巨人のライバルだった名選手の連続インタビュー「巨人が恐れた男たち」。第5回は“ミスター赤ヘル”こと元広島監督の山本浩二さん(78)が「喜怒哀楽」を語る。

1970~80年代の広島黄金時代に絶対的な4番打者として君臨し、通算536本塁打は歴代4位。鉄人・衣笠祥雄との“YK砲”は脅威で、巨人戦通算100本塁打の大台は2人だけだ。現役18年間の濃密な記憶を掘り起こした。(取材・構成=太田 倫)

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 ONは、我々からすれば神様。オールスターとかに出て話もできるようになったけど、やっぱり雲の上の人やから。78年に44本塁打で初めてホームラン王になれた。あの王さんと競って取れるとは若いうちは考えてもみなかった。王さんは本当に律義で優しくて、イメージ通りの人やな。

 ミスターは何とも言えない楽しさを感じさせてくれる人。新人のときかな、わしがセーフティーバントをした。ミスターが突っ込んできたけど、ファウル。そしたらいきなり「コーちゃん、打って打って!」って言うわけ。

それまで話したこともなかったのに「コーちゃん」だから。ビックリしたよ(笑)。

 そして、頭のいい人。ゴルフを一緒に回っても、わしが何番であそこに打って…とか全部覚えている。ミスターのちょっとしたエピソードなんかは、半分はわざと周りを明るくして盛り上げるためのパフォーマンスと思っている。現役時代の全シーズンで規定打席到達はミスターとわしだけなんやって? これはよう頑張ったなと思うよ。

 アベックアーチの数はONが106回で1位。2位がわしと衣笠の86回やった。巨人戦では、キヌが101発でわしが100発か。同学年だったが、キヌは高卒でプロ入りして、先にレギュラーになった。負けたくない思いだけやから、ユニホームを着ているとき以外はあんまり話したことがなくて、決して仲は良くなかった。

 でも、初優勝で関係が変わった。

この感激をまた味わうためにはどうするか? どうやったらもっと打てるのか? キヌと、腹を割って本音で話し合えるようになった。当時は同じ団地に住んでいたから、互いの家で飯を食ったりな。もちろんライバルには変わりない。でも、腹の中で抱えているだけじゃなくて、口に出して「負けないぞ」と堂々と言える、理想的なライバルになれた。向こうは骨折してても出るような選手やから、こっちも休んでおれんっていう気持ちを、いつも持っていた。

 衣笠祥雄がいたから、山本浩二はここまで来られた。キヌもきっとそうやろう。

 【取材後記】

 「オレが、オレが」のプロの世界。両雄が並び立たないことの方がずっと多い。2人で1040発のYK砲は、コンビを組み続けた時間の長さ、関係の濃さという意味でも希有(けう)なコンビと言える。「仲のいい選手はおったけど、やっぱり大きいのはキヌやったな」。山本さんが衣笠さんを語る言葉は、誇らしげだった。

 最高の相棒が砥石(といし)になり、「一流」から「超一流」への境界線を飛び越した。2人を中心に主力が競うように練習し、若手が倣う。広島の猛練習を伝統として根付かせたのも、功績のひとつだ。

 「わしらがいい歴史を作ったっていうのは自負できる。よきときに、よきライバルに恵まれた」

 この取材は4月23日に行われた。偶然にもそれは、2018年に亡くなった“鉄人”の命日にあたった。(野球デスク・太田 倫)

 ◆山本 浩二(やまもと・こうじ)1946年10月25日、広島市生まれ。78歳。廿日市高を経て進学した法大ではスラッガーとして田淵幸一、富田勝と「法政三羽ガラス」と呼ばれ、68年のドラフト1位で広島入団。18年間で本塁打王4回、最優秀選手2回などタイトル多数。86年に引退後は広島監督を計2回、通算10年務め、91年にはリーグ優勝。2008年に殿堂入り。

13年WBCでは日本代表監督として4強入り。右投右打。

 ◆衣笠 祥雄(きぬがさ・さちお)1947年1月18日、京都市生まれ。捕手として平安(現・龍谷大平安)3年時に春夏連続で甲子園出場。広島入団後に内野手に転向。76年に盗塁王、84年に打点王を獲得。70年から18年にわたって全試合出場を続け、当時の世界記録を塗り替える2215試合連続出場。引退した87年には国民栄誉賞を受賞。通算2677試合で打率2割7分、504本塁打、1448打点。96年に野球殿堂入り。2018年に上行(じょうこう)結腸がんで死去。

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