米時間9月6日のオリオールズ―ドジャース戦は9回2死まで山本由伸投手がノーヒットに抑えていながら、ホリデーに初安打(本塁打)を許して交代。その後、救援陣が3失点で逆転サヨナラ負けした。

米国の各メディアでは「9回2死から初安打されてから逆転負け」は球団数増となった1961年以降では史上初と伝えた。

 このケース、日本球界では1例だけある。1966年9月26日、巨人―中日戦で中日の右腕・佐藤公博投手がリーグ優勝を決めていた巨人相手に快投。1点リードで快挙まであと1アウト。ところが、柴田勲に左中間二塁打を許し、王貞治を当然のように敬遠。そして森昌彦に右翼席ぎりぎりに逆転サヨナラ3ラン浴びて、快挙目前から敗戦投手となった。

 メジャーでは1960年以前を遡ればあるのではないだろうか。実はこんな記録が残っている。ヤンキースとドジャースが対戦した1947年のワールドシリーズ第4戦の出来事だ。この試合、ヤンキースのビル・ビーブンス投手が5回に内野ゴロで1点を失ったものの、2ー1とリードし9回2死まで無安打に抑えていた。

 2死一塁から代走のジオンフリドが二盗に成功。一塁が空いたことでヤンキースベンチは、あえて決勝の走者となる強打のリーザーを敬遠した。

ドジャースはここで代打のラバゲットーを起用。初球空振りしたのと同じような外角高めの直球を右打者は右翼フェンス直撃の二塁打。2アウトのため一塁走者までも生還し劇的な逆転サヨナラ。当時ブルックリンに本拠を置いていたドジャースの地元エベッツフィールドは熱狂の渦となった。

 アメリカ野球学会の人物紹介によるとビーブンスは、このときの状況を「データでは彼は外角高めの直球に弱いとあったが、それは間違っていた。まるでエレベーターで10階から突き落とされたような気分だった」と振り返っている。1956年にヤンキースのドン・ラーセンがワールドシリーズで完全試合を達成するまで、このビーブンスのピッチングは何度も野球ファンの話題になっていた。

 ビーブンスはこの日計10四球を与えている。投球数が残っていないためにわからないが130球以上投げていたと推察される。ちなみに勝利投手になったドジャースの4番手ケーシーは9回1死満塁で登場し、1球で投ゴロ併殺打に仕留めて「1球勝利」となっている。

 ビーブンスは第7戦に2回2/3を無失点の好リリーフを見せてヤンキースの世界一に貢献したが、翌年以降右腕の痛みに襲われて2度とメジャーのマウンドに戻ってこられなかった。つまり1947年のワールドシリーズが最後のメジャーでのマウンドとなった。

 ※参考資料 ベースボールリファレンス、アメリカ野球学会

 蛭間 豊章(ベースボール・アナリスト)

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