音楽評論家・田家秀樹がDJを務め、FM COCOLOにて毎週月曜日21時より1時間に渡り放送されているラジオ番組「J-POP LEGEND FORUM」。

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。
2019年12月は「80年代ノート」というテーマで、1980年から89年までの10年間を毎週2年ごと語るスペシャルマンス。様々な音楽が生まれていった80年代に何があったのかを語った本特集を、5週にわたり記事にまとめてお届け。最終週第5回目となる今回は、昭和が終わって平成になる、1988年と1989年。

Vol.5 1988年~1989年

松任谷由実 / ANNIVERSARY

こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは、1989年6月発売、松任谷由実さんの「ANNIVERSARY」。オリジナルは89年11月に出た『LOVE WARS』です。彼女にとっては80年代最後、そして当時史上最大セールスを記録したアルバムです。今日の前テーマはこの曲。

今週は最終週5週目。88年、89年。昭和が終わって平成になる。
そんな2年間です。昭和から平成に元号が変わっただけではありませんね。音楽の形が変わりました。アナログ盤が終わって、CDになる。大激変。LPという時代が過去のものになったんですね。それがもたらした最大の変化が、音楽の聴かれ方。大量消費。アナログ盤の時代には考えられなかった枚数というのが当たり前になっていったんですね。70年代も80年代もミリオンセラーというのは夢の数字でした。でも平成になってその規模が一気に膨れ上がった。ダブルミリオンの時代というのがやってきます。


その旗手であり象徴がユーミンです。87年12月に出た『ダイアモンドダストが消えぬまに』、そして88年11月に出た『Delight Slight Light KISS』、これがミリオンです。その2作の続きというんですかね。当時は”純愛三部作”と言っていましたが、その完結編が『LOVE WARS』です。”恋の任侠”というキャッチコピーがついていました。この頃から、ユーミンのアルバムは毎年11月末から12月、クリスマスソングが流れる街に彼女の新作が発売されるようになりました。駅とかレコード屋さんの店頭で、アルバムを積み上げて、POPが大々的に展示されて年末の風物詩として定着してきましたね。ユーミンの”純愛三部作”に限らず、80年代のほとんどのアルバムは都会のOLの恋のストーリーですね。女性たちの恋の経典として聴かれていたアルバムでした。で『LOVE WARS』が199万枚ですよ。そして、90年代に入って最初のアルバム『天国のドア』が200万枚という大台を超えました。「ANNIVERSARY」はそういう”純愛三部作”の締めくくりとも言える永遠のラブバラードで、彼女の代表作にもなりました。


こういう80年代後半の主役である女性アーティスト、そして女性バンド。そんな89年の年間チャート1位の曲をご紹介します。

PRINCESS PRINCESS / DIAMONDS(ダイアモンド)

PRINCESS PRINCESSの強さとは?

ヴォーカル奥居香、ギター中山加奈子、ベース渡辺敦子、キーボード今野登茂子、ドラム富田京子。この曲は、作詞が中山加奈子で、曲が奥居香ですね。ガールズバンドブームの話を先週しましたけど、バンドブームの中でTDKレコードという音響メーカー、カセットのメーカーがレコード会社を作って、そこでバンドブームに参加しようということでガールズバンドのオーディションをやったんですね。当初のバンド名は赤坂小町でした。彼女たちはアイドルバンドではなくて、ちゃんと音楽をやりたい、ちゃんとロックを作りたいということで、2年以上合宿をするんですね。そこで研鑽する。そして86年にPRINCESS PRINCESSとしてソニーから再デビューしたんですね。やっぱり、アイドルバンドではあったものの、全員が曲作りをしていたというのが彼女たちの強さでした。そして、彼女たちはガールズバンドのシンボル的な存在になりました。89年1月、ガールズバンド初の武道館公演。
そこから96年まで毎年武道館をやっていました。お正月はプリプリの武道館っていうのが恒例でした。年間チャートの89年、1位が「DIAMONDS(ダイアモンド)」、2位が「世界でいちばん熱い夏」、ガールズバンドが1、2フィニッシュを決めた。そんな89年でした。

続いて、88年の年間チャート1位の曲、光GENJI「パラダイス銀河」。

光GENJI / パラダイス銀河

1988年3月発売、光GENJI「パラダイス銀河」。年間チャート、シングルチャート1位。そしてレコード大賞の大賞ですね。アルバムも年間チャート1位は光GENJIですよ。この「パラダイス銀河」は、「STAR LIGHT」「ガラスの十代」に次ぐ3枚目ですね。作詞作曲は、飛鳥涼。彼はすでにシブがき隊に「MIDNIGHT 2 CALL」という曲を書いていましたけど、「パラダイス銀河」を聴いたときに、飛鳥さん作曲能力あるなあと思いましたね。
80年代のはじめは、たのきんーー近藤真彦、田原俊彦野村義男、この3人が男性アイドルの扉を開いた。ジャニーズ事務所の第二次黄金期、黄金期っていう意味ではそこからかもしれませんね。そして80年代の終わりに、それまでアイドルに縁がなかったニューミュージック系の作家を起用するようになる。この光GENJIと飛鳥の組み合わせというのは、本当に驚かされましたね。そしてジャニーズ事務所の作家を見る目。これは今でもありますけどね。一方で、チャゲ&飛鳥もやっていたわけですが、バンドブームの真っ最中ですよ。チャゲ&飛鳥もその中に巻き込まれそうになって、89年に『PRIDE』というアルバムを出して、バンドブームを横目で見ているんですね。つまり、俺たちの音楽にはプライドがあるということを「LOVE SONG」という曲の中で歌ったりしていました。俺たちはあのバンドブームに乗らないんだみたいな姿勢がちゃんとありましたね。

88年の4月4日、5日にBOØWYがLAST GIGSで解散して、氷室さんはソロになるわけですね。この88年のレコ大のシングルの大賞が光GENJIだったんですが、アルバム大賞は氷室さんだったんです。
氷室さんのソロデビュー作『FLOWERS for ALGERNON』がレコ大のアルバム大賞を受賞しました。その中から、やっぱりこれだな。「DEAR ALGERNON」。

氷室京介 / DEAR ALGERNON

氷室京介が挑んだ「ポピュラリティーのあるロックアルバム」

どっちにしようかなと思ったんですよ(笑)。話の流れだと「ANGEL」という選択もあるわけですけど、さっきアルバムの話をしたわけですから、ここでシングルの曲をかけるのも脳がないなと。で、アルバムの中で1番好きだった曲をかけました。氷室さんの曲の中でも、僕は3本の指に入る好きな曲です。そういうアーティストとの出会いの曲って、勝手に自分の中にあるわけです。もしこのアルバムでこの曲を聴かなかったら、僕は氷室さんとずっと付き合おうと思わなかったかもしれません。バンドで頂点を極めて、ソロで始める。そのアルバムの中で「ただのクズでいいぜ」って言った、この格好よさですよ。

88年のレコ大、実はこのとき僕は審査員だったんです。武道館で氷室さんの歌を見ていたんですね。氷室さんの挨拶が、「ポピュラリティーのあるロックアルバムを作りたかった。嬉しい」って言ったんです。80年代っていうのはロックがポピュラリティーを獲得していった10年でもあったんですね。BOØWYはそれをバンドで目指して、妥協しなかった。もちろん氷室さんが妥協したということではないですけど、商業ベースの中でどこまで先鋭的なことをやるかっていうのがBOØWYだった。氷室さんは、それをもっとメジャーなフィールドの中、もっとポピュラリティーのあるロックの形としてやろうとした。シングルでいうと、それが「ANGEL」だったんですね。で、アルバムの中の核だったのがこの曲ですよ。

88年の年間のアルバムチャート。1位が光GENJIです。2位がユーミンの『ダイアモンドダストが消えぬまに』、3位が渡辺美里の『ribbon』です。4位が久保田利伸さんの『Such A Funky Thang!』、そして5位が長渕剛さんの『NEVER CHANGE』、6位が桑田佳祐さんのソロ1st『Keisuke Kuwata』、7位がレベッカの『Poison』、8位がBOØWYの『LAST GIGS』、9位が光GENJIの2枚目『Hi』。そして10位が氷室さんの『FLOWERS for ALGERNON』。で、12位に浜田省吾さんの『FATHERS SON』が入っているんですね。この88年の年間チャートというのは、僕らが聴いてきた音楽というか、見てきた時代がそのまま反映されているランキングだなと改めて思いましたね。年間チャートが全然時勢と違うときもありますから。

それでは4位に入っていた久保田利伸さんの『Such A Funky Thang!』の中から「Dance If You Want It」・

久保田利伸 / Dance If You Want It

88年9月に発売になりました久保田利伸さんのアルバム『Such A Funky Thang!』の1曲目です。今も歌っていますね、この曲。2枚組のアルバムでした。2月に発売になったシングル『You were mine』がトレンディドラマ『君の瞳をタイホする!』の主題歌になった。ドラマ主題歌で売れるっていう80年代の方程式は、この88年、89年までずっと生きていたんですね。『You were mine』が年間のシングルチャートのほうにも入ってくるんですけど、これはアルバムに入っていなかった。このへんがアルバムに対しての当時の彼の考え方だったんじゃないでしょうかね。アルバムで勝負する。アルバムがどこまで理解されていたか。

久保田さんは、90年代に入ってNYに活動拠点を移してしまうわけです。その当時のことを彼に聞くと、なんでNYに行ってしまったか。日本には一緒にやりたいグルーヴピープルがいなかったって言っていましたね。確かにドラマの主題歌で売れたりもして、アルバムチャートも年間4位までいったものの、やっぱりまだ日本はそういう時代じゃなかった。開花したものの、本当にまだファンキーが根付いたわけではなかったのかもしれません。89年、ファンキーステーションFM802が開局するのは、このアルバムの翌年でした。

浜田省吾 / Rising Sun (風の勲章)

1988年3月に発売になったアルバム『FATHERS SON』の中の1曲ですね。84年の『DOWN BY THE MAINSTREET』、86年の『J.BOY』、そして『FATHERS SON』が三部作でしたね。70年代にデビューしたとき、デビューアルバム『生まれたところを遠く離れて』ではできなかったことがいろいろあった。まだ自分は未熟だった、そういう時代でもなかった。あのアルバムの主人公だった路地裏の少年が、どんなふうに成長していったのかというのを、この3枚のアルバムで表現していますね。

『FATHERS SON』というタイトル、テーマが父親です。彼自身がちょうどお父さんを亡くされたというときで、1945年から日本の戦後の歩みを父親探しと歌ったアルバムでしたね。僕らはアメリカが日本を犯すことによって生まれたのではないかと、そういうアイデンティティを問うた。『J.BOY』はそういうアルバムでしたけど、その完結編でした。88年3月からはじまった『FATHERS SON』のツアーは100本あって、89年2月に終わったんです。その間、夏のイベント「A PLACE IN THE SUN」が静岡県浜名湖の湖畔、渚園でありました。これがソロアーティストの当時最大動員でした。拓郎さんのつま恋を凌いだ67000人。

88年の秋から天皇陛下の容態が思わしくなくなって、このツアー中、89年1月7日に天皇が崩御されたんですね。8日から平成になりました。僕、昭和最後のコンサートも、平成最初のコンサートも、浜田さんだったなと思いますね。昭和最後のコンサートで、浜田さんが「昭和について考えてみるのもいい機会ではないか」と言ったのを覚えています。で、平成になってすぐ発売されたのが次の曲です。

美空ひばり / 川の流れのように

昭和から平成へ、時代の変わり目にデビューしたアーティスト

作詞が秋元康さんで、作曲が見岳章さん。平成になって3日後に発売されたシングルです。ひばりさん最後のシングルになりました。レコード会社が用意したのは違う曲だったんですね。でもひばりさんが若い人の曲を歌いたいということで、秋元さんから随分前から届いて、ディレクターの机の中に眠っていた企画書が息を吹き返し、こういう曲が生まれました。

このころは時代を思わせる出来事がずっと続いていますね。89年2月、平成になってからオフコースが東京ドームで解散しました。BOØWYのLAST GIGSの約1年後。84年からオフコースは4人で活動していたわけです。88年からはじまった最後のツアー「STILL a long way to go」、これは83カ所102公演ですよ。浜田さん100公演、オフコース102公演、この数字を今の若いバンドに言ったらどう考えるんだと、声を大にして言ってしまいます。その最中に解散が発表されましたね。オフコースの東京ドームの解散コンサートの最後、小田さんのセリフ「ここから先はみんながオフコースだからね」。小田さんはそういう客席に向かって歩み寄ったようなMCを当時はしませんでしたから。今は違いますけど、こういうことを言うんだ小田さんと思った記憶がありますね。小田さんは今も現役です。たくさんのオフコースに支えられております。

そういう変わり目にデビューした人たちももちろんいたわけです。88年9月にデビューしたのがBzですね。TM NETWORKのサポートギタリストだった松本孝弘さん。新たにデモテープを聴きまくって探した稲葉浩志さん、この2人でした。89年3月にデビューしたのがこの人たちです。89年9月に発売になりましたDREAMS COME TRUE、3枚目のシングル「うれしはずかし朝帰り」。

DREAMS COME TRUE / うれしはずかし朝帰り

ドリカムのデビューは89年3月、『あなたに会いたくて』だったんですが、89年にシングルを4枚出しています。その中の1枚がこの3枚目の「うれしはずかし朝帰り」ですね。ドリカムを初めて観たのが、先週お話した87年からはじまった「広島ピースコンサート」。89年に、ドリカムも出ていたんです。デビューした直後だったので、噂のドリカムというのが音楽業界の中にわーっと広まっていたんですね。どんなバンドなんだろうと思って見たら、え、こんなにダンサブルで、こんなにバンドサウンドでジャジー、ソウルなんだと思いましたね。華やいでいて明るくてという感じが、久保田さんがやろうとしていたファンクミュージックとはちょっと違うおしゃれさだった。吉田美和さんのあっけらかんとしている明るさですよ。特にこのタイトル。「うれしはずかし朝帰り」。なんだこのタイトルはと思いましたね(笑)。朝帰りは当時もありましたけど、どこかで親の目を盗んだり、実家にいる人はこっそり帰らないといけない。どこか恥ずかしいこと、してはいけないことをしている感覚があったわけですが、嬉しいわけで、堂々と朝帰りを歌ってしまったというのが、ユーミンのラブソングとは違う時代が来たと思いました。ユーミンはどこかウェットなんですね。音楽の曲調も、歌われている世界もそうですし、女性の恋心を、どこか恥じらいみたいなものがあった。ドリカムに恥じらいがないということではないんですけど(笑)。ある種違う女性の流れを感じる音楽という気がしましたね。

先ほど美空ひばりさんをおかけしましたけど、戦後の女性の夢と憧れの的が美空ひばりさんだったとしたら、70年代80年代の対象がユーミンだと思うんですね。ユーミンの時代は、女性も大学に行ったりする時代で、働く人たちも増えてきた。そういう人たちの日々の喜怒哀楽が歌になっている。で、ドリカムですよ。ここから平成が始まったわけです。ある種、平成の女性のシンボルになっていくのがドリカムですね。マハラジャ、お立ち台絶頂期ですからね。日本人がバブルに浮かれていた。そんな時代の女性の代表的な歌。

そういう流れに反発していた人の曲をお届けします。88年11月発売、長渕剛さん「とんぼ」。

長渕剛 / とんぼ

1989年度の年間チャート3位ですよ。1位がプリプリの「DIAMONDS(ダイアモンド)」、2位もプリプリの「世界でいちばん熱い夏」、3位がこれですからね。1989年に男性で1番売れたシングル。ドラマ『とんぼ』主題歌。長渕さんがドラマの主演をいろいろするようになっていた時代ですね。アルバムは89年3月に出た『昭和』。昭和とトンボです。平成が近代化、都会化、バブルを突き進んでいく。そんな年だったとしたら、この「とんぼ」と昭和は、どこか昭和をひきずっていますね。80年代後半の長渕さんはいろいろ格闘していましたね。フォークで彼はデビューしたわけですが、そこからロックに変わっていく。84年のアルバム『HOLD YOUR LAST CHANCE』はアメリカで録ったんですね。プロモーションビデオも撮っていました。

85年のツアーで体調不良になったんですね。病院を抜け出して武道館のステージに立って、終わってからそのまま病院に行った。覚えていますね。「明日へ向かって」という最後かアンコールで、長渕さんもフラフラでマイクに寄りかかるようにして歌いきり、そのまま救急車に乗って行った。86年のアルバム『STAY DREAM』、このときにインタビューしたんです。復帰第1作で、ギター1本でアルバムを作ったんですね。インタビューをやるとき、「さあやろうか」と言ったときの顔はよく覚えています。いい顔をしていたな。87年からドラマに出るようになって新しい作風を作り上げていきました。87年の『LICENSE』が、レコード大賞のアルバム大賞を取りました。

そんな流れの到達点が『昭和』でした。昭和から平成へ。そういう流れの中で、この人たちを忘れることができません。1988年8月15日発売、RC Successionの「サマータイム・ブルース」。

RC Succession / サマータイム・ブルース

80年代という時代は昭和の終着点

アルバムは88年8月15日に発売になった『COVERS』。洋楽のスタンダードに清志郎さんが日本語をつけて歌った。発売元のレコード会社東芝EMIが「このアルバムは素晴らしすぎて出せません」という新聞広告を出して、発売ができなかった。で、キティレコードがその受け皿になってアルバムチャート1位になりました。清志郎さんは、これに収まらず89年11月に覆面バンドTHE TIMERSを結成してアルバムを出しました。THE TIMERS、おもしろかったですね。生放送で予定にない曲を歌ったり、タブーを茶化しておもしろがっていたというのかな。ある意味ではバンド生命をかけて冗談をやっていたというそういうバンドでしたね。THE TIMERSの学園祭おっかけルポっていうのをやったことがあるんですよ。シンコーミュージックから出していた『SHOUT!』という雑誌で、早稲田と駒沢ともう一カ所女子大があったんじゃないかな。僕らは先回りして、バンドの到着からライブの模様を観る。次の大学にバンドが行くのをさらに地下鉄で先回りして、次の大学で待っているというライブルポをやりましたね。そのころの学生さんはかなり大人しくなっていたので、THE TIMERSに煽られて、圧倒されていましたね。清志郎さんが亡くなって今年がちょうど10年です。令和元年のこの番組の最後の曲。88年8月発売、RC Succession『COVERS』から「サマータイム・ブルース」でした。

「J-POP LEGEND FORUM」

流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。5週間、本当に楽しませていただきました(笑)。ありがとうございました。かなり個人的な10年間、ヒストリー、グラフィティーでしたけど、昭和から平成になりました。そして今年、平成から令和になりました。そうやって考えると、80年代という時代は昭和の終着点、昭和もここまで来たんだって、いろんな意味で象徴的な10年だったなと思いますね。例えば、メディアもツールもいろいろ変わりました。80年代の最初はウォークマンですよ。カセット。そして、その後でCDが登場して、アナログがなくなった。8cmCDというのがありましたね。さらにMDとか、DATというのもありました。機材があっても、まったく使い物にならないゴミにしかならないっていう。これはオーディオメーカー、電機メーカーがこうやってしてしまったんでしょうね。これも日本の音楽業界の一つの宿命かもしれませんが、今カセットがブームなんだそうです。

変わったことと変わらないこと。その時代が生んだ音楽。そして時代を超えた音楽。いろいろありました。その時代なりの聴き方というのもありました。今年から始まった令和は、こういう時代を支えてきた若者たちが老人になっていく時代なんですよ。新しい老人音楽が登場するという、そういう時代なのかもしれません。

今月からこの番組はRolling StoneのWebで文字起こしをしてくれています。聴き逃した方、Rolling Stone JapanのWebサイトで文字で5週分読むことができます。ぜひそちらでお楽しみください。

FM COCORO「J-POP LEGEND FORUM」。制作・加藤与佐雄、鹿野明、構成とお相手は田家秀樹でした。

J-POPの歴史「1988年と89年、CDが切り開いたミリオンセラーの時代」

「J-POP LEGEND FORUM」でDJを務める音楽評論家・田家秀樹。手にしているのは今回オンエアした浜田省吾『FATHERS SON』のCDジャケット。

<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソナリティとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
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「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
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