1970年1月27日、ジョン・レノンは自分の未来をかすかに捉えた。それはオノ・ヨーコと2人でオノと元夫トニー・コックスの間に生まれた娘と、コックスの新しい妻メリンダ・ケンダールを訪れるため、1カ月弱にわたって滞在していたデンマークから帰国した後だった。デンマークでの会話のなかで「カルマ(業)」というアイデアが話題に上り、語り合った。ティッテンハースト・パークの自宅で目を覚ました1月27日の朝、レノンの脳内にはその時のアイデアが残っていた。
起きて間もないうちにレノンはピアノの椅子に腰掛けると、「スリー・ブラインド・マイス(3匹の盲目ネズミ)」にも通じるベーシックな和音をもとに「インスタント・カーマ(Instant Karma! (We All Shine On))」を弾き始めた。「ダーリン落ち着くんだ/人類の仲間に加わらないといけない」と歌うこの楽曲は、アドバイスをもたらすと同時に警鐘を鳴らしている。1時間も経たないうちにレノンは作曲を終え、忘れないように何度も繰り返し弾いた。その時はレコーディングについて考えなかったのか? というローリングストーン誌の1970年のインタビューに対し、レノンはこう答えた。「作業部屋に行って何度も歌った。そこで『よし、やろう』と決めたんだ。そこからスタジオを予約した」
午後には、アビー・ロード・スタジオにレノンのクルーが勢揃いしていた。ジョージ・ハリスン、キーボード奏者のビリー・プレストン、そしてベーシストで友人のクラウス・フォアマンというお馴染みの面々だ。
夕方には、楽曲のリハーサルを既に終えていたレノンとミュージシャンたちに新しいコラボレーターが加わった。「背の低い男が走り回っていたんだ」とフォアマンは言った。「『あの背の低い奴は誰だ?』って思ったよ。みんな演奏し始めていて、サウンドもいい感じで、スウィングしていて、すぐにまとまった。すると例の男が『ちょっとシンバルの音量を下げてくれないか?』とか『みんな集まって聴いてくれ』とか言ってる。その瞬間、フィル・スペクターだって気づいた。それまで一体誰なのか、全然わからなかったよ」
その頃、レノンと音楽プロデューサーでポップス界の変わり者として有名だったスペクターは親しい間柄になっていた。ユーモアのセンスも似ていて、スペクターはビートルズの『ゲット・バック』に入りきらなかった楽曲をタッチアップし、後に『レット・イット・ビー』となるアルバムに取り掛かっているところだった。レノンの新曲に着手し、完成させる——どこかの段階でこうした決断が下された。
スペクターは「ウォール・オブ・サウンド」のアプローチをもとに、ピアノの部分を2倍、3倍と増やし、ドラムのビートをおさえるよう(シンバルも不要)ホワイトに指示した。「フィルがやってきて、『どんな感じにしたい?』って聞いてきた」とレノンは思い出をたどりながらローリングストーン誌に語った。「だから『1950年代の感じがいいな、わかるよね?』って答えたら『オッケー』って。あとはジャーン! 3回くらいはやったかな。フィルのところに行って、聴いた。そしたらもう完成さ。もう少しベースがほしい、くらいしかリクエストしなかったよ。後はお疲れ様って」
コーラス部分に厚みをだそうと、プレストンを含むセッション参加者の数名は近くのスピークイージー・クラブに行き、スタジオまで来て一緒に歌ってくれないか、と常連客に声を掛けた。そのなかには、キャヴァーン・クラブ時代にビートルズと会っていた歌手のベリル・マーズデンもいた。
レノンとオノにクレジットを入れ、プラスティック・オノ・バンド名義で1970年2月に英EMIから大急ぎでリリースされた「インスタント・カーマ」は単なる良作ではない。嵐のような騒々しさには、人を引き込む力があるのだ。レノンの周りにいた人々にとって、この楽曲はビートルズ後のレノンの人生を予告するものだった。これまでにレノンはビートルズの活動以外に楽曲をレコーディングし、リリースしてきた。オノとの2回にわたる実験的なアルバム『未完成』や、「コールド・ターキー」、「平和を我らに(原題:Give Peace Chance)」などがそうだ。しかし、「インスタント・カーマ」を生んだスピードとパワーは、ビートルズの3人なしでも自分だけで納得のいく音楽が作れることを証明した。「もちろん、それがフィルのすごいところなんだ」とレノンはローリングストーン誌に語った。「どのステレオがいいとか、その類のくだらないことはまったく気にしない。サウンドが良いか悪いか、良いなら傑作であっても、そうでなくても、キープしよう。
「『インスタント・カーマ』への取り組みにはシンプルさがあり、それはビートルズにはできないものだったと思う」とフォアマンは言った。「ジョンは前よりも自分が自由だと感じた。ジョンはいつもできるだけ早く形にしたい、と思っていたから。時々そうした感覚を失ってしまうことも感じていたんだ」とりわけ3カ月後に「ビートルズは終わった」とポール・マッカートニーが世に放った発言の反響は、計り知れないものになるのだった。