圧巻だった。今季初戦となった全日本選手権で見せつけた姿は、ただその一言だった。


320点に迫るスコアでは表し切れぬ異次元の強さは、なおも進化を続けていることの証明だ。だがその裏側で人知れず抱えていた葛藤。暗闇の底から前に踏み出せたのは、「やっぱりスケートを好き」な気持ちだった――。

(文=沢田聡子、写真=KyodoNews)

圧巻優勝の全日本選手権で、羽生結弦は何を想っていたのか?

コロナ禍の世界へ向けて全力で楽しさを届け、戦い抜く姿勢を伝え、状況がよくなることを願う。難しさも抱えながら臨んだ全日本選手権で、それでも最高の滑りを見せた羽生結弦は、そのプログラムに全ての思いを込めている。

羽生にとり昨季の四大陸選手権以来、約10カ月ぶりの試合となる全日本選手権は、ロックナンバー『Let Me Entertain You』を使うショートプログラムで幕を開けた。イギリスの人気歌手、ロビー・ウィリアムズがワイルドなイメージで歌っているこの曲を、羽生は彼らしく少し上品に味付けし直し、しかし観客を巻き込む楽しさは十二分に取り入れて滑っている。

『Let Me Entertain You』に込めた思いを問われ、羽生は次のように語った。

「そもそもの選曲は(振付師の)ジェフリー・バトルさんがやってくださって。最初ピアノ曲を探していたんですけれども、ジェフリーさんもなかなかうまく決まっていなくて、2~3曲渡された中でも、やっぱり何か自分の中でしっくりくるものがなくて。ニュースだとか世の中の状況を見ている中で、やっぱり明るい曲の方が……。せっかく皆さんこんなつらい中でも、こうやって自分のスケートを見てくださっているのだと思うので、そういう中でちょっとでも明るい話題になったらと思いました」

『Let Me Entertain You』は、2016-17シーズンのショートプログラム『Let’s Go Crazy』(ジェフリー・バトル振付)で羽生が目指したところと同様に、観客と“コネクト”するプログラムだと思われる。『Let’s Go Crazy』では大きな歓声を浴びながら滑った羽生だが、コロナ禍の今、観客は声を出して応援することができない。

6分間練習の際「ああ、そういえば声、聞こえないんだな」と感じたという羽生だが、彼らしく気持ちを切り替えた。

「皆さんが新プログラムとか新しい衣装を見た時にかけてくださった声援だとか、そういうものを心の中で再生しながら、新しい応援の受け止め方をしていました」

そして演技中も、羽生はその姿勢を貫く。

「正直いって、歓声が聞こえないのはやっぱり残念でした。でもテレビやネットで見てくださっている方々は、多分すごい声をあげて応援してくださっていたんだろうな、となんとなく感じていたので、楽しみながらやらせていただきました」

「成長していないんじゃないか」昨季の不振で抱いた葛藤

羽生の華やかなスター性が発揮される『Let Me Entertain You』だが、制作過程にはコロナ禍のシーズンならではの苦労があった。本来振付師と共にリンクに立ち、意思疎通をしながら創り上げていくプログラムを、リモートで完成させなければならない。羽生は、バトルが送ってきたステップの場所を反対に置き換え、ジャンプを跳ぶタイミングを微調整し、音のとり方や手の振りをアレンジする作業を試行錯誤しながら行った。それは、想像以上に難しかったはずだ。

フリーを終え金メダリストとして臨んだ記者会見で、羽生は「自分自身で振り付けを考えなくてはいけないというプレッシャー、自分自身で自分をプロデュースしなくてはいけないというプレッシャー、それが皆さんの期待に応えられるのか」とその重圧を振り返っている。

フィギュアスケート界のスーパースターらしく、クールに滑り切ってショート首位に立った姿からは想像できないような暗闇を、羽生は通り抜けてきた。軍神と称される戦国武将・上杉謙信の生涯を描く大河ドラマ『天と地と』の曲を使うフリーで伝えたいことを問われた羽生は、率直にその苦悩を吐露している。

「自分自身去年のシーズンで、(いずれも2位に終わった)全日本やグランプリファイナルのこともあって『自分が成長していないんじゃないかな』『だんだん戦えなくなっているんじゃないかな』という思いがあったりして、『戦うの疲れたな』って思ったんですよ、一瞬。やめることはいつでもできるし、多分それを望んでいない、応援してくださる方々はたくさんいらっしゃると思うんですけれども。ただそういった戦いの中で、試合の中で得られる達成感とか、試合があるからこそ乗り越えることができる苦しみだとか、そういったものがやっぱり好きなんだな、とあらためて思っていた。

(『天と地と』は)上杉謙信公のお話なんですけれども、彼の中にある戦いへの考え方、そこには美学がある。犠牲があることへの葛藤から最終的に出家されていると思うんですが、そういった悟りの境地のようなところまでいった上杉謙信公の価値観とちょっと似ているかなと思って、そういったものをリンクさせながら滑らせていただきました」

『天と地と』、上杉謙信公と自らのキャリアを重ね合わせた大作

和風のプログラムである『天と地と』は、『SEIMEI』(シェイ=リーン・ボーン振付)の流れをくんでいるといえるだろう。世界最高得点をマークし無敵の強さを発揮した2015-16シーズン、五輪連覇を達成した平昌五輪シーズン(2017-18)、さらに昨季後半も滑った代表作を超えるものを創ろうという、羽生と振付師シェイ=リーン・ボーンの意気込みがうかがえる力作だ。

『天と地と』は体の前で両手を十字に交差する振り付けでスタートするが、ボーンは甲冑(かっちゅう)をイメージしたというその所作に、羽生は違う意味を持たせている。

「大河ドラマのタイトルをそのまま使わせていただいたんですけど、僕の中では『天と地と』って“と”で終わっていて、自分の中では『天と地と”人”』、もしくは自分、羽生結弦みたいなイメージがあって。『天と地の間に、俺がいるんだぞ』というようなイメージで、自分としては意味をつけてやっています」

また、最初に流れる琵琶(びわ)の音には戦いに行く決意を込め、違う曲から持ってきている最後の琵琶の音色には、謙信が出家する際に半生を思い描くイメージを重ねているという。また、『天と地と』と同じく故冨田勲氏が音楽を担当している大河ドラマ『新・平家物語』の曲も使っているという琴の音色では、謙信が武田信玄と川中島で戦った後、自分と向き合っている時間を表す。

「琴の音で、自分と向き合いながら鼓動が鳴り、血が流れている感覚や、スッと殺気が落ちていく感じが、感じられたらいいなと思っています」
「今回、このプログラムの選曲自体は自分がやっている。編集もかなりバージョンを作ってやったので、音自体にも(思いが)込められています。ただ僕は音楽家ではないので、やっぱりスケートと合わせた上でのものになっているのかな、という思いはあります」

「一人でやるのはもう嫌だ、もうやめよう」、そう思ってから…

自らの競技人生を投影させ、並々ならぬ思いがこもる『天と地と』を、羽生は完璧に滑り切る。3種類4本の4回転を含む全ての要素に加点がつき、演技構成点は5項目すべて9点台で、215.83というハイスコアをたたき出した。

「自分自身このプログラムにすごく思い入れはあって、曲を聴けばやはり感情はすごく入りますし、もちろん振りの一つひとつにいろいろな意味を込めています。ただ、その中でもやっぱりジャンプを完成させないと、やはりプログラムの一連の流れとして伝わるものが伝わらなくなってしまうと思うので。初戦だったとはいえ本当に自分が伝えたいこととか、このプログラムで見せたいことというのは、ジャンプが途切れなかったという意味でも、少しは見せられたのかな」
「ジャンプを力なくシームレスに跳べたというのが、一番表現として完成できた、よかったところだと思っています」

圧巻の出来栄えだった『天と地と』を見る限りでは信じられないが、コーチ不在のまま一人で練習を続けていた羽生は、一時期武器であるトリプルアクセルすら跳べなくなっていたという。

10月末頃まで続いたというその苦しい期間を、羽生は記者会見で振り返っている。

「一人だけただただ、暗闇の底に落ちていくような感覚があった時期があって。『一人でやるのはもう嫌だ、疲れたな、もうやめよう』って思ったんですけど……。『春よ、来い』と『ロシアより愛をこめて』というプログラムを両方ともやった時に『やっぱりスケート好きだな』って思ったんですよね。『スケートじゃないと、自分は全ての感情を出し切ることができないな』って。だったらもうちょっと自分のためにわがままになって、皆さんのためだけじゃなくて自分のためにも競技を続けてもいいのかな、っていう気持ちになった時が、ちょっと前に踏み出せた時ですかね」

エキシビションで滑った『春よ、来い』、世の中に一番伝えたいメッセージ

葛藤を抱えながら出場し、圧勝したこの全日本のエキシビションで、羽生は自らの救いとなった『春よ、来い』を滑っている。直後、「『春よ、来い』には今日はどんな思いを込めて滑ったのでしょうか」と問われた羽生は「そうですね、いつもより明るく。結構たくさん滑らせていただいているプログラムですし」と答え、言葉を継いだ。

「何よりもこの時期にぴったりというか、この世の中に一番伝えたいメッセージだったので。本当に少しでも心が温かくなるような演技がしたかったなと思います」
「僕のプログラムは一つひとつメッセージを込めているつもりですし、毎回そのプログラムごとに自分のオーラが変わるような演技をしたいと思っています。ぜひそれを感じていただけたらうれしいです」

人知れず抱えていた苦悩を乗り越えて勝ち切り、人々の心を温めるために自らを救ったプログラムを滑った羽生は、この全日本でさらなる高みに達したのかもしれない。

<了>