鉄平インタビュー(後編)

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 鉄平氏は現役時代、5人の監督のもとでプレーしているが、星野仙一氏、落合博満氏、野村克也氏の日本球界を代表する3人の名将を知る稀有な存在である。それぞれどのような監督だったのか。

鉄平氏に聞く。

鉄平が落合博満の眼力、慧眼に驚き「おまえ、もともと左打ちじゃ...の画像はこちら >>

【落合監督と話したのは3度だけ】

── 落合監督との最初の「出会い」はどんな状況でしたか。

鉄平 もう20年くらい前になりますが、今でも鮮明に覚えています。2004年の春季キャンプ前日、宿舎の宴会場に選手全員集められて、初めて生で落合さんを見ました。テレビでしか見たことがなかった伝説の人でしたからね。話し方、仕草......すごいオーラがありました。その時に「各自10%の実力を底上げしなさい。

それができたら優勝させてやる」と。そして翌日から"地獄の練習"が始まったのです。選手が成長したのは10%どころではなかったと思います。しかも有言実行で、チームは優勝したわけですから。あらためてすごい監督だなと思いますね。

── 鉄平さんは落合監督直々のノックは受けられたのですか。

鉄平 その頃はすでに外野にコンバートしていたので、受けてないです。内野手の井端(弘和)さん、荒木(雅博)さんにノックの雨を降らせていました。

── 打撃指導はどうでしたか。

鉄平 直接指導してもらったことはないです。落合監督が練習中に選手に話しかけることは、ほとんどなかったです。あったとしても、ひと言ポツリと言うだけで、僕は言葉をかわしたのは3度しかないです。

── どんな話をされたのですか。

鉄平 ティー打撃をしていた時のことです。その時に「おまえはもともと左打ちじゃないだろう」と。僕は小学校まで右打ちだったのですが、そのことを指摘されたのは初めてでした。おそらく、スイング時の体の回転などを見て見抜いたのでしょう。落合監督から見たら、僕は左打者になりきれていなかったのでしょうね。

その眼力、慧眼には驚きました。

── ほかにはどんなことを話されましたか。

鉄平 キャンプでは1日5時間くらい打撃マシンの球を打っていたのですが、夢にまで出てきて、ビクッとして飛び起きてしまうんです。たまたま食堂であった落合監督にその話をしたら、「そうだろう、そうだろう」と言って、ニヤリと笑っておられました。

── 鉄平さんの猛練習が、落合監督にはうれしかったのでしょうね。そして落合監督も現役時代に夢に出てくるまでマシン打撃をやっていたということですね。

鉄平 そうだと思います。そして落合監督との最後の会話ですが、楽天に移籍した2006年です。開幕スタメンを果たした僕は、交流戦まで打率.280前後を打っていました。フルキャストスタジアム宮城(現・楽天モバイルパーク宮城)で中日戦があったので、落合監督にあいさつに行くと「鉄平、よく頑張っているな。おまえを(トレードで)出した甲斐があったよ」と。出場機会を与えようと、落合監督がトレードに出してくれたんだとその時に感じました。

その言葉はうれしかったですし、心に響きました。その試合で1試合4安打をマークするのですが、そういう形で恩返しできてよかったです。

── 「落合野球」を表現すると、どんなものになりますか。

鉄平 スタイル自体は「守り勝つ」野球です。ただ、僕のなかで落合監督といえば"猛練習"です。練習はウソをつかない......いや、「練習したヤツが勝つんだ。誰よりも練習しろ」と。落合監督はそれを骨の髄まで染み込ませてくれた方ですね。

【野村監督が安物の張本勲と称賛】

── その落合監督に対し、野村監督は交流戦の試合前、「鉄平みたいないい選手をなぜ出したんだ?」と言っていたそうです。野村監督はどんな印象でしたか。

鉄平 最初から思い描いていた、物腰の柔らかいイメージどおりの方でした。感覚で物事を進めず、常に理論的に言葉や文章に落とし込む。春季キャンプでは毎晩ミーティングで"戦略"や"打者の4タイプ"などを教わりました。

── 打者の4タイプとは?

鉄平 A型(ストレート待ちで変化球に対応するタイプ)、B型(内角、外角のコースに的を絞るタイプ)、C型(流すか引っ張るか、打つ方向を決めるタイプ)、D型(球種にヤマを張るタイプ)の4つです。

── ちなみに鉄平さんはどのタイプだったのですか。

鉄平 2006年まではA型でした。以降はB型とC型の併用。D型はほとんど使わなかったです。野村監督1年目の2006年にいきなり打率3割をマークできましたが、その時は監督の教えをまだ完全に体現できていたわけでなく、首脳陣の方が我慢して使ってくれたおかげです。

── 野村監督は鉄平さんのことを「安物の張本勲(通算3085安打、首位打者7回)」と言っておられました。

鉄平 野村監督はよく「無視、称賛、非難」のフレーズを使っていました。三流選手は無視、二流選手は褒めて上を目指させる。そして一流選手は勘違いしないように非難する。自分も"称賛"のところまで来られたのかと、うれしかったですね。

── 野村監督と野球について話をしたことはありましたか。

鉄平 けっこうメディア経由でしたね。野村監督は現役時代、うしろ側の足の軸足回転で打つタイプだったらしいのですが、僕はうしろ側の足から前側の足への体重移動で打つタイプでした。だから「前に突っ込みすぎではないか」と、何度か直接指摘されました。

── 2009年、日本ハムとのクライマックス・シリーズ(CS)ファイナルステージで、退任が決まっていた野村監督は試合後、両チームのナインに胴上げされました。「ON(王貞治氏、長嶋茂雄氏)でもあんなことはなかった」と、かなり喜んでいたそうです。

鉄平 (当時)楽天の山﨑武司さんと日本ハムの稲葉篤紀さんの音頭で、胴上げが始まりました。僕も参加させていただいたのですが、あの光景に、あらためて野村監督が球界に残してきたものの大きさを感じました。

── 「野村野球」を言葉にすると?

鉄平 「考える野球」「準備野球」でしたね。つまり、起こってからでは遅い。物事が起こる前に準備をしておかなくてはいけません。野球は間(ま)があるスポーツだから、いろんな状況をシミュレーションして、頭のなかで準備しておきなさいと。

【星野監督は気のいいおっちゃん】

── 野村監督からマーティ・ブラウン監督に代わり、2011年から星野監督が指揮を執ることになりました。

鉄平 もともと2000年秋のドラフトで、僕をプロに入れてくれた方です。まさか、また選手と監督で再会するとは思ってもいませんでしたが、星野監督からは楽天の新主将に指名されました。

── 鉄平さんを主将に任命したのは、星野監督からの信頼が厚かったからでしょうね。

鉄平 2009年に首位打者のタイトルを獲得し、年齢的にもいい頃だったこともあったと思います。それだけに星野監督が就任してから、僕自身が思うような成績を残せず、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

── 中日、楽天と星野監督のもとでプレーしましたが、あらためてどんな指揮官でしたか。

鉄平 ユニフォームを着ている時は、まさしく"闘将"です。よく星野監督が言っていたのが、「常にファイティンポーズをとり、ゲームセットになるまであきらめないで戦い。試合を見てくれているファンのためにも、疲れているそぶりは見せずに戦いきれ」と。しかし、ひとたびユニフォームを脱ぐと、本当に失礼な言い方なのですが、めちゃくちゃ優しくて"気のいいおっちゃん"でした(笑)。だから、そのギャップがすごかったですね。

── 「星野野球」をひと言で表現すると?

鉄平  "闘争心"です。それにしても、星野監督、落合監督、野村監督と三者三様でした。星野監督には「気持ちの大切さ」、落合監督には「練習の大切さ」、野村監督には「考えることの大切さ」を教わりました。これはものすごく大きな財産になりました。今後、野球を志す後進のためにも、教えを還元していけたらと思っています。

おわり


鉄平プロフィール
本名:土谷鉄平(つちや・てっぺい)/1982年12月27日、大分県生まれ。津久見高から2000年ドラフト5位で中日に入団。05年オフにトレードで楽天へ移籍すると、06年にはレギュラーとして、自身初の3割をマーク。09年には首位打者を獲得し、ベストナインにも輝いた。13年オフにトレードでオリックスに移籍し、15年に現役引退。引退後は楽天の球団職員を経て、19年から21年までコーチを務めた。現在は解説者として活躍