各担当記者が推す選手を紹介する「推しえて」第7回はDeNA・勝又温史外野手(25)。2018年ドラフト4位で投手として入団も、イップスを発症。

21年オフに育成契約を結び直して野手に転向。プロ7年目でようやくつかみ取った初安打とその背景に迫った。(取材・構成=太田 和樹)

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 待ち望んでいた大舞台に、プロ7年目でやっとたどりついた。勝又は1日・ヤクルト戦(神宮)の7回に代打でプロ初出場。4日の巨人戦(横浜)で「1番・左翼」でプロ初スタメン。3回にプロ初安打となる中前安打を放つなど、一歩一歩成長を重ねている。

 「シーズン中の1軍の球場やベンチの雰囲気が自分の中で新しかったです。最初はふわふわした感じだったんですけど、素晴らしい場所で野球ができるのは本当に幸せだなと思ったし、1軍でチャンスをいただけて、今までの努力を発揮できる場所を与えてもらってうれしく思いました」

 つかみ取った。1月自主トレでは同じ外野手の先輩・桑原将志に弟子入り。ボールを踏みながら足の踏ん張りが利かない中でティー打撃を行い、バットが走る感覚を養うなど技術的な指導を受けた。春季キャンプでは2軍に相当する鹿児島・奄美のB班で石井琢朗野手コーチらの下で1日1000スイングを超える猛練習を重ねた。

 3月8日のオープン戦・阪神戦(甲子園)では一時昇格ながら代打で出場し、9回に勝ち越し適時打を放つなど猛アピール。

「今年がダメだったら多分クビ。終わった時に1ミリも後悔しない野球人生にしたい」と、今年にかける強い思いを明かしていた。

 デビューまでは苦難の道のりが続いた。最速152キロの直球を武器に日大鶴ケ丘から投手として入団。1年目はイースタンで17試合に登板し2勝3敗、防御率7・13も、2年目はわずか1試合の登板にとどまった。

 実はこのときにイップスを発症。症状は深刻だった。

 「2年目の時は試合に行けなくて、(横須賀市内の球団施設)DOCKで残留練習をしながら試行錯誤を繰り返していました。それでも頑張っても、頑張っても自分の納得いくところにボールは行かなかった。今まで高校の時に投げていた球ではないと自分の中で感じていた。やっぱりそこに戻れないのかなとか、苦しさはありました」

 一時は野球を辞める決意を固めたが、当時の牛田成樹2軍投手コーチ(現チーム付広報)の支えもあり踏みとどまった。

 「本当にまともに投げられなくて、キャッチボールもしたくなかった。

グラウンドに出てボールを持つこともしたくなかった時期に、全体練習が終わった後、牛田さんにマンツーマンでネットスローなどに付き合ってもらいました」

 周囲の支えもあり、その後、症状は緩和。21年には2軍で31試合、3勝1敗、防御率1・83と試合で結果を残せるまで回復。再び野球に向き合った右腕だが、同年オフに戦力外通告を受けた。球団の勧めもあり外野手として育成契約を結んだ。

 高校通算30発で、投手時代からそのセンスは注目されていた。打つ方は、室内練習場でマシン打撃を繰り返すことで日々成長したが、守備は素人同然。当時の柳田殖生2軍守備走塁コーチ(現野手コーチ)と一緒に、切り返しや、まっすぐボールを追いかける動き、打球の落下地点を予測する力、1メートル手前からふわりと投げられたボールをキャッチするなど、外野手の基本を1から学び直し、毎日1時間を守備練習に費やした。

 「一番難しいのは外野手の背走だったり目を切ってボールを追うところ。そこが最初全然できなかったので本当に毎日繰り返し繰り返し、簡単な練習からというところでした」。

 諦めず努力を重ね、23年に野手として支配下契約を勝ち取った異色の苦労人。目標は大きく通算2000安打だ。

 「ハマスタでアップしていた時に、ライトスタンドにレジェンドの看板が見えたんです。

(石井)琢朗さんの2000安打もありますし、かっこいいなと思った。40歳まで野球をやれればすごいですけど、40歳までの約15年間、年間100ちょっとずつ打てば届く可能性だってある。いつかは自分も顔と名前がハマスタに飾られるような選手になりたい」

 苦労を乗り越えた勝又が輝くスターを目指して、一歩ずつ階段を登っていく。

 ◆勝又 温史(かつまた・あつし)2000年5月22日、東京・狛江市生まれ。25歳。中学時代は狛江ボーイズに所属。日大鶴ケ丘高では1年夏からベンチ入りし、3年時に最速152キロをマークも甲子園出場なし。高校通算30本を超え、二刀流としても注目された。18年ドラフト4位でDeNA入団。21年オフに戦力外となり、同年育成契約を結び野手に転向。23年に支配下契約を結んだ。右投左打。

年俸620万円(推定)。

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