巨人のライバルだった名選手の連続インタビュー「巨人が恐れた男たち」。第5回は“ミスター赤ヘル”こと元広島監督の山本浩二さん(78)が「喜怒哀楽」を語る。

1970~80年代の広島黄金時代に絶対的な4番打者として君臨し、通算536本塁打は歴代4位。鉄人・衣笠祥雄との“YK砲”は脅威で、巨人戦通算100本塁打の大台は2人だけだ。現役18年間の濃密な記憶を掘り起こした。(取材・構成=太田 倫)

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 古葉竹識監督には、頭が上がらんな。1975年の5月に監督になって【注2】、三塁コーチャーをやりながらサインを出す姿がカッコよかった。兄貴のような存在やったね。

 84年、古葉さんの下で4度目のリーグ優勝を果たした。開幕から調子が上がらず、8月7日の巨人戦(後楽園)では11年ぶりに6番に下げられた。同点の8回1死三塁で、前の打者が敬遠。発奮したよ。西本聖から決勝3ランを打った。

 でも本調子とはいかず、次の大洋3連戦(横浜)を欠場した。

後輩の内田順三が打撃コーチで「きょうは休みです」と伝えに来る。1試合目は「疲れも取れるし、いいかも」と思ったが2試合目は「ええっ?」となり、3試合目は「なにい?」言うて怒ったよ(笑)。しばらく古葉さんとは口もきかんかった。

 後から聞いた監督の考えは「後半頑張ってもらわなあかんから、休ませた」ということ。終盤は復調して、マジック1で迎えた10月4日の大洋戦(同)では優勝を決める逆転3ランも打った。うまくコントロールしてもらってたのよ。

 わしは法大の後輩にあたる江川卓を、通算で打率3割4分6厘、14本塁打とカモにした。最初は入団の仕方が気にいらんから、クソ生意気なやっちゃなって。「打ちのめしたる」ってコメントをした覚えがあるよ。ところが、あいつが新人だった79年6月17日、2か月間の自粛明けに後楽園で初対戦して【注3】、あの真っすぐにビックリしたんやから。速いし浮き上がる。「こら、すごいピッチャーやな」って。

この年は19打数3安打で0本塁打、打率も1割5分8厘だった。

 そのオフに、12球団の選手が集まって歌とかクイズをやる番組があった。そこで江川と話して「頭のいいヤツだな」って分かった。カッカする前にどうやったら打てるか考えないかん。

 マウンドでは、どんどん向かってくるタイプや。特に中軸には力の入れ方が違う。そこで次の年のキャンプで対江川用の練習をした。マシンで速球をインハイにセットして、ストライクをコンパクトに、ひと振りで仕留める練習を徹底的にしたよ。バットもほんの1センチぐらい短く持ってな。

 若い頃からオフに選手が集まるゴルフや歌番組があれば、東京まで出ていくようにした。ゴルフも下手。歌も下手。

でも恥を忍んで参加した。なぜか。何げない会話から他球団の連中の考えや性格を知るためよ。江川もそう。相手からしたら、そうやって観察されているとは思ってもみなかったやろうな。

 【注2】75年はジョー・ルーツ監督が審判とのトラブルをきっかけに開幕から15試合の指揮を執っただけで退団。監督代行を立てた4試合を挟み、5月に古葉がコーチから監督に昇格。この年を含め、85年に勇退するまでリーグV4度、日本一3度。

 【注3】江川は78年オフに巨人と電撃契約する「空白の1日」事件、阪神・小林繁とのトレードなど大騒動の末に巨人に入団するも、79年は開幕から2か月1軍昇格を自粛。6月17日の広島戦は8回途中4安打1失点でプロ初勝利。

 ◆山本 浩二(やまもと・こうじ)1946年10月25日、広島市生まれ。78歳。

廿日市高を経て進学した法大ではスラッガーとして田淵幸一、富田勝と「法政三羽ガラス」と呼ばれ、68年のドラフト1位で広島入団。18年間で本塁打王4回、最優秀選手2回などタイトル多数。86年に引退後は広島監督を計2回、通算10年務め、91年にはリーグ優勝。2008年に殿堂入り。13年WBCでは日本代表監督として4強入り。右投右打。

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