鉄平インタビュー(前編)

 大分・津久見高時代から「九州のイチロー」と称されるなど、注目を浴びていた鉄平氏。2000年のドラフトで中日から5位指名を受け、プロの世界に飛び込んだ。

だが入団早々にコンバート、トレードを経験。それでも新天地・楽天でレギュラーの座をつかむと、09年には首位打者を獲得。13年には日本一も経験した。波乱万丈の野球人生を鉄平氏に振り返ってもらった。

鉄平「オリックスでは行方不明状態でした」2度のトレードで味わ...の画像はこちら >>

【中日では毎日が緊張の連続】

── 野球を始めたきっかけは何だったのですか?

鉄平 小学校1年の時に、3歳上の兄について大分市の「ふじが丘少年野球団」に入りました。ほかのスポーツとは違う、野球の独特なユニフォームを着てみたいというのが動機でした。卒業後は稙田南(わさだみなみ)中学に進み、軟式でプレーしていました。

そこは5年先輩に安藤優也さん(元阪神)、1年先輩に脇谷亮太さん(元巨人ほか)、さらに僕の10年後輩に甲斐拓也選手(ソフトバンク)と、僕を含め15年間で5人のプロ野球選手を輩出する中学でした。

── 中学卒業後は津久見高に行かれますが、進学を決めた理由は何だったのですか。

鉄平 中学3年の夏、兄が行っていた柳ヶ浦高が津久見に敗れたんです。僕はその印象が強く、津久見に誘っていただいたこともあって進学を決めました。当時からプロを意識していて、親元を離れて野球に打ち込みたいと考えていました。

── 50メートル5秒9の俊足、遠投110メートルの強肩を武器に1年からショートのレギュラーとして試合に出場し、高校通算打率.551、32本塁打の成績を残されました。

「九州のイチロー」と称されていましたが、プロを現実のものとして意識していましたか。

鉄平 同じ年の高校生が投げる球だったら「どこにきても弾き返してやる」という意識は持っていました。ただ、1歳上の脇谷さん(柳ヶ浦高)は大学から社会人に進んでのプロ入りでしたし、同級生の内川聖一(大分工高→2000年横浜ドラフト1位)とは対戦経験がなかったので、自分の実力を測る指標がありませんでした。だから、中日に5位指名された時はうれしかったですね。

── 2003年オフに外野にコンバート。そして4年目の2004年6月1日の試合で「6番・レフト」で初スタメン。

この年は50試合に起用され、日本シリーズにも出場しました。プロでやっていく自信みたいなものが生まれたのではないですか。

鉄平 いえ、僕の性格かもしれないですが、そのような自信はまったくなかったです。逆に「野球ってこれほど冷や汗をかきながらプレーするものなのか」と感じていました。本当に毎日が緊張の連続でした。

── 2004年は落合博満監督が就任して1年目で優勝。

二遊間を守る荒木雅博選手、井端弘和選手の「アライバ」コンビを筆頭に、捕手には谷繁元信選手、外野手には福留孝介選手、アレックス・オチョア選手などタレント揃いで、中日黄金時代の幕開けとなりました。

鉄平 若手は、とくに打撃で割り込んでいくのは難しかったですね。守備や走塁からチャンスをつかんでいくしかないのですが、どの先輩も意識が高かった。正直、先輩たちを脅かせるのは"若さ"しかありませんでした。だから、守備固めや代走で出場機会をいただいた時は、なおさら「しっかりやらなきゃ。ミスは絶対にできない」という思いが強かったですね。

【首位打者でも自信を持てなかった】

── 2005年オフにトレード通告があった時の心境は、安堵感、心機一転、どちらの気持ちが大きかったですか。

鉄平 トレードの話を聞いた時は、驚きと中日の生え抜き選手としてやり遂げることができなくなってしまった寂しさや悔しさがありました。でも、気持ちをすぐに切り替えて「このチャンスを生かせなかったら、自分には力がなかったと割りきろう」と。

── 移籍1年目に開幕スタメンを果たし、その年、打率.303の好成績を挙げられました。

鉄平 シーズン120安打を放ち、打率も3割をマークしましたが、それでも「プロでやっていける」と確信めいたものはなかったです。それまでやってきた自分なりの財産、がむしゃらな気持ちでプレーを続けたのが3割超えにつながったと思います。

── 2009年に首位打者(打率.327)を獲得された時は、さすがに自信がついたのではないですか。

鉄平 あの年にしても、春先とシーズン終盤の構えは全然違います。野球人生を振り返っても「これでいける」と思ったことはないですね。さっきも言いましたが、これは僕の性格かもしれませんが......(笑)。

── 鉄平さんの打撃へのこだわりをひと言で表現すると?

鉄平 僕が大事にしていたのは「バットの出(で)」です。(左打者の)僕が構えていて、右足を地面に着いて、打ちにいく瞬間にどれだけ早くスムーズにバットを出せるか。「ここだ!」と思った瞬間に、バットをミートポイントまで持っていけるか。それができている時はいい打球が多かったように思います。

── 2011年に低反発の"統一球"が導入され、「すべてを失った」というコメントがありましたが、その時の心境はどのようなものだったのですか。

鉄平 無駄に力が入るようになりました。結果的にそこまで気にしなくてよかったのかもしれないですが、打感の悪さや飛距離の減少に過敏に反応してしまいました。インパクトまでのバットの持っていき方や力の入れ方を変えてしまい、その後の打撃がうまくはまらず、悪循環に陥りしました。

【日本一直後のトレード】

── 2013年には選手会長を務め、球団創設9年目で悲願のリーグ優勝、日本一を達成されました。

鉄平 やっと優勝できたなという気持ちでした。その一方で、僕はあのシーズン、後半はあまり役に立てていないんです。日本シリーズにも出ていませんし......。だから、悔しさのほうが大きかったですね。ただそういう反骨心がないと、プロ野球選手としてやっていけないと思うんです。

── 2013年オフにトレードでオリックスに移籍。オリックスでは2年間プレーされ、33歳で現役を引退されました。

鉄平 この移籍は悔しいというより、寂しさのほうが大きかったです。自分を大きくしてくれた楽天への強い思いがありましたし、そこで終わるのかなという気持ちもありましたから。中日から楽天に移籍してきた時とは違う"寂しさ"でした。

── オリックスでの2年間はどんな時間でしたか。

鉄平 オリックスでは"行方不明"状態でした(笑)。一軍であまり活躍ができなくて、存在感が薄れて、どこにいるのかわからない状態だったということです。「現役としてはもう厳しいかな」と感じつつ、一方で後輩たちに打撃のアドバイスをする面白さを見出したのがオリックス時代でしたね。

── 現役生活15年のなかで、うれしかったこと、悔しかったことは何ですか。

鉄平 一番うれしかったことは、プロ初安打です。2004年4月30日にナゴヤドーム(現・バンテリンドーム)で横浜ベイスターズの加藤武治さんからのライト前ヒットでした。悔しかったことは、2013年の日本一の時にチームの歯車になりきれなかったことです。あとは、密かに1500安打を打てるくらい長く現役生活をやりたいと思っていたのが、大きく下回って(通算878安打)引退したことに、プロ野球の厳しさ、難しさを感じました。

後編につづく>>


鉄平プロフィール
本名:土谷鉄平(つちや・てっぺい)/1982年12月27日、大分県生まれ。津久見高から2000年ドラフト5位で中日に入団。05年オフにトレードで楽天へ移籍すると、06年にはレギュラーとして、自身初の3割をマーク。09年には首位打者を獲得し、ベストナインにも輝いた。13年オフにトレードでオリックスに移籍し、15年に現役引退。引退後は楽天の球団職員を経て、19年から21年までコーチを務めた。現在は解説者として活躍