「A-wop bop-a-loo-bop, a-lop bam boom」の雄たけびとともに、故シンガー兼ピアニストは歯止めのきかない反骨精神を体現し、ジョン・レノンからジミ・ヘンドリックス、デヴィッド・ボウイまで広く影響を与えてきた。後世のロックスターに道を切り拓いた故・リトル・リチャードのへらず口と制御不能なエゴをロブ・シェフィールド氏が振り返る。


「俺は口数(mouth)専攻だ」

反逆、憤怒、スキャンダル、性欲旺盛で自己中心的、乱痴気騒ぎ、乱闘騒ぎ、巨大な髪にマスカラ――これら全て、リトル・リチャードがロックンロールにもたらしたものだ。彼は50年代ロックのパイオニアたちの中でも特に騒々しく、ワイルドで、無作法だった。一番の問題児で、誰の手にも負えない自由人だった。彼はロックスターの生みの親。だからこそ、リトル・リチャードが87歳でこの世を去り、世界中が悲しみに暮れているのだ。「女はそれを我慢できない」「トゥッティ・フルッティ」「スリッピン・アンド・スライディン」「グッド・ゴーリー・ミス・モーリー」「ヒービー・ジービーズ」――これらの曲は、これまで反逆児たちのハートを魅了してやまなかった。1970年、ローリングストーン誌のジャン・S・ウェンナー記者に音楽の嗜好を訊かれたジョン・レノンは、ただ一言「A-wop bop-a-loo-bop, a-lop bam boom」と答えた。

1955年、例の雄たけび――「トゥッティ・フルッティ」のオープニングのシャウト――がリトル・リチャードのキャリアの始まりを告げた。それはジョージア州マコンの貧しいゲイの黒人少年が、ファルセットの叫び声を炸裂させ、ピアノをかき鳴らし、高さ6インチものリーゼント頭で、俺様の時代が来たと世界に宣言する声だった。伝説となった1970年のローリングストーン誌の巻頭記事で、リトル・リチャード本人もこう語っている。「俺の家族はみんなリズム&ブルースが好きじゃなくてね。ビング・クロスビーの『Pennies From Heaven』やら、エラ・フィッツジェラルドばっかり聴いていた。
これよりもっと賑やかなやつがあるとは思っていたが、どこで見つかるものかさっぱり分からなかった。それが見つかったんだよ。俺の中にね」

●映像で振り返るリトル・リチャードの歩み

彼は音楽業界きっての大口叩きで、制御不能なエゴの持ち主だったことでも有名だ。1987年のドキュメンタリー『チャック・ベリー/ヘイル・ヘイル・ロックン・ロール』には、ベリーがボ・ディドリーやリトル・リチャードと過ごした日々を振り返るシーンがある。自分のギャラに不平をこぼしたチャックが「俺は数学(math)専攻だぜ」と冗談を言うと、リトル・リチャードは「俺は口数(mouth)専攻だ」と言い返した。

ポールもディランもボウイも、みんな大好きだった

1932年、本名リチャード・ペニマンは12人兄弟の1人として生まれた。父親は密造ウィスキーを販売していたが、ゲイだという理由で13歳のリチャードを勘当した。リチャードは大道芸一座と巡業しながら、曲作りを始めた。正統派のジャンプブルース寄りの曲を書いたが、鳴かず飛ばずで終わった――22歳になるころには彼も巡業から足を洗い、地元のバス発着所で働いていた。そこで最初のヒット曲が生まれた。「グレイハウンドのバス発着所で皿洗いをしていたんだ」と、リトル・リチャードはローリングストーン誌に語った。「ボスに言い返せなくてさ。
奴は鍋をわんさと持ってきて、俺に洗わせるんだ。ある日、こうつぶやいた。『何とかして、あの野郎に鍋を持ってこさせないようにしないと』 で、その後口から飛び出してきたのが『A-wop bop-a-loo-bop, a-lop bam boom、やってられるか!』 まさにあの時の俺の心境だった。つまり『トゥッティ・フルッティ』は厨房で作られたってわけさ」

世界中の誰もがリトル・リチャードの叫び声を聞き、これだ、と言った。物憂げなロンドンの街では、デヴィッド・ジョーンズという名の少年が「神のお告げだ」と悟った。それがきっかけで、彼はデヴィッド・ボウイとなった(彼が子供時代に持っていたリトル・リチャードの写真は、巡回回顧展『デヴィッド・ボウイ・イズ』でも展示された)。「リトル・リチャードはとにかく現実離れしていた」と、ローリングストーン誌にも語っている。「この世のものとは思えない。そうだろ、あんなの誰も今まで観たことない」

この投稿をInstagramで見るDavid Bowie(@davidbowie)がシェアした投稿 - 2020年 5月月9日午後2時12分PDT
この投稿をInstagramで見るPaul McCartney(@paulmccartney)がシェアした投稿 - 2020年 5月月10日午前4時12分PDT
リバプールでは、若きビートルズがあの声を研究しながら青春時代を送っていた。「荒々しい、しゃがれた声で叫ぶんだ」と、ポール・マッカートニーも伝記『メニー・イヤーズ・フロム・ナウ』の中で当時を振り返る。「幽体離脱体験みたいなものだよ。今この瞬間の感覚をすべて脱ぎ捨てて、頭上1フィート辺りまで飛び出して歌わないと、ああは歌えない。
自分の殻の外に飛び出さないと」ボブ・ディランは高校の卒業文集に、将来の夢は「リトル・リチャードとの共演」と書いた。



ビートルズの「アイム・ダウン」に始まって、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの「トラヴェリン・バンド」、プリンスの「ベイビー・アイム・ア・スター」まで、数えきれないほど多くのアーティストが自分流の「A-wop bop-a-loo-bop, a-lop bam boom」を生み出そうとしてきた。1966年、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークで行われたビートルズ最後のコンサートのトリを飾ったのは「のっぽのサリー」。遡ること10年前、ジョンの気を惹こうとしたポールが最初に演奏した曲だ。『ホワイト・アルバム』のレコーディング中、4人はある晩ひと息入れようとポールの家へと向かった。ちょうどTVでは、当時にしては珍しく、リトル・リチャードがカメオ出演していた1956年のミュージカル映画『女はそれを我慢できない』が放映されていた。その時生まれた曲が「バースデイ」だ。

レッド・ツェッペリンは代表作となる4枚目のアルバムのレコーディング中、「フォア・スティックス」のリハーサルに行き詰っていた。気晴らしにボンゾがリトル・リチャードの「キープ・ア・ノンッキン」のイントロを演奏した。ペイジがそれに続いた。そしてたった4テイクで、トリビュート曲「ロックン・ロール」を完成させた。リチャード・トンプソンのように、比較的地味なケルトバンドさえもオマージュを捧げている――1988年のソロアコースティック・コンサートで、鳥肌ものの「Heebie Jeebies」を演奏してくれたのを、筆者も目撃した。


ジェンダーの壁を壊す反逆児

多くの偉大なるロックのパイオニア同様、彼もまたジェンダーの壁を壊す反逆児だった。もっとも、彼は誰よりも突出していたが。彼が歌のお手本にしていたのは主に女性たちだった。「ウー・オォオォー、という俺のシャウトはマリオン・ウィリアムズという女性を真似たんだ」と、1990年のローリングストーン誌とのインタビューで語っている。「それからルシール・アァーってやつ――あれはルース・ブラウンからいただいた。『ママァー、彼ったらあなたの娘にひどい仕打ちをするのよ』って彼女の歌い方が好きでね。全部取り入れた」 彼が小銭稼ぎで最初に聴衆の前で歌った曲は、シスター・ロゼッタ・サープの曲「Strange Things Happening Every Day」だった。彼は自らStrange Things、つまり摩訶不思議な存在になることに生涯を捧げた。

「トゥッティ・フルッティ」が産声を上げたのは、ニューオリンズの有名なJ&Mスタジオ。パンブス・ブラックウェルがプロデューサーを手がけ、クレセントシティの有名スターが勢ぞろいした。ドラムにアール・パーマー、ベースはフランク・フィールズ、サックスはリー・アレン。リトル・リチャードは一夜にしてスターになった。
『女はそれを我慢できない』にカメオ出演した同じ年、彼は映画『Dont Knock the Rock』にも出演し、存在感をアピールした(裏街道のドラァグクイーンに捧げた頌歌「のっぽのサリー」を熱唱)。一躍スターになっても、彼の破天荒な性格は変わらなかった。80年代にはかの有名な台詞を残している。「俺がデカマラより好きなものがあるとすれば、さらに特大級のデカマラだ」また長年にわたってドラッグを愛用し、ローリングストーン誌にもこう語った。「俺の鼻の穴はディーゼルトラックが通れるほどでかいんだ」

名声が頂点を迎えたとき、彼は突然宗教に目覚め、アラバマ州の聖書神学校に通い、祖父と同じように聖職者の道を歩んだ。彼は福音と肉体の果て亡き戦いのシンボルとなった。1958年以降、彼はトップ10入りを果たすことはなかった。だがもちろん再び音楽界ににカムバックし、60年代にはジミー・ジェームズという若きギターの名手とツアーを回った。のちに独り立ちし、ジミ・ヘンドリックスとして有名になった青年は、師匠からショウマンシップの何たるかを存分に教わったことを証明した。だが、リトル・リチャードのバンドにいる限り、ボスより目立つことはご法度だった。「ある晩黄色い歓声が聞こえてきたと思ったら、奴に向けられたものだった。てっきり俺に向けられたんだと思ってたよ。
だけど、奴が歯でギターを弾いたのはそれっきりだった。二度とやらなかったよ。奴が二度と注目を浴びないようくぎを刺したからな。問題解決! あれはイカンってことをハッキリさせたのさ」

「制御不能なエゴ」と「自由の雄たけび」

その後、リトル・リチャードはトーク番組の常連となった。事あるごとに、ジョニー・カーソンやディック・カベットを相手に、いまも自分が偉大で、ハンサムで、ジョージアの誇り、鋼のリベラーチェであるかを豪語した。自分が元祖であることを世に知らしめることが大好きだったが、同時に後継者たちにも称賛を送っていた。「ああ、プリンスは大好きだ」と、1990年に語っている。「マイケル・ジャクソンも好きだし、ボン・ジョヴィも好きだ。ブルース・スプリングスティーンもいい。みんな好きだよ」ジョン・ウォーターズ監督は映画『ピンク・フラミンゴ』で、「The Girl Cant Help It」を印象的に使っている

1988年のグラミー賞で、授賞式側は愚かにも最優秀新人賞のプレゼンターを彼に依頼した。TVの生放送でリトル・リチャードにマイクを渡すことは、アナーキーに印籠を渡すに等しいこととは知らずに。彼は期待通り長々と説教を垂れ、賞の授与を拒んだ。「最優秀新人賞は……俺! 俺は今までひとつも賞ももらってない! お前たちは俺にグラミーをよこさなかったじゃないか、何年もずっと歌ってるってのに! 俺がロックンロールを作ったんだぞ!」観客も始めのうちは喜んだ――「ああ、やっぱり彼だ!」――だが、次第にこの男が本気であることに気が付いた。彼は封筒の中身を読む気も、誰かにスポットライトを譲る気もさらさらなかった。共にプレゼンターを務めたデヴィッド・ヨハンセンは困り果てたように立ち尽くしていた(可哀そうなテレンス・トレント・ダービーは、他のプレゼンターと同じように、自分の名前が呼ばれるかもしれないと期待しながら舞台袖で待機していた。結局、受賞者はジョディ・ワトリーだった)。

リトル・リチャードは手の付けられないほどクレイジーなロックンロールの精神を、お前はクズだと言われ続けた少年の声を体現し、自分こそがすべてだと世間に轟かせた。だからこそ、「リップ・イット・アップ」「トゥッティ・フルッティ」「女はそれを我慢できない」はいまも我々を圧倒する。だからこそ、「A-wop bop-a-loo-bop」は今も自由の雄たけびとして鳴り響く。だからこそ、世界はこの男を永遠に愛し、記憶に刻み続けるだろう。
編集部おすすめ