鉄道は半ば強引に敷設されることもありました。それが社寺の境内だったとしてもです。
鉄道は都市化を促す交通インフラですが、他方で家屋が密集した既成市街地へと乗り入れることは簡単ではありません。そのため建設に際しては、すでに人家が集積していた地域を避けることも多くありました。しかし土地の制約上、鉄道を通す場所が限られている区間では、半ば強引に建設されたケースもあります。
清見寺を分断するJR東海道本線と踏切(2019年10月、小川裕夫撮影)。
東京駅を起点に神戸駅までを結ぶJR東海道本線は、1872(明治5)年に新橋(後の汐留)~横浜(現・桜木町)間で開業。以降は東西両側と、中間地点となる愛知県付近から線路が建設されていきました。東海道本線には、線路用地を確保するのが難しい箇所もいくつかありました。そのひとつが静岡県の清水~富士間です。
この区間には、歌川広重の『東海道五十三次』にも描かれ、美しい風景で有名な薩埵峠がありますが、山が駿河湾ギリギリまで突き出しています。そのため、線路を敷設できるような平地はわずかしかありません。
清見寺は、徳川家康が幼少期に人質として過ごした寺であるほか、明治維新後には明治天皇の行在所として利用されたこともあります。ただ古刹といえども、明治新政府は鉄道建設を優先しようとしました。
お寺自ら土地を「献納」新政府のそうした姿勢が考慮されたのかは不明ですが、清見寺は強制的に土地を召し上げられる前から鉄道について学び、「鉄道は地域のためになる」との理由から土地を献納。この協力のおかげもあり、1889(明治22)年には国府津~静岡間が開業します。東海道本線は清見寺の境内を分断し、現在も石段の途中に踏切が設置されています。寺を参詣するには、この踏切を渡らなければなりません。
静岡までの鉄道開通時に興津駅も開設されました。これは農漁村だった興津には大きな出来事であったほか、政治家なども同地を避暑地・避寒地として注目するようになりました。
大正天皇(当時は皇太子)は、海水浴で興津を訪問。興津と東京は日帰りするには難しい距離なので、宿泊場所として清見寺が選ばれています。
高度経済成長期、興津が誇る白砂青松の海岸は埋め立てによって消失。時代とともに興津の街並みは変化していますが、清見寺を分断する線路の姿は変わっていません。
ちなみに寺の裏山を、現在は東名高速と東海道新幹線がトンネルで貫いています。

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