昭和の名選手が語る、
"闘将"江藤慎一(第12回)
前回を読む>>【大洋時代】犠牲フライの監督指示を無視。見逃し三振で堂々とベンチに戻ってきた

1960年代から70年代にかけて、野球界をにぎわせた江藤慎一という野球選手がいた。

本日、2023年2月28日は江藤の15周忌にあたる。ファイトあふれるプレーで"闘将"と呼ばれ、日本プロ野球史上初のセ・パ両リーグで首位打者を獲得。ベストナインに6回選出されるなど、ONにも劣らない実力がありながら、その野球人生は波乱に満ちたものだった。一体、江藤慎一とは何者だったのか──。ジャーナリストであり、ノンフィクションライターでもある木村元彦が、数々の名選手、関係者の証言をもとに、不世出のプロ野球選手、江藤慎一の人生に迫る。

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「磨けば光るダイヤモンドをどぶに捨てるのか」選手兼監督・江藤...の画像はこちら >>

太平洋クラブライオンズ時代、選手権監督だった江藤慎一

 江藤が太平洋クラブライオンズのプレーイングマネージャーに就いたのは、この福岡のチームが積極的に招いたのではなく、最初に大洋からの放出ありきであった。
江藤の自著『闘将火と燃えて』(鷹書房)によれば、球団からの電話一本で「太平洋に行け」と告げられたとある。左ひざに爆弾を抱える37歳の外野手は、新人の山下大輔をはじめとする若い選手への世代交代を始めた新しい首脳陣からすれば、使いづらいと判断されていた。

 移籍先の太平洋は前年まで「神様、仏様、稲尾様」の稲尾和久が監督をしていたが、新しく代表に就いた「まむし」こと青木一三に解任されていた。後任は大沢啓二に決まりかけていたが、そこから急遽、白羽の矢が立ったのが、九州出身の江藤だった。

 しかし、三顧の礼どころか、単身赴任用に準備された住居は、六畳一間のアパートだった。現在であれば、監督にふさわしいホテルのスイートルームの年間契約か、高級マンションが用意されるであろうが、当時のパ・リーグは絶望的な不人気状態にあり、1970年代初頭は巨人の1年分の観客動員数とパ・リーグ6球団合計のそれが、ほぼ同数で、埋めがたい格差が横たわっていた。

 特に太平洋は西鉄時代の1962年からその危機的なパ・リーグの平均入場者数さえ割るようになっていた。西鉄ライオンズは江藤が中日を出される1969年暮れに起きた「黒い霧」八百長事件で、選手と信頼を同時に失っていた。加えて親会社の路面電車事業が赤字で経営が行き詰まり、ついに1972年に球団が身売りされることになった。

 奔走したのが、ロッテの中村長芳オーナーだった。元来、岸信介元総理の第一秘書の中村が、野球の世界に飛び込み、東京オリオンズにロッテのネーミングライツを持ち込んだことは、もとは「オリオンズオーナーの大映の永田雅一を救ってやれ」という岸元総理の一言からであったが、ここにきて西鉄がライオンズの経営から撤退となれば、またも球界の安定が崩れてしまう。中村はロッテのオーナーでありながら、その引き受け先を探すべく、財界を走り回った。

 当初はペプシコーラが好意的にヒアリングに参加し、譲渡の寸前まで行ったが、結局、破談に終わった。東映もまた映画産業の斜陽によってフライヤーズを手放すことが決まっており、このままではセ・リーグに吸収される1リーグ制への移行か、阪急、近鉄、南海、ロッテの4チームによるパ・リーグ運営という事態に追い込まれていた。

 ライオンズの存続はペプシに断られて万事休すと思われたが、中村はここで驚くべき妙手を打った。自身が球団を運営する会社、福岡野球株式会社を設立し、ライオンズを買収して個人所有のチームとして再生を図ったのである(これによりロッテのオーナーは退任)。

 もとより、他チームの親会社のようにプロ野球チームの赤字を補填するような資本金などあるはずもなく、そこは得意のネーミングライツと入場料、グッズで経営を回していくやり方であった。親会社を持たないJリーグの地方クラブの現在の経営の仕方に似ている。

たとえば、2002年日韓W杯の開催都市になることを目的に設立された大分トリニータ(当時大分トリニティ)は、任意団体から大分FCに法人化し胸スポンサーを朝日ソーラー、ペイントハウス、トライバルキックス、マルハン......と変えているが、福岡野球株式会社の最初のメインスポンサーとなったのが、ゴルフ場、レジャー産業の雄であった太平洋クラブであった。

 一方、新生ライオンズに対して福岡市は冷淡であった。行政の支援はなく、平和台球場の使用料はむしろ跳ね上がり、練習では使えないのでプロが福岡大学のグランドを借りてトレーニングをするという船出だった。東映が手放したフライヤーズもまた不動産会社の日拓ホームが引き受け、何とか1973年のパ・リーグは成立した。

 1975年、監督に請われた江藤が一間しかないアパート住まいであるのも親会社を持たない球団の悲哀であった。選手兼指揮官という重責を担う者に対する待遇としては、みすぼらしいものであった。

 夏休みに福岡に遊びに行った江藤の長女の孝子は、雑居ビルに入っていたワンルームで貸し布団を敷いて雑魚寝をしたことを今でも覚えている。それでも江藤は「わしは野球さえできりゃあ、それでいいんじゃ」と意に介さなかった。

 初めての監督就任に際して、江藤はこんな言葉を自著に残している。

「人は、太平洋クラブライオンズを、山賊集団と呼び、ごろんぼ球団と呼ぶ。何と呼ばれようと勝手だが、少年フアンから、老人まで、太平洋クラブライオンズは夢を運んでくれるチームと思われる様にするのが私の務めだ、と思っている」「アトラクションという言葉があるが、アトラクティブ、つまり魅了するものがあるから人が集まる。プロ野球が、人を魅了しなくなってしまえば、おしまいだ」(『闘将火と燃えて』<鷹書房>)

 管理とリアリズムに徹した勝利至上主義を「小巨人」戦法と批判し、観客が魅了されてスタジアムに足を運びたくなるような野球をやると宣言している。

またこの年から、パ・リーグに導入された指名打者制については、何でもソツなくこなす選手よりも一芸に秀でた選手が生き残り、観客にも夢を与えることができる、と諸手を挙げて賛意を表明していた。

「これ程、社会が管理化し、会社では、あらゆる制約のもとに呻吟するサラリーマンの方や、受験地獄に苦しむ学生、その他全てのお客様が、その制約から解放されて球場に足を運ばれる。そこで再び、縮図のようながんじがらめの野球を見て、何が面白いものか、と私は思う」(『闘将火と燃えて』<鷹書房>)

 1975年、柳川商業を経て、電電九州から入団した真弓明信はプロ3年目を迎えていた。1年目は2試合、2年目は23試合出場と、二軍との往還を繰り返し、社会人出の戦力としては、伸び悩んでいる印象を周囲に与えていた。潤沢な予算がない球団のフロントはそろそろ整理リストにその名前を入れ始めていた。しかし、これに新監督の江藤がストップをかけた。「磨けば光るダイヤモンドをどぶに捨てるのか」と質したのである。

 江藤はいち早く、真弓のポテンシャルを見抜いていた。一軍の練習の手伝いにきていた真弓が外野の守備についてボールを追うと、出色の動きを見せていた。「あれは誰だ?」とコーチに名前を確認して脳裏に叩き込むと、フロントに抗議をしてまで使い続けた。一方、真弓はこの「ダイヤモンド」発言を知らなかった。

「それは聞いたことがなかったのですが、何か江藤監督に本当に目をかけてもらっているなという印象は持っていました。僕は一軍の最年少選手でしたから、移動する時などは、いつも監督のヘルメットを預かって持ち歩いてました。とにかく、大きなヘルメットだったという記憶があります(笑)」

 真弓はこの年、代走や守備要員をきっかけに起用され続け、78試合出場で打率も.311を記録する。出塁率が.364で長打率が.393、後に1985年の阪神優勝時に長打の打てるトップバッターとして活躍する萌芽を見せていた。

 指揮官の江藤は攻撃に特化したアトラクション野球を目指し、トレードで投手を出して強打者を取るという大胆な血の入れ替えを敢行した。編成は54人の支配下選手のなか、17人が新入団選手となった。日本ハムから白仁天、近鉄から土井正博を獲得すると、このふたりはそれぞれ移籍1年目で首位打者、ホームラン王になっている。さらに江藤は広島を自由契約になった国貞泰汎を獲得して、プレーの場を与えている。

「国貞さんも存在感のある先輩でした。広島の呉出身でカープに入団しながら、現役を追われていたので、江藤さんは、機会を与えようとされたのだと思います。かなり気を遣っておられました」(真弓)

 パ・リーグは外野席から捕手のサインを盗むといういわばスパイ行為が横行していたが、江藤は盗むなら盗めという姿勢を貫いた。投手が打たれたら、その分、取り返せばよいという初代山賊打線はこうして出来上がった。1番D.ビュフォード(三)、2番基満男(遊)、3番M.アルー(一)、4番土井正博(右)、5番白仁天(中)、6番江藤慎一(左)、7番竹之内雅史(指)、8番国貞泰汎(二)、9番楠城徹(捕)のレギュラーを中心に叩き出したチーム打率は.260.8でリーグ1位を記録した。投手陣もまた東尾修が23勝で最多勝を記録。チーム成績も前期が2位、後期が4位で総合3位でゴールしている。

 太平洋クラブライオンズがAクラスに入ったのはあとにも先にもこの1975年だけであった。特筆すべきは、この年に優勝した阪急に対して太平洋は17勝8敗と圧倒的に勝ち越しており、またプレーオフで阪急と戦った近鉄とは12勝12敗で、五分の星であった。江藤の反骨精神の表れか、2強と言われたところに結果を残した。

「下位のチームから星を稼ごうというのではなくて、強いチームにこそ勝ってやろうという気風がありましたね」(真弓)

 一方で真弓はまた、江藤がふだんから見せる豪快な一面とは別に、配球や前の打席のプロセスをベンチ内で丁寧に分析していることに気がついていた。

「配球なんか、もう全部覚えてるんだという印象がありました。豪快な野球をするなかでどうすれば勝てるか、非常に緻密に見ておられました。今、思えば太平洋は本当に環境が厳しかったんですよ。入団発表ってありますよね。僕の1年目はドラフトと移籍選手の同期が全部で7人いたんですけど、それを喫茶店でやったんですよ」

 真弓が入団した1972年、通常ホテルの宴会場で金屏風をバックにして行なう新人入団会見は、球団事務所近くの喫茶店に椅子を7つ並べて行なわれた。記者やカメラマンはそこですし詰めになりながら、メモを取り、シャッターを押した。

「他を知らないのでこれが普通なんだろうと思っていたんですが、そういうのがずっとあって。だから、江藤監督が狭い部屋を借りて暮らしていたっていうのも、驚きもしなかった。僕は阪神に行ってからあまりの華やかさにこれがプロ野球かと驚いたくらいです」

 後年、その阪神で監督を務めた真弓は江藤の監督としての資質を稀代のモチベーターであったと振り返る。楽天イーグルスの初年度よろしく、なかなかよい選手が集まらないなかで、選手へのモチベーションアップと配慮を行ない、移籍1年目の選手に首位打者とホームラン王、生え抜きの高卒投手に最多勝を獲らせた。

「他にもたとえば、国貞さんなんかのベテランは、最盛期を越えて少し成績が落ちぎみでしたが、そういう選手を集めているんで、常に何か刺激を与え続けないといけないと考えていたのでしょうね」

 筆者は、真弓に聞いておきたいことがあった。インターネットを含むさまざまな媒体のなかで、太平洋監督時代の江藤と選手との間に不仲、不和があったという言説である。

「それはありえないですよ。江藤監督が試合の勝ち負けや過程で選手をどうこう言うのはなかったですし、そんな関係だったら、順位も上がりません。土井さんなんかは、江藤さんの打撃フォームの影響を受けていたように見えました」

 中村オーナーは「江藤は戦力補強で一切の言い訳をしない監督だった」と吐露している。現有の勢力でどれだけ成績と観客動員を伸ばせるかを考えた結果、常に選手を鼓舞し続けた。真弓はことあるごとに「とにかく思いきってやれ!」と声をかけられた。

 水島新司の漫画『あぶさん』の小話「縄のれん」のなかで象徴的なシーンがある。スクイズのサインを見落として敗因を作った主人公のあぶさんこと景浦安武がその失敗を引きずり、試合後にふらりと入った居酒屋で、奥にいた監督江藤が4番の土井になぜ失投を見逃したと説教をした上で三冠王を狙えと檄を飛ばしているのである。

「王を抜いてみんかい。加藤、有藤、松原、もうひとつパンチ不足たい。長池や田淵には首位打者は無理。三冠王を狙えるのはお前しかおらんと」景浦が入って来たことに気づいていた江藤は、失敗のあとこそ、切り替えろと説く。そしてこんなセリフを吐く。「我が山賊チームは過去において何かと問題のあったやつばかりや、このわしにしてからが、中日はクビになるし会社はつぶすし借金は背負い込むし...のお」「我が山賊チームには、過ぎたことをクヨクヨする奴ア一人もおらんバイ」「あれじゃあ南海をクビになっても、ウチで拾ってやるわけにゃあいかんバイ」最後は景浦につらいときは店の縄のれんをにらんで忘れろと伝え、「禍福は糾える縄のごとし」という言葉を伝えて励ますのである。

 もちろん『あぶさん』はフィクションであるが、今更ながらに水島新司が当時のパ・リーグの球界事情と選手のキャラクターに精通していることに驚く。

 江藤はこの年、9月6日の藤井寺球場での近鉄戦で9回表に柳田豊からライト線への二塁打を放ち、2000本安打を達成した。プロ野球の歴史のなかで9人目という快挙であったが、今と違い、セレモニーもなくメディアの扱いもベタ記事でしかなかった。試合後、江藤本人も「記録よりも勝てばチームは5割だった。勝ちたかった」という監督としての立場にウエイトを置いたコメントを出している。自身の偉業達成よりもチームのことを考えていた証左であろう。

 選手としての名球会入り、監督として3人のタイトルホルダーの輩出と球団史上最高位の3位。成し遂げた結果は小さくなかったが、江藤は監督を解任される形で、またも1年でチームを追われた。

 予算のないチームにも関わらず、個人成績が上がり、選手の年俸が高騰したことを快く思わなかった球団幹部に疎まれたとも言われているが、シーズン終了後、太平洋のフロントは大リーグのドジャース、ジャイアンツ、カブスアストロズで指揮を執り、ワールドシリーズを制したこともある名将、レオ・ドローチャーの招聘を華々しく打ち上げたのである。江藤はバッティングコーチとの兼任を打診されたが、これを固辞して現役一本での続行を望んだ。

 結果的にドローチャーは健康上の理由で来日をせずヘッドコーチの鬼頭政一が監督に就いたことを考えると不可思議な交代劇であった。真弓はこう振り返る。

「僕は本当のチーム事情とかわからないんですけど、ただ、その前は万年最下位みたいなチームが3位になって、やっぱり、何で監督が代わるのという疑問は出ていたと思いますよ。成績を残した監督を辞めさす理由づけにドローチャーっていう名前を出したんじゃないかとさえ思うんです。いくら大リーグの名将でももう70歳を超えていましたしね。僕はライオンズに6年在籍してタイガースに移籍しましたが、人間形成からすると、ライオンズの時にすべて教えてもらったと思っています。1年目の稲尾さん、そして2代目の江藤さん。環境は厳しかったですけれど、そこに自分の原点はありますね」

 首位打者を3回獲得し、2000本安打を達成したプレーイングマネージャーは再び、ロッテに現役の道を求めて移籍した。ロッテの監督は金田正一で、ベテランに対しても容赦ないランニングのノルマが課せられていた。金田は経験のある選手を受け入れてチームに好影響を与えることを期待する傾向があり、1978年には野村克也を南海から獲得している。

 有藤通世はこう回想する。「江藤さんも野村さんも大ベテランの域でしたが、容赦なく金田さん名物のハードな練習の洗礼を受けていましたよ。それこそ、壊れてしまうんじゃないかというくらい負荷のかかったものでした」

 それでも38歳の江藤はこれをやり遂げ、13キロの減量に成功した。減量の甲斐もあってシーズンが開幕すると、4月から試合を決めるホームランを量産してチームの勝利に貢献した。5月も好調を維持したが、6月に太腿の古傷を再発させてしまう。治りは遅く、ここから、試合の出場機会が途絶えていった。

 8月、中学2年生の娘の孝子がホームステイ先の米国アリゾナから帰国すると、江藤が羽田空港に迎えに来ていた。「それこそ、ロッテのアリゾナキャンプの縁でつながったステイ先に行かせてもらっていたのですが、父がシーズン中なのに空港に来てくれていたので、驚いたんですよ。そうしたら......」江藤は到着ゲートから駐車場に向かう道すがら、「パパはもう今年で野球を辞めることにした」と告げた。孝子は楽しかったアリゾナでの思い出を瞬時に忘れてしまうような寂しさに襲われた。

 江藤はこうして、18年の現役生活を終えた。熊本から出て来て以来、家族の生活を支え続けてきたバットを静かに置いたのである。

(つづく)