元プロレスラーで参院議員も務めた"燃える闘魂"アントニオ猪木さんが、10月1日午前7時40分、心不全のため79歳で亡くなった。

アントニオ猪木が生前に語った、アリ戦での挫折を救ったタクシー...の画像はこちら >>

1976年6月26日、モハメド・アリ(右)との試合を終えて握手を交わす猪木さん

 猪木さんは、17歳だった1965年4月に移住先のブラジル・サンパウロで力道山にスカウトされ、日本プロレスに入門した。
同年9月30日の台東区体育館での大木金太郎とのデビュー戦から、日本プロレス時代はジャイアント馬場さんとのタッグ「BI砲」で活躍。1971年12月に「会社乗っ取り」を理由に日プロを追放されると、新団体「新日本プロレス」を設立し、1972年3月6日に大田区体育館で旗揚げした。以後、引退した1998年4月4日の東京ドームでのドン・フライ戦まで、数々の歴史的な名勝負を刻み込んだ。

「猪木の常識、世間の非常識」と自身が語っていたように、新日本プロレスでは誰もが考えつかない、プロレスファンだけではなく世間一般をも驚かせるマッチメイクが真骨頂。背景には、ジャイアント馬場さんの全日本プロレスとの激しい興行戦争があったが、画期的な試合で大衆を振り向かせ、試合では想像を超えるパフォーマンスを見せてカリスマへの階段を駆け上った。

 猪木さんの記憶に残る試合、というとファンそれぞれに思い浮かぶ試合があるはずだ。
1974年3月19日に蔵前国技館で行なわれたストロング小林との「禁断」の日本人対決、新宿伊勢丹前で襲撃され"社会事件"となったタイガー・ジェット・シンとの死闘、1983年6月2日の蔵前国技館でのIWGP優勝戦でハルク・ホーガン相手に舌出し失神KO負けで救急搬送......。

 幾多の画期的な試合や事件もあったが、引退試合でのセレモニーで「人間は挑戦をやめた時、年老いていくものだと思います」と説いたように、挑戦を繰り返した猪木さんのプロレス人生を象徴し、その人生観を表現した一戦。それは1976年6月26日、日本武道館で行なわれたボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリとの格闘技世界一決定戦だろう。

 この一戦は1975年3月7日、サンケイスポーツにアリが「東洋人で俺に挑戦する者はいないか。ボクサーでもレスラーでも空手家でも誰でもいい」と発言した記事を、猪木さんが本気で捉えたことが発端だった。プロレスラーがボクサーと試合、しかも当時、あらゆる世界のスポーツ界でカリスマ的な存在だったアリに挑戦することなど常人では考えつかない発想だった。

猪木さんは生前、アリ戦に挑む動機をこう明かしていた。

「あの発言はアリのパフォーマンスだったと思う。恐らく誰も真剣に捉えるヤツはいないと思っていたんだろう。でも、俺は当時、『アリが世界で一番強い』という評価を聞いて火がついた。強いのは俺たちだと思ってましたから。『だったらやってやろうじゃん』と、後先も考えずに突っ走ったんですよ」

 もうひとつの理由として、力道山時代からのプロレスに対する「八百長」「ショー」「インチキ」といった揶揄、誹謗中傷などへの反抗もあった。


「野球の『黒い霧事件』とか、騒ぎがあるごとにプロレスが引き合いに出されてね。俺は命がけで闘っているわけで、自分の仕事をバカにされたら黙っていられなかった。同時に俺の中で、そういう声を受けての劣等感みたいなものもあった。ただ、劣等感って大事でね。それがバネになることもある。プロレスの地位を確立したい思いもあった。
アリ戦へ動いたのは、そんな部分もありました」

 誰もが実現を信じていなかったアリとの一戦は、当時のマネージャーだった新間寿氏、通訳を務めたケン田島氏、副社長の坂口征二氏らの理解とバックアップを得て実現に至る。

 しかし、来日したアリ陣営から過酷なルールを突きつけられた。上半身へのキック、チョップ、投げ技などほとんどの技が禁止。要望を飲めないのならば、試合をキャンセルして帰国することを通告された。ただ、がんじがらめの制約を猪木さんはすべて受け入れた。その時の思いをこう明かす。


「俺は『全部、飲む』と受け入れた。俺にとっての一番のダメージは、アリがアメリカへ帰ってしまうことでね。あの時、悪口を書きたいヤツは山ほどいて、アリが帰れば『ほら、みろ、ざまぁみろ』と言われるのが目に見えていたから。とにかくアリをリングへ上げることが第一だった」

 ほぼ何もできないルールだったが、猪木さんには勝算もあった。入門から道場での練習で培ったレスリングと関節技の技術だった。道場で群を抜く強さを身につけていた猪木さんは、アリをリングに上げてしまえば仕留める自信があったのだ。



 しかし試合は、寝転んだ状態でアリの下半身を蹴ることしかできなかった。後に「アリキック」と呼ばれ猪木さんの得意技のひとつになったが、試合中は会場からヤジも飛んだ。

それでも6ラウンドには驚異的な技術でアリを倒し、顔面にヒジを入れる展開に。仰向けで無防備なアリの顔面にヒジをもうひと突き入れればKOできたはずだった。しかし猪木さんはそうすることなく、レフェリーが割って入って最大の勝機を逃した。

 試合は15ラウンドの判定で引き分け。翌日の新聞には「茶番劇」という見出しが躍った。右足の甲は腫れ上がり、剥離骨折するなど命がけで闘った猪木さんだったが、世間からの批判が集中した。一夜明けた失意を、猪木さんはこう振り返った。

「翌朝の新聞を読んだ時に批判ばかりでね。命がけで挑んだ勝負を誰もわかってくれないのかと、すごい挫折感がありましたよ」

 当時の妻で、女優の倍賞美津子と住んでいた代官山のマンションを出た時、一台のタクシーが猪木さんの横で止まった。そして運転手にこう声をかけられたという。

「ご苦労さん」

 このひと言が猪木さんは忘れられなかった。

「新聞を読んで、俺の周りは全員が敵だと落ち込んでいましたから、あの運転手さんのひと言に救われたんです。『あぁ、わかってくれている人がいるんだ』ってね。人生において、誰でもいろんな挫折があると思うんですが、瞬間的なひと言で立ち直れることがあることを教えられました」

 無謀な挑戦と笑われながら試合を実現させた行動力。困難なルールも受け入れた勇気。すさまじい批判に遭っても前を向く豊かな感受性。アリ戦には、プロレスラー「アントニオ猪木」のすべてが凝縮していた。

 だが、アリとの試合は続編があった。

 常識外れの試合を実現させたことで、縁もゆかりもないパキスタンから試合のオファーが届いたのだ。猪木さんはそれを受けて現地に飛び、地元のプロレスラーであるアクラム・ペールワンと闘って勝利した。

「アリと闘ったことを世界は評価してくれたんです。それまでパキスタンはまったく知らない国だったんだけど、そんな国からオファーがあった。それが俺は嬉しかった。アリとやったことで俺の名前が世界に広がったということ。それは金に変えられない出来事だった」

 猪木さんは20億円とも言われる莫大な借金を抱え、新日本プロレスを経営危機に陥れた。経営者としては失格だろう。しかし、世界に「アントニオ猪木」の名前を広める"リターン"を獲得した。副社長の坂口氏はこう言った。

「確かに会社は大変だったよ。でもアリとやったことで、ファンは『猪木なら何かやってくれる』と期待して、ひいては『新日本プロレスは何かをやる』っていう興味を引くことになった。それは会社としての力にもなったよね」

 猪木さんにとっての最大の収穫は、アリと友情で結ばれたことだった。パーキンソン病に冒されながらも、アリは猪木さんがプロデュースした1995年4月の北朝鮮・平壌でのプロレスイベントに来場。さらに東京ドームの引退試合にもゲストとして参加した。闘いを通じた交流。これも猪木さんの世界観だった。

「もしアリ戦で俺がヒジを顔面に入れていたら、その後のアリとの友情はなかった。そういう意味で、引き分けでよかったのかなと思う」

 成功か失敗か。そんなことはわからない。それでもリスクをかけて勝負する大切さを猪木さんは教えてくれた。その頂点がモハメド・アリとの一戦だった。当時は批判を集めたが、今では世界中で「総合格闘技の原点」と評価される試合となった。

 歓喜と失意を繰り返した猪木さんのプロレス人生。それを支えたのは「元気があれば何でもできる」の精神だった。難病指定の「心アミロイドーシス」を公表した晩年の取材では、こう明かしていた。

「これは本当にいい言葉だと思う。今、俺自身、体がボロボロになって『元気』の大切さを身に染みて感じていますよ。この元気こそが俺の源で、それは誰にとっても大切なことなんじゃないかな」

 猪木さんの肉体は天へ。しかし、「燃える闘魂」は永遠に不滅だ。