9日に86歳で亡くなった張本勲さんに関し、AP通信も長文で報じた。

 広島原爆の被爆を生き延び、今なお日本の最多安打記録保持者である野球界の偉人、張本勲氏が死去した。

享年86歳。

 張本は1959年、当時東映フライヤーズ(後の日本ハムファイターズ)に入団し、プロ野球選手としてのキャリアをスタートさせた。1980年には日本人選手として初めて通算3000安打を達成し、通算3085安打で現役を終えた。「ヒットマシーン」の愛称で親しまれた。

 張本は1940年に広島で韓国人の両親のもとに生まれ、幼少期に数々の困難を乗り越えた。4歳の時、右手に重度の火傷を負った。1945年8月6日、米軍による西日本都市への原爆投下を生き延びた時、5歳だった。父親は第2次世界大戦後まもなく亡くなり、張本氏の勤勉な母親は家族を支えるために飲食店を経営していた。

 張本は小学生の頃から野球を始め、左投げを習得した。中学生の頃には、母親に少しでも楽な生活を送らせるために、日本プロ野球選手になることを夢見ていた。彼はすぐにその打撃の才能を発揮。1959年には115安打で新人王に輝き、1960年には初のオールスターに選出され、1961年には初の首位打者を獲得、そして1962年には自身初の30本塁打を放ち、唯一の日本シリーズ優勝を果たした。

 1976年に読売ジャイアンツ王貞治と合流し、1980年にはロッテオリオンズに移籍し、通算3000安打、500本塁打を達成。1981年に引退。23年間で、オールスターに18回選出され、通算504本塁打、2752試合出場で1990年には野球殿堂入りを果たした。

 現役引退後、張本氏は率直な物言いで知られる人気野球解説者となった。また、反戦・核軍縮運動の提唱者でもあった。ある日、張本さんは若い人たちが広島と長崎に原爆が投下されたことを知らないと言っているのを耳にした。TBSテレビのインタビューで、張本さんは閃光、爆風、そして意識を失った時のことを語った。彼の実家は山の陰にあり、原爆の被害を免れた。彼は血を流す母親の腕の中で目を覚ました。彼の姉は爆心地近くにいて、亡くなった。「野球選手として、いつか原爆関連疾患の症状が出るのではないかと常に心配していました」と彼は語った。

 張本氏は、生存者の高齢化をしばしば懸念し、「生き残った最後の伝令の一人」として、痛ましい歴史を語り続ける決意を表明していた。

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