◆スポーツ報知・記者コラム「両国発」

 芸能を中心に、新聞社のカメラマンとして仕事を始めて約30年。カメラを持つ手が震え、のぞくレンズが涙で曇ってしまい、参った経験が1度だけある。

 NHK紅白歌合戦での杏里の歌声。1996年に「オリビアを聴きながら」で出場したNHKホールでのリハーサルだった。何かのトラブルか、前奏がなかなか始まらない。舞台スタッフが慌て始め、ステージ上に緊迫した空気が流れた。そのとき、杏里が一人、アカペラで歌い始めた。紅白はリハーサルも分刻みで進行する。周囲の緊張感を察した、彼女なりの気遣いだったのかもしれない。

 関係者が作業の手を止めて静まりかえる中、澄んだ伸びやかな声で歌う姿を見て、夢中でシャッターを切り続けた。気づくと、ほおを涙がつたっていた。1曲を歌い終えると、居合わせた全員がスタンディングオベーション。杏里ははにかみながら小さく頭を下げると、舞台袖に消えた。

 周りには同じように目が潤んだ人もいた。

「音響がなくても響き渡ったね」「さすがプロの歌声」と驚嘆する声が聞こえた。カメラマンとして駆け出しだったが、この時ほど歌の力に引きつけられたことはない。新聞に載らなかった“幻のオリビア”は、忘れられない幸せな時間となった。

 感動をそのまま写真で伝えることは難しい。日々の取材対象は喜怒哀楽さまざまな表情を見せ、こちらも柔軟性が求められる。紅白は重圧を感じることもあるが、テレビに映らないアーティストの一面が見られることが多い。年末の取材を続けられればと思う。(写真担当・小泉 洋樹)

 ◆小泉 洋樹(こいずみ・ひろき) 2020年入社。他社時代から芸能を長く取材。

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