しかし、中にはその親切を「権利」だと勘違いし、感謝を忘れた傲慢な大人がいるようです。
今回の取材は、何気ないバスの車内で起きた少し厄介な一幕です。
静かな朝の楽しみと、わずかな“当たり席”
今回話を聞いたのは、都内で働く雑誌編集者の小堀さん(仮名・29歳)。出版社に入社して数年、まだ“駆け出し”と自称する彼にとって、毎朝のバス通勤は欠かせない大切な空間だそうです。「満員電車がどうしても苦手で。多少時間がかかっても、バスのほうが落ち着くんですよ」
自宅からターミナル駅までは、およそ30分。短すぎず長すぎないこの時間が、小堀さんにとっては“自分だけの時間”だといいます。特に好きなのは読書で、通勤用のトートバッグには常に単行本が何冊も入っているそうです。
「朝に本を読めると、その日ちょっと得した気分になるんです」
ただし、その楽しみにはひとつ条件があります。座れることです。
彼の乗る停留所は、大規模マンション群の近くにあり、始発に近いにもかかわらず乗客は多く、座席の確保は運次第。
「本当、ギリギリなんですよ。座れない日はもう諦めて立ってます」
そんな中、ある日の朝は“当たり”でした。
「この日は本当にいいスタートでしたね。静かで、ちょうどいい揺れで」
しかし、その穏やかな時間は、次の停留所で大きく揺らぐことになります。
途中から乗ってきた妊婦と老人
バスは順調に走り、いくつかの停留所を経るうちに、車内はほぼ満席となっていました。そんな中で停車した次の停留所から、ひときわ目を引く乗客が乗り込んできます。大きく膨らんだお腹の妊婦と、その後ろに続く高齢の男性です。「正直、どちらも大変そうだなとは思いました。でも、パッと見たときに、妊婦さんのほうが明らかに辛そうだったんです」
というのも、その妊婦はお腹の赤ちゃんだけではなく、背中にも幼児をおんぶしていたのです。身体への負担は想像以上だったはずです。
「見てるだけで、あれはきついだろうなって思いましたね」
その状況にいち早く反応したのは、前方に座っていた年配の女性でした。
「お母さん、こっちに座りな」
そう声をかけ、自然な流れで席を譲ったのです。車内にほんのりと温かい空気が流れた瞬間でした。
「すごくいい流れだなって思って見てました。ああいうのって、なかなか見られないじゃないですか」
ところが、その空気を一変させる出来事が起きます。
突如響いた怒声と、凍りつく車内
「年寄りが立ってるのが見えねえのか!」突然、車内に響いた少し枯れた声。発したのは、先ほど妊婦の後ろに立っていた高齢男性でした。
男性は続けて、「高齢者に席を譲るのがルールだろう」と語気を強めます。
その言葉にはどこか一方的な主張が含まれていました。周囲の乗客たちは、一斉に視線を逸らします。明らかに空気は冷え込み、誰もが関わることを避けようとしているようでした。
「正直、あの場で何か言える人ってなかなかいないと思います。自分もそうでしたし」
しかし高齢男性は止まりません。「老いた人間を無視するのか」「マナーがなっていない」と、次第に言葉はエスカレート。
バスの中は、先ほどまでの穏やかさが嘘のように重苦しい空気に包まれていきました。
「空気がピリついてて、本に集中なんてできる状況じゃなかったです」
誰もが沈黙を選ぶ中、ひとりの若い男性が口を開きます。
勇気ある一言と、拍手のジェスチャー
その男性は、小堀さんの一つ前の席に座っていた人物でした。静かに立ち上がると、高齢男性に向かってこう声をかけたといいます。「俺、席替わってもいいけどさ。あなた、ちょっと威勢良すぎない?」
車内の空気が一瞬で張り詰めます。しかし彼は言葉を続けました。
「こういうのってさ、善意でやってることなんだよ。みんなそう思ってると思うよ。ほら、ここ座りなよ」
その口調は決して怒鳴るものではなく、あくまで冷静。それでいて、場の空気を代弁するような力強さがありました。
「すごいなって思いましたね。あの状況でああいう言い方ができるのは」
周囲の乗客の中には、両手で拍手のジェスチャーをする人もいました。目立たないながらも、確かに“共感”がそこにはありました。
その言葉を受けた高齢男性は、一転して静かになります。何かを小声でつぶやいた後、結局席には座らず、次の停留所で降りていったといいます。
「あの瞬間で流れが変わりましたね。正直、ほっとしました」
再び動き出したバスの中で、小堀さんは本を開き直したそうですが、男性の勇気ある行動を目の当たりにして、少し自分に物足りなさを覚えたそうです。
<TEXT/八木正規>
【八木正規】
愛犬と暮らすアラサー派遣社員兼業ライターです。趣味は絵を描くことと、愛犬と行く温泉旅行。将来の夢はペットホテル経営
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