巨人のライバルだった名選手の連続インタビュー「巨人が恐れた男たち」。第9回は元広島、巨人の川口和久さん(66)だ。

広島時代には「巨人キラー」として球団最多の通算33勝。FAで移籍した巨人ではリリーフに転向し、1996年の「メークドラマ」を完結させる胴上げ投手にもなった。幼少期から大ファンで、巨人在籍時の監督だった長嶋茂雄さんとの思い出や、引退寸前からの復活劇まで「喜怒哀楽」の記憶を掘り起こした。(取材・構成=太田 倫)

 実は巨人に移籍する前の年、1993年にも、原辰徳さんから「カワ、巨人来いよ」って誘われたことがある。でも広島には義理もあったから…なんと言っても“仁義の街”だからね。

 94年にFAしたのは、義父ががんを患って、女房が「看病したい」という希望を持っていたから。だから女房の実家に近い在京球団を考えた。そこへ長嶋さんから直接お誘いの電話があった。義父は大の巨人ファン。僕の巨人入りが決まると、泣いて喜んでいた。

 98年に引退するまで、最後の4年間を巨人で過ごした。広島もファミリー的な球団だったけど、巨人もすごくあったかいチームだった。

長嶋さんが監督でいるってことだけで、僕にとってはあったかかった。

 現役時代の長嶋さんは、凡退してもカッコよかった。なんでこの人、手をパーにして走るんだろう?って思っていた。普通はグーで走るんだよ。カッコいいよなあ、と思って、自分もパーで走るようになった。

 実際接した長嶋さんは優しくて、たくさん言葉をかけてもらったけど、ゲームでベンチに向かうときには、背番号「33」が殺気立っている。そのギャップはすごいなと思った。

 思い出すのは移籍1年目のときのやりとり。東京Dの食堂で「川口、どうだ?」って聞かれたから「順調です、頑張ります!」って張り切って答えたら、「うん、若くないんだから、無理するなよ」って返された。なんか拍子抜けしちゃってね。やっぱり面白い人だなあって。引退の報告をしたときには「よく頑張ってくれた、ご苦労さん」とねぎらっていただいた。

 長嶋さんってファッションもすごく爽やかで、淡い明るい色が大好きだった。僕もマネしたよ。お通夜に行ったときも、長嶋さんは黄色いセーターをお召しになっていた。最後まで素敵だった。

 野球界の神様的な人だから。長嶋さんのもとで野球ができたっていうことが、もう人生の土産ですよ。野球やってて、ほんとによかったな。

 〇…「巨人キラー」と称されながらも、心の奥底ではずっとファンであり続けた川口さん。巨人とは、と問うと「憧れのチーム、ですね」と、シンプルな答えが返ってきた。積み重ねてきた33勝(31敗)には「勝ち越しとか、自分の中では全然意識がなくて。ピッチャーってリセットが大事だから(笑)」とひょうひょうと話した。

 ◆川口 和久(かわぐち・かずひさ)1959年7月8日、鳥取県生まれ。

66歳。鳥取城北からデュプロを経て、80年ドラフト1位で広島入団。86年から6年連続2ケタ勝利。87、89、91年に最多奪三振のタイトル獲得。94年オフにFAで巨人に移籍後は主にリリーフとして活躍。通算成績は435試合で139勝135敗、2092奪三振、防御率3.38。引退後は巨人で投手コーチを務めた。左投両打。

「風が気持ちいいんだよ」故郷・鳥取で米作り

 ◆取材後記 7月の終わりに、川口さんが暮らす鳥取を訪ねた。21年秋に故郷にUターンして、4年目になる。

 「暑いけどね、風が気持ちいいんだよ」

 高校生らに野球指導も行う傍ら、ライフワークとしているのが米作り。鳥取のブランド米である「星空舞(ほしぞらまい)」を手がけ、年々作付面積も広げている。

話を聞いたのは「穂が出る、一番大事な時期」だった。「『川口さんのお米食べたら、他のお米は食べられないですよ』と言ってもらえてね…」と目を細める。猛暑も乗り越え、9月に無事収穫も終わったそうだ。

 自身のお米を使ったみそ造りも始めている。66歳とは思えないフットワークの軽さがうらやましい。「出たとこ勝負だよ。でもそこから生まれる創造力ってあるから」。小気味いい投球スタイルそのままに、第2の人生も愉(たの)しんでいる。(野球デスク・太田 倫)

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