◆スポーツ報知・記者コラム「両国発」
1984年の話だ。千葉の柏に、ある青年がいた。
だが、体はなまっていた。家から50メートル先の自販機にもスクーターの「スズキ・ジェンマ」で向かっていたほどだ。冷やかしのつもりだったが、多摩川グラウンドで50メートル走と遠投の試験に臨むと、受かってしまった。まさか大学より先に、巨人から合格通知が来るとは。「予備校生合格」は新聞記事になった。2次試験は不合格だった。当たり前だ。
好奇心旺盛だったハタチ前の心境を今、回想する。
「まずはやってみようというね。目の前にやる選択と、やらない選択があるならば、やる選択を取りにいく。でもそんなことばかりしていたから、2年も浪人することになっちゃった」
2浪後、早大教育学部に合格。迷わず野球部の門を叩いた。1年春の早慶戦でベンチ入りし、超満員に膨れあがった神宮球場の光景を見て、武者震いした。2年秋からエース。3年になると、生涯の師と仰ぐ石井連蔵が監督の座に就いた。「石井さんとの出会いは人生で一番大きなこと」と感謝する。もしも現役合格していたら―。「鬼の連蔵」と恐れられた厳しい指導の下で、野球はやれていない。
青年の名は小宮山悟。母校・早大の指揮を執り、石井の厳しさを令和に伝える。「人生、どこで何がどうなるか、分からないね」。一見、回り道に思われた浪人という選択が、その半生を彩り豊かなものにしている。人生に無駄なことなんて何一つないと、教えてくれる。(アマ野球担当・加藤 弘士)
◆加藤 弘士(かとう・ひろし)97年入社。編集委員。カラオケの十八番は堀江淳「メモリーグラス」。