と兵庫県北東部)と丹後(京都府北部)の攻略は、明智光秀(要潤)の担当とした。それより西方の毛利家が支配する領域は、秀吉(池松壮亮)と小一郎(仲野大賀、のちの秀長)の羽柴兄弟が受け持った。具体的には、播磨(兵庫県西部)を秀吉が攻略し、但馬(兵庫県北部)へは小一郎が兵を進めた。
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第21回「風雲!竹田城」(5月31日放送)では、小一郎が但馬の要所にある竹田城(兵庫県朝来市)を、総大将として軍を率いて攻略する様子が描かれる。
竹田城といえば、雲海の上に石垣が浮かんで見える「天空の城」として知名度が高まり、交通至便とはいいがたい地域にあって、しかも標高353メートルの山上に築かれているのに、多くの観光客を集めている。「東洋のマチュピチュ」の異名もある。
天正5年(1577)11月、秀吉が播磨に進軍すると、同時に秀長も別軍を率いて但馬に侵攻。但馬の守護代だった太田垣(おおたがき)輝延(てるのぶ)が守る竹田城を攻略し、攻め落としたのちに秀長自身が竹田城代になっている。
すなわち「天空の城」は、まさに秀長ゆかりの城である。ただし――。
現在、山上に築かれ、雲上に浮かんでいる写真で名高い広壮な石垣は、このときから8年後に城主になった赤松広秀が整備したもので、秀長の時代にはもっと簡素な城だった。
一方、あまり知られていないが、竹田城から直線距離で12キロほどの場所に、秀長が家臣の藤堂高虎と一緒に築いた城があって、こちらは往時の痕跡をとどめているのだ。
■竹田城を真っ先に攻略したワケ
だが、最初に竹田城についてもう少し見ておきたい。秀長がこの地を優先的に攻略したのは、南方の直線距離で15キロほどの場所にある生野銀山を確保する目的も大きかった。軍資金を確保するためにも、銀山を押さえるのが重要だったのだ。
しばらくすると、ふたたび太田垣輝延が入城しているが、天正8年(1580)1月に秀長が取り戻し、同年4月には但馬一国をほぼ平定。秀長は竹田城を播磨統治の拠点とし、その城代(事実上の城主)を務めることになった。その後、本能寺の変を経て、天正11年(1583)4月に賤ヶ岳合戦で柴田勝家を破った秀吉が、本拠を姫路城(兵庫県姫路市)から大坂城(大阪府中央区)に移すまで、秀長が管轄した。
秀長が秀吉に代わって姫路城に移ると竹田城は配下の桑山重晴に預けられ、秀長が大和郡山城(奈良県大和郡山市)の城主になると重晴は和歌山城に移り、赤松広秀が竹田城主になって、いま見る姿に整えた。
山頂の本丸を中核に、尾根筋に沿って南北320メートル、東西110メートルにわたり、3方向に曲輪が連なり、いずれの曲輪も石垣で積み固められている。本丸の天守台にはおそらく三重の天守がそびえ、要所には重層の櫓が建ち、ほかの塁上には長屋形式の多門櫓や土塀が建ち並び、厳重な門が随所に構えられていた。
■「天空の城」のそばにある古城の価値
まさに総石垣による壮大な城で、当時の最先端の技術で築かれた。
それは赤松広秀の手柄ではない。豊臣政権として大坂城を守るための城だったからこそ、これほど広壮かつ堅固に築かれたのだ。
秀長時代の姿はどこにどう残されているか定かでないが、赤松広秀が整備した豊臣時代の姿はいまにとどめている。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で西軍にくみした広秀は、敗戦後、東軍に協力して鳥取城を攻めたまではよかったが、城下町に大火を招いた責任を問われ、家康に切腹を命じられてしまう。その後、竹田城も廃城になったため、江戸時代に手を加えられないまま、奇跡的に石垣等がほぼ残ったのである。
だが、竹田城の北方の有子山城(兵庫県豊岡市)には、秀長だけでなく、のちに築城の名人として名を馳せる藤堂高虎の初期の痕跡も、いまに残っている。
但馬の守護だった山名(やまな)祐豊(すけとよ)が天正2年(1574)、標高321メートルの有子山山頂部に築いた城で、竹田城と同じく、山頂部の主郭を中心に、3方向に延びる尾根上に曲輪が連なっていた。秀長は竹田城を奪還したのに続いて、天正8年(1580)4月から5月にかけて但馬の平定に取りかかり、有子山城も落城させたのだ。
■高虎が最初に手がけた石造りの城
山名氏の時代は土の城だった有子山城を、石垣の城に大きく改修したのは、城主になった秀長で、その工事を実際に指揮したのは、秀長の家臣だった藤堂高虎だといわれる。高虎の生涯について記した『高山公実録』に、「(高虎が)28歳のとき、羽柴秀長から出石(有子山)の築城を命ぜられた」という旨が書かれているのだ。
そうであれば有子山城こそが、高虎が最初に手がけた石造りの城ということになる。
竹田城と並んで但馬支配の拠点になり、その後、木下昌利、青木秀以、前野長康、小出吉政らが城代を務めた。
関ヶ原合戦後も小出家が城主となったが、吉政の嫡男の吉英は山麓に出石城を築き、高い山上にあって不便なこの城は廃城にした。このため、有子山城も江戸時代以降の手が加わらないまま、秀長と高虎による遺構が残されたのである。
登ってみたが、これがラクではない。谷筋にあったかつての登城路が通行できなくなっていて、尾根伝いを登らなければならず、それがかなりの急斜面なのだ。そのうえ、あちこちに岩が露出してすべりやすく、ロープを伝って登る箇所もそれなりに長い。
■往時の姿を残した荒々しい石垣
途中、山名氏時代の土造りの曲輪や堀切などを見ながら登りきると、最初に「井戸曲輪」が目に入る。ここは秀長による改修以降のもので、城内の飲料水を確保するための重要な曲輪の崩壊を防ぐために、7段の石垣で支えられている。
いよいよ山頂部に着くと、「第六曲輪」の石垣が目に飛び込む。自然石を積んだ、かなり荒々しい石垣だ。そこからは「主郭」までのあいだに、「第五曲輪」から「第二曲輪」まで石垣造りの曲輪が5段、主郭を含めれば6段、階段状に配されている。竹田城ほど石垣が残っておらず、また竹田城の石垣のようには整っていないが、山中の石を切り出して積んだと思われる石垣は荒々しくも生々しく、秀長の時代の城のあり方を実感させてくれる。
竹田城は山上の木々がよく伐採されているので、個々の石垣がよく見え、城の全体像も見渡しやすい。
同様に有子山城も、最近、木々がかなり伐採されたようで、秀長時代の城の構造がつかみやすい。
「主郭」は東西に約42メートル、南北に約20メートルとさほど広くはないが、北側と西側が、高虎が積んだと思われる高さ4~6メートルほどの、自然石を積み上げた野面積みの石垣で固められている。また、西側の虎口(城の出入口のこと)には23段の石段が残っている。
■秀長最初期の痕跡が残る貴重な城
「主郭」の東側には城内最大の曲輪「千畳敷」が広がる。東西約130メートル、南北約50メートルと広大で、石列によって3つの区画に分けられ、それぞれに礎石が残っている。ここが有子山城の居住空間で、御殿が建っていたと考えられる。築地塀や庭園の跡も確認できる。
また「主郭」と「千畳敷」は、同じ尾根上に連続して配置されているものの、両者のあいだは巨大な堀切(尾根を断ち切った空堀)で切断されている。この堀切は幅が約28メートル、深さが約12メートルもあり、これによって主郭の奥の居住空間を守っていたのだ。
大堀切の底はそのまま主郭の周囲をめぐる帯曲輪(帯状の細長い曲輪)になっていて、防御性が高められている。この巨大な堀切の周囲も木々の伐採が進み、全体像がつかみやすいのがいい。
まだ織田信長が健在だったころに羽柴兄弟が築いた城は、重要な城ほどその当時の痕跡をとどめていない。
たとえば、姫路城などには痕跡があるが、後世に大改修された城の一部に、その痕跡が見いだせるにすぎない。これに対して、あまり有名とはいえない有子山城には、羽柴兄弟の初期の痕跡、それもほかならぬ秀長の痕跡が、藤堂高虎との共同作業の結果として、よく残っているのである。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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