連載「斎藤佑樹野球の旅~ハンカチ王子の告白」第16回

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 2006年夏の甲子園、準決勝。早実の斎藤佑樹は鹿児島工の4番、鮫島哲新と対峙する。

鹿児島工の中迫俊明監督は「斎藤は真っすぐが速い、バットを短く持て」と指示を出していたが、ストレートにも緩い変化球にも自信を持っていた鮫島は、バットを長く持ったまま、斎藤に向き合った。

斎藤佑樹がピッチングに「適当」を入れて覚醒。甲子園初完封でい...の画像はこちら >>

夏の甲子園準決勝の鹿児島工戦で完封勝利を挙げた早実・斎藤佑樹

理想に近いピッチング

 準決勝は立ち上がりから力を抜いて投げてみようと思っていました。その代わり丁寧に、内外角を投げ分けていこうと思っていたんですが、力を抜いて投げているのに殊の外、真っすぐがいい感じでいくんです。2回表、4番の鮫島くんに投げた時、その思いを強くしました。

 初球、アウトローに真っすぐを投げたんですが、鮫島くんが「速っ」という感じの反応をしたんです。ボール球でしたが、僕の感覚としては、スピードはそんなに出てなかったんじゃないかと思います(テレビのスピードガン表示は135キロ)。

 でも、バッターの反応は悪くなかった。

だったらと真っすぐを続けたら、当てるのがやっとという感じで、最後、フォークを投げたら空振り三振。ああ、この感じでいいんだなと思って、その後も真っすぐで追い込んでから変化球を振らせるという理想に近いピッチングができました。

 思えば準々決勝の日大山形との試合では力を入れて投げたのにボールがいきませんでした。ところが準決勝の鹿児島工との試合では力を抜いたらやけにいいボールがいく。野球っておもしろいなと思いました。

 鹿児島工は準決勝でエースの(榎下)陽大くんが先発しなかったし、決勝の駒大苫小牧も田中将大くんは再試合を含めて2試合とも先発していない。

 その一方、早実では僕が先発するのが当たり前で、投げないという選択肢はありませんでした。だからスタミナというところで言えば、連投しても完投しても次の試合で僕が投げる、ということを前提としていたんです。そのうえで、どうすれば決勝まで投げ抜けるのか、どうすれば最後までひとりで投げて優勝できるのか......僕はそういう考え方をしていました。

試行錯誤のフォーム改造

 じゃあ、どうするのか。

 まず、春のセンバツで(関西高校との引き分け再試合で)連投して勝ったことが自信になっていた、ということはあったと思います。あの2試合で僕はレベルアップできた。関西と引き分けた試合で投げた球数は15回で231球、翌日の再試合では先発せずに3回から投げましたが102球を投げて、2日続けての2試合で投げたのは、333球でした。

 しかも、最初から最後まで全力で投げたんです。ただその結果、センバツの準々決勝は3連投となって横浜にメッタ打ちを喰らった。ああ、ピッチャーとしてレベルアップできてもスタミナがなければダメなんだと思うと同時に、もしかしたら全力で投げるばっかりがいいわけじゃない、ということも感じていました。それを夏の準決勝のときに思い出したんです。

 もうひとつ、夏に連投できたのはフォームを変えていたことも幸いしたと思います。センバツのあと、早稲田の先輩で、トヨタ自動車で投げていた佐竹(功年/早大出身で斎藤よりも5つ上)さんのフォームを参考にノーワインドアップで、右ヒザをグッと沈めてから体重移動して投げるフォームに変えたんです。

 ただ、右ヒザを曲げる時の深さとか、重心の位置とか、じつは試行錯誤はずっと続いていました。身体の状態も含めて、いい感じの時には"ハマる"感覚があったんですけど、そうじゃない時には、どこにどうハメたらいいのかがわからなかった。だからフォームを変えた直後は、右ヒザを曲げて溜めた重心を受け止める側の左足がものすごく張ったりして、なかなか新しいフォームが身体に染み込まなかったんです。

 そこを乗り越えて、下半身が体重移動を受け止められるようになってからは、上半身が本当に疲れなくなりました。それは下半身を使って投げられていたから、上半身はリラックスして投げられた......その分、肩ヒジに負担をかけずに済んで、スタミナも増した感覚です。

鹿児島工の代打男との真剣勝負

 あと、鹿児島工の試合で思い出すのは陽大くんのカーブを捉えて、ツーベースを打った時のことかな(笑)。いや、正直、ピッチングのことはあんまり細かく覚えてないんです......あ、でも今吉晃一くんと対戦した時のことはハッキリと覚えています。

 あの時、彼は代打で連続してヒットを打っていたんですよね(夏の鹿児島大会で6試合に代打で登場し6打数5安打、夏の甲子園ではここまでの3試合に代打で出て3打数2安打)。それって、運だけでは無理だと思うんです。それなりの実力がしっかりと備わっているから結果が出せるんであって、打席で「シャーッ」と叫ぶこととか、迫力のある風貌とか(笑)、たしかにそういう話題でも騒がれていましたが、僕としてはとにかくバッターとして警戒していました。

 代打で出てきたバッターに対しては、目が慣れていないからまずは変化球で入るというのが常套手段なんですが、代打で結果を出しているのなら変化球には強いんじゃないかと考えました。だったらまっすぐで押していこうと、初球からまっすぐで攻めたんです。

 あの試合、力を抜いて投げていましたが、今吉くんに対してだけはすごく力んで投げていたように思います。

それは今吉くんが鹿児島工の流れを変える起点になると思っていたからです。

 ほかのバッターにはうまく力が抜けていたのに、今吉くんにだけ力が抜けなくて、ボール球が続いてしまった(初球は143キロ、2球目に145キロのストレート、3球目はスライダーが低めに外れてノーストライク、スリーボール)。で、4球目がファウルだったかな(真ん中高め、121キロのスライダー)。スリーボールからの変化球を思いきり振ってきたので、ああ、今吉くんはやっぱり変化球を待っていたんだと思いました。

 だからフルカウントから、最後は高めのまっすぐ(ボール気味、145キロのストレート)を投げて、空振り三振をとることができました。えっ、その時、ガッツポーズしていましたか? いや、それは覚えてないなぁ(苦笑)。

 あの準決勝(5対0)で、僕は自信というものをつかむことができたと思います。今吉くんのときは別にして(笑)、ピッチングに"適当"という感じを出せた......それは決勝に向けて、すごく大きなことだったと思います。

宿敵・駒大苫小牧との再戦

 そして、僕らはついに夏の甲子園の決勝戦に辿り着きます。

 相手は夏の甲子園3連覇(中京商以来、73年ぶり)を目指す駒大苫小牧でした。僕は甲子園ではずっと「取られても2点まで」と決めて投げていました。それはウチの打線が必ず3、4点はとってくれると信じていたからです。ランナーが出てもそのランナーは帰してもいいし、何ならホームランを打たれたっていい。ランナーが2人出たらここはホームランだけは打たせない......そういう気持ちで投げていました。

 でも、あの決勝だけは違いました。駒大苫小牧には2年秋の明治神宮大会の準決勝で負けていて、ここに勝つには1−0しかないなって、ずっと和泉(実)監督と話してきたんです。だから決勝では1−0の試合をしようと思っていましたし、強打の駒大苫小牧をゼロに抑えなければならないと、本気で思っていました。そのためのカギは4番の本間(篤史)くんです。

 本間くんと初めて対戦したのは負けた2年秋の明治神宮大会でしたが、その試合でレフトスタンドにホームランを打たれてしまいました。初球をフルスイングされたんです。ヤマを張られたか、クセを見抜かれていたのか......そうでなければあんな大胆に振れないよな、というスイングでした。

 しかもあの日、本間くんは第1、2打席ともに三振していたんです。普通、三振、三振とくれば、今度は三振したくないと思って当てにくるものですが、第3打席、本間くんは初球から思いきり振ってきた。その時の残像が残っていたこともあって、決勝では4番の本間くんを警戒していました。

 決勝の日は曇っていた印象です。それまでの甲子園は暑かったのに、決勝の日は曇っていて、風が吹いたら涼しく感じるほどでした。ああ、助かったな、と思いました。

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 2006年8月20日、夏の甲子園、決勝。早実対駒大苫小牧──長く語り継がれる歴史的な一戦......いや、"二戦"が幕を開けた。その立ち上がり、斎藤はランナーを2塁に置いて、警戒していた4番の本間との対決を迎える。本間は斎藤の投じたアウトコースのスライダーを捉えた。ここで野球の神様が、悪戯心を覗かせた。