※本稿は、永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■「修会長がいらっしゃる」
磯﨑拓紀が大学を卒業し、スズキの「経営研修制度」を使いスズキ自販近畿に入社したのは2003年。基幹店である東大阪営業所に配属されて、営業マンとして社会人のスタートを切った。
働き始めて1年が経過する頃、ある情報により、営業所は緊張の渦に包まれる。
「修会長がいらっしゃる」
営業所に鈴木修がやってくるのは、この半年後である。が、この日を境に所内で連日のように対策会議が開かれる。
新入社員の磯﨑が「まだ、時間はありますけど」と言うと、「何かあるとな、社長が飛ばされるんだ」と上司は真顔で答えた。
社長とはスズキ自販近畿の社長を指す。
鈴木修が毎年秋に、工場監査を始めたのは1989年秋から。丸一日かけて工場の隅々まで歩き、無駄がないかをつぶさにチェックするのだ。技術屋ではなく、鈴木修は事務屋だ。生産技術に先入観がない分、逆に容赦がない。
■ショールームから整備工場、倉庫まで…
「工場にはカネが落ちている」。「重力と光はタダだ」(電気やガスを使わないようにする戒め)。「健康のために歩いているのか」(部品を歩いてとりに行く時間を削減せよという戒め)。「1部品、1グラム、1円低減」(軽自動車の新規格が導入され一回りサイズが大きくなった98年当時、生産現場に一層のコストダウンを促すために使った)。「小・少・軽・短・美」(製品や部品、設備まで含め、いかに小さく、少なく、軽く、短く、するかが、コスト低減と生産するクルマの燃費向上につながる)……。
だが、広い工場だけではなく、鈴木修は販売店にも監査にやってきていた。
「いつも現場を回っている私と、社長室で役員の報告を聞くだけの社長とを一緒にしてもらっては困る」の言葉通りだった。が、来訪を受ける現場は、緊張感に溢れかえる。
販売店にはショールームだけではなく、整備工場もあれば、サービスパーツを保管する倉庫、事務所、駐車スペースもある。
対策会議では、鈴木修がどういう経路で視察を行うのかを、まずは想定していく。いわゆる導線を決める。その上で、足りないモノ、無駄なモノ、見られると困るモノなどを選定。一部のドアを自動ドアにするなど、設備も更新していく。
■滞在1時間の「ビッグベア」
3カ月前ともなると、視察に備えた掃除を所員のみんなで始める。数日前からではなく、3カ月も前からだ。展示車両や商談する机と椅子、フロア、トイレはもちろん、来店客が入らない倉庫や給湯室、男女の更衣室なども含め、隅から隅まで施設全体をピカピカに磨き上げる。
1カ月前には、鈴木修が挨拶する場所、記念撮影をする場所を設定。スケジュールから時間を求め、記念撮影時の太陽の角度までをも計算に入れていく。念には念を入れた、水も漏らさぬ準備を進める。
果たして当日、ビッグベア(大きな熊)は現れた。ところが、事前に考えていた想定ルートを逸脱、好き勝手に自由に動き回る。
「この蛍光灯はいらない」、「取りやすい位置に部品棚のレイアウトを変えろ」、「なってないぞ」……。滞在していたのは、わずか1時間程度。
この1時間のために、店の半年間の多くが費やされた。だが、ピカピカにしたお陰で、社長が飛ばされることもなかった。さらに「店の設備が充実したのと、みんなが結束できたのは、会長訪問のお陰でした」と磯﨑は話す。
■「あの噴水止めてください」
磯﨑拓紀は、イソザキを創業した磯﨑孝の長男である。スズキでの研修を終えて、茨城に戻ってから、鈴木修の来訪を2度受ける。東大阪営業所での経験があったので十分な準備を行い、問題を起こすことはなかった。「営業マンからサービスマン、女子社員と、店の全員が修会長と握手を交わしてました。それと、来訪を前にきれいな看板に付け替えました」と拓紀。2015年12月の来訪時には、大きく「やる気」、小さく「感謝」と、鈴木修は色紙にサインを残していった。
資本関係のない副代理店にまで訪問する鈴木修。
その部品メーカーには、門をくぐった事務棟の前に大きな噴水があった。応接室で鈴木修は、部品メーカー社長に「立派な噴水ですなぁ。○○(会社名)さんのような大手さんは、やはり違います」などと褒め言葉を投げた後、すかさず言った。
「ところで、スズキ向けの部品を作っている間、あの噴水を止めてください。電気代が浮きますから、その分、部品の値段を負けていただけませんかね」、と。
部品メーカー社長は、度肝を抜かれてしまう。以来、鈴木修の訪問を受ける度、この会社では噴水を止め、さらに事務棟も工場も、電灯やエアコンをできる限り消している。暗くして鈴木修が去るのを、みんなでじっと待っていたそうだ。
やはり上場している、大手部品メーカーの役員は、2005年にこんなことを話していた。
「ホンダは、『多少高くてもいいから、新しい技術を入れてくれ』と言ってきます。
■この旅に、終わりはない
「運がよかったんだよ」
鈴木修は、よくこう言う。日本経済新聞社の『私の履歴書』に登場する多くの引退した経営者のように、「自分がやった」といった手柄話はまずしない。なぜなら、鈴木修は現役の経営者だったからだ。彼は、経営という名の長い旅を続けている。この旅に、終わりはない、と自分で決めていた。
ちなみに『私の履歴書』への登場を、鈴木修は嫌っていたし、最後まで出なかった。「親がどうで、出身がどこで始まり、こんな手柄があったとか……、あんな自慢話をよくぞ世間にさらせるものだ。俺には恥ずかしくてできん。昔の自慢ができるほど、経営は甘くはない」などと、個別の取材のときには繰り返し話していた。
この頃会見では「ボケない限りはやりますので、これからも宜しく」と戯けて話し記者たちの笑いを誘うが、ボケてる暇などはない。それが現実だった。
■「軽自動車を減産します」
「よし、決めたぞ!」
長考したわけではなく、まして悩み抜いた末の苦渋が伴ったわけでもない。
さわやかな夏の朝を迎えたスズキ会長兼CEO(最高経営責任者)の鈴木修は、浜松市蜆塚にある自宅で朝食を前に、“あること”を決断する。
2006年8月に入り、例年になく長かった梅雨がようやく明けて太陽が顔を出す。太陽の出現と同じように、経営者は新たな光を求めて決断した。
浜松市高塚町にあるスズキ本社は、連結売上高が2.7兆円に達する(2006年3月期)企業の建屋とは、失礼ながら思えない古い三階建てだ。価格が安い軽自動車で利益を上げるため必要でないものには投資しない鈴木修の経営姿勢が窺える。が、既にこの頃、建屋の中身は意外にハイテクだった。主な役員室にはカメラが設置されていて、会長室から各役員の動静をモニタリングできるし、すぐに連絡することもできる。出社すると鈴木修は役員を集めて、決断内容を伝えたが、部長以下の社員は誰も知らない。
8月9日午後、新幹線で上京。東京駅近くのビルで、鈴木修は3時には緊急会見を開いて、決定を公表した。
「軽自動車を減産します」
自動車業界にとって、“夏の衝撃”となる。なぜならスズキは、1973年にホンダを抜いて以来05年まで、33年間も軽自動車トップメーカーだったからだ。
■300万台計画の最後のワンピース
この日発表されたのは、小型車を中心とする世界生産量の拡大計画だった。
09年度の世界生産量を06年度比3割増の300万台に引き上げるため、エンジン生産の相良工場(静岡県牧之原市)敷地内に、08年秋稼働を目指して小型車組立工場を建設する。投資額は600億円。さらに、インドなど海外工場の生産もアップさせていく。
ここまでは、既に決めていたシナリオ。将来に向けた300万台計画という名のジグソーパズルを完成させて発表するための、最後のワンピースが軽自動車の減産だった。
理由は、「スイフト」や「エスクード」というスズキの小型車が、主に欧州市場で人気が高まったため。「イタリアではバックオーダーが大きすぎて、販売店は開店休業の状態。生産が間に合わんのだ」と鈴木修はこのときに訴えた。
新工場が完成するまでの当面の処置として、既存工場での輸出向け小型車生産を07年度までに9万台増やす目的で、逆に軽自動車生産を、06年度(10月~翌3月)3万台、07年度3万台の合計6万台減らすと発表したのだった。
拡大路線を是とする鈴木修が、“減産”を決断したのは、HY戦争時の81年に二輪車の生産ラインを止めて以来だった。
■34年ぶりの首位交代
結果を先に申し上げておくと、06年暦年ではスズキが首位を維持し、連続首位記録は“34年”とする。06年の軽自動車販売台数はスズキが61万1362台(前年比1.1%減)に対し、2位のダイハツは60万1271台(同2.2%増)。
シェアは、スズキが30.1%(05年は32.1%)、ダイハツは29.7%(同30.6%)だった。
1998年10月に最後の規格改定があった軽自動車だが、市場規模は翌99年から04年まで180万台台で推移。05年は192万台に伸びた。この間、スズキのシェアは30~32%だったのに対し、ダイハツは急伸する。99年27.0%だったのが05年には30.6%と3割の大台に乗せたのだ。
「ダイハツは、三菱自工やスバルなど失速した会社のシェアを取り込むのがうまい。これはトヨタが得意とするところであり、トヨタから学んだのだろう」と鈴木修は指摘していた。
06年の軽市場は202万3619台(前年比5.2%増)と、初めて200万台を突破する。「ヴィッツ」などの小型車と競合しつつ、さらに日産の新規参入による競争が激化しながらである。
逆に、登録車は371万5887台(同5.4%減)となり、「これは1977年の水準。軽が売れて登録車が減る傾向が鮮明に出た」と、志賀俊之・日産自動車最高執行責任者(当時)は話した。
暦年ではなく年度として捉えると、06年度(06年4月~07年3月)ではダイハツの61万6206台(シェア30.3%)、スズキ60万5486台(同29.8%)と、首位交代した。年度では実に34年ぶりのことだった。
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永井 隆(ながい・たかし)
ジャーナリスト
1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう。著書に『キリンを作った男』(プレジデント社/新潮文庫)、『日本のビールは世界一うまい!』(筑摩書房)、『移民解禁』(毎日新聞出版)、『EVウォーズ』『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。
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(ジャーナリスト 永井 隆)