◆報知プレミアムボクシング ▷後楽園ホールのヒーローたち第24回:前編 矢代義光

 一流の接客で会員をもてなす。居心地のいい場所を提供して体を鍛える。

今や健康ブームもあり、スポーツジムは全国各地に存在する。業界内の競争も年々厳しさを増す中、元日本スーパーフェザー級王者の矢代義光(45)が代表を務める「矢代ボクシングフィットネスクラブ」は2012年のオープンから13年連続で会員数が増え続けている。「後楽園ホールのヒーローたち」第24回は、500人以上の会員を抱えるジムオーナーの矢代に、ボクサー引退後に学んだ一流の接客術、なぜ人が集まるジムに成長したのかを聞いた。(取材、構成=近藤 英一、敬称略)

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 一見すると他のジムと何ら変わりはない。会員が体を動かし汗を流す光景は、まさしく普通のフィットネスジム。ただ、その場にいればすぐに違いに気付く。スタッフの明るい対応、言葉遣いは至極、丁寧。東京メトロ日比谷線「三ノ輪」駅から徒歩1分。明治通りに面したビルの4階から6階までの3フロアが、矢代が代表を務めるジムだ。

 「今、ありがたいことに会員さんは500人を超えています。オープンしてから13年間、会員さんが前年より減った年は一度もありません。これもスタッフのおかげです」

 2012年のスタートから右肩上がりの経営を続けている。

今やフィットネスジムは東京23区内ならば、どこに行ってもすぐに目に付く。ネームバリューのある24時間営業の大手との生き残り競争は、年々厳しさを増している。そんな中、矢代のジムはど派手な広告、低価格とは無縁の環境にありながら、年々会員は増え続けている。一度入会した会員が辞めない理由はどこにあるのか。それは、現役引退後に経験した3年間の貴重な時間が、すべての礎になっている。

 「2009年に日本タイトルの3度目の防衛戦で三浦隆司(当時は横浜光ジム所属、後に帝拳ジムに移籍してWBC世界スーパーフェザー級王座を獲得)に負けて引退して、すぐにジムを開こうと思っていました。その時、恩師に相談したらストップをかけられたんです。今思えば、あの言葉は自分にとっての宝物です。本当にいい言葉をいただきました」

 恩師からの言葉はこうだった。

 「矢代、ジムを開くのもいいが、今ジムを開いてしまうと、ボクシングだけの人間になってしまう。それならば一流の場所、一流のお客様、一流の商品を扱うところで少しの時間、社会を見てきなさい」

 恩師は帝国ホテルでの仕事を用意してくれた。ボクシングしか知らない矢代に社会の厳しさを教えようと、帝国ホテル内にある日本最古のジュエリー店での人生修行を提案してくれたのだ。

矢代もありがたく、一流ホテルでのサラリーマン生活をスタートさせた。

 「当たり前ですが、すぐに自分の無知さに気付きました。ボクシングで日本チャンピオンにまでなったんだから、社会に出たって何でもできる。自信満々にそう思っていましたが、いざ社会に出てみると、何もできない人間でした。本当に思い知らされました。帝国での3年間で大きく三つのことを学びました。一つ目は、おもてなしの心、接客の仕方。二つ目は金銭感覚。最後は新入社員の気持ち、人の気持ちが分かるようになりました」

 花咲徳栄高―平成国際大とボクシングのトップアマからプロ入りした経歴でも分かるように、典型的な体育会系育ち。立っている時は胸を張り腕は後ろで組んでいたが、「腕は前で組みなさい」と叱られた。「店長、お客様が来ました」と伝えると「お客様が来られました」と注意され、「ありがとう」には「いいえ」という言葉を返すのがマナーと教えられた。エレベーター内に飾られるバラの花にもお客様への心遣いが表現されている。

「三分、四分咲きのバラを飾るんです。これから開くんだよということを意味するもので、お客様には今が上り調子ですというメッセージが込められています」と相手の心に寄り添う接客術を学んだ。

 お金への感覚もシビアになった。「1か月の給料でどうやりくりして生活するか。チャンピオンの時はどこに行ってもただ。誰かが払ってくれていたし、1試合数百万円のファイトマネーも、また試合をすれば入ってくるので、すぐに使ってしまう。お金への感覚を整えられた時間」でもあった。そして、一般社会に出て何もできない自分を毎日、嫌というほど痛感した。悩み、出社を拒否したくなる精神状態にもなった。「新入社員の気持ちがよく分かりました。先輩からは『何でこんなことができない』『何度言ったら分かるんだ』と言われ、毎日へこんでいました。人に対して傷口に塩を塗り込むような言い方はしてはいけない」と痛みの分かる人間へと成長した。

 ボクサーとは180度違う生活は、良いことよりも正直、逃げ出したくなることの方が多かった。

 「半年で心が折れました。辞めよう、辞めようと毎日思っていましたが、石の上にも三年で頑張りました」。結果、帝国ホテルでの3年間は「社会に出る上での土台を築けた貴重な時間になった」とその後、スタートする事業すべてにプラスになったと感謝する。

 ジムを運営していく上で月1回のペースで社員ミーティングを実施している。矢代はこの時、必ず口にする言葉がある。「ウチが大手に勝てるのは人の力。物や資金力で勝てないのなら人で勝つ」。そして、コンセプトは「高級ホテルのようなボクシングジムを意識しています。居心地のいい場を提供すること」と最新鋭のトレーニングマシン、ジャグジーなどは無くても、最高の気分で体を動かし、最高の気分で帰ってもらえるよう、スタッフ全員が最高の接客を心がけている。

 「現役時代は帝拳で、引退後は帝国で育ててもらい、環境に恵まれました。社員にもここに来たことが今後の人生の主軸になってくれればと考えていますし、それを目標に人を育てています。

人は成長するために何かにチャレンジすることが必要です。自分を含め、社員には失敗してもいいから、何かにチャレンジしようと常に言っています」

 挑戦の意味を込め、来年2月に新事業をスタートする。きっかけは2023年の春だった。それぞれ違う事情を抱える3組の親子がジムを訪れ、入会した。数か月後、元気に“卒業”していく3人の姿に胸がいっぱいになった。「もっと何かができる」。矢代はそう思うと、すぐに行動に移した。(続く)

 ◆矢代 義光(やしろ・よしみつ) 1980年8月4日、東京都荒川区生まれ。アマチュア時代は花咲徳栄高、平成国際大で活躍。大学を2年で中退して、2001年5月にプロデビュー。08年5月に日本スーパーフェザー級王座を獲得。翌年7月に三浦隆司との再戦に敗れ王座陥落し、引退。

プロ戦績は21勝(12KO)1敗2分け。身長175センチの左ボクサーファイター。兄の家康も元日本ランカーで、現在は福島の日大工学部に職員として勤務。妹の由希は元アマチュア選手で、全日本選手権3連覇。現在は矢代のジムでマネジャーを務めている。

 「矢代ボクシングフィットネスクラブ」東京都台東区三ノ輪1―28―15 小川会計ビル5F(受付)。東京メトロ日比谷線三ノ輪駅下車、徒歩1分。電話03―6240―6860。

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