定岡正二×篠塚和典

長嶋一次政権"投打のドラ1コンビ"対談 前編

"芸術的"と称されたバットコントロールと守備で巨人の主力として活躍し、引退後は巨人のコーチを歴任した篠塚和典氏と、"甲子園のアイドル"として絶大な人気を誇り、巨人入団後は江川卓氏、西本聖氏とともに先発3本柱として活躍した定岡正二氏。

 旧知の仲であるふたりに、高校時代や巨人入団時、さらには語り継がれる地獄の伊東キャンプ、一軍で活躍し始めた頃のエピソードを語ってもらった。

篠塚和典と定岡正二が振り返る高校時代と、巨人の若手時代 原辰...の画像はこちら >>

【定岡は甲子園で原辰徳と対戦「ほかとは違う選手」】

【動画で見る】原辰徳、地獄のキャンプ裏話 篠塚和典×定岡正二 スペシャル対談①

――おふたりの高校時代からお聞きします。1974年夏の甲子園では、定岡さんは鹿児島実業のエース、篠塚さんが銚子商業の4番として大活躍されました。お互いのことをどう見ていましたか?

篠塚和典(以下:篠塚) 鹿児島実と東海大相模の準々決勝の試合が印象的でした。延長15回をサダさん(定岡氏の愛称)がひとりで投げ抜いて勝った、すごい試合でしたからね。その戦いぶりを見て、鹿児島実がその後も勝ち上がってくるんじゃないかと見ていましたよ。

定岡正二(以下:定岡) 本当かよ?(笑)。いやいや、それはないと思う。シノ(篠塚氏の愛称)はテレビで見ていたの?

篠塚 見ていましたよ。途中からナイトゲームになりましたよね。

定岡 そうそう。たぶん9割の方が、優勝候補の東海大相模が勝ち上がると思っていたでしょうね。シノは俺の名前は知っていたの?

篠塚 知っていましたよ。

定岡 うれしいね。

あまりこの頃の話をする機会がないから、それもうれしいよ(笑)。僕は銚子商といえば、やっぱり土屋正勝投手(元中日、ロッテオリオンズ)が印象的でした。ものすごいピッチャーでしたから。もちろん、4番を打っていたシノもすごいバッターということで知っていましたけどね。

――鹿児島実と東海大相模との激戦で印象に残っていることは?
 
定岡 やっぱり原辰徳です。シノは自分より年齢がひとつ下なんですが、原はもうひとつ下なので、僕が3年生で彼が1年生。2年の差があれば打たれない感覚があったんですが、見事に3安打も打たれました(笑)。

 インコースに投げたらバットが折れる、というくらい球威に自信があったのですが、同年(1974年)の夏の大会から金属バットが導入されたんですよ。原をはじめ、東海大相模の打線がその金属バットをとにかくフルスイングをしてくるので脅威でしたね。それぞれ構えたときの雰囲気も違いましたし、そういうチームがほかにありませんでしたから。

――どんなところに原さんのすごさを感じましたか?

定岡 最初の打席でアウトコースにすごくいい球を投げたんですが、それを簡単にヒットにされました。「あのアウトコースが届くのか......1年生があそこまでフルスイングしてくるんだな」という印象が強くて。

ちょっとほかの選手とは違うなと。

篠塚 ホームランは打たれませんでしたか?

定岡 打たれるわけないだろ(笑)。甲子園では、ホームランを打たれた記憶はあんまりないかな。

【どもにドラフト1位で巨人へ】

篠塚 次戦の準決勝で敗退となりましたね。

定岡 相手は山口県の防府商工だね。銚子商は決勝でその防府商に勝利して優勝したわけだけど、楽勝だった?

篠塚 楽勝でした。

定岡 かっこいい(笑)。僕らもあそこまでいったら、決勝までいって銚子商と戦いたかったな。

篠塚 でも5回までは無得点でしたし、手こずりましたよ。相手のピッチャーがサイドスローで、つまらされたりしましたし。

定岡 シノは決勝で打ったの?

篠塚 2安打しました。点が取れたのは、6回のツーアウトからでしたね(6回に一挙6得点)。そこまでは押され気味の展開だったんですが、相手のセンターが突っ込んでくれば捕れたんじゃないかっていう当たりがヒットになって、そこから打線がつながりました。

定岡 勝負って、そういうもんだよね。

――この大会の銚子商は2回戦から登場しましたが、最初にPL学園に5-1で勝利したのを皮切りに、決勝の防府商戦は7-0で勝利するなど圧倒的な強さで優勝しました。

篠塚 5試合で1点しか取られませんでした。それも、押し出しの1点です。

定岡 トータルで1失点はすごいな。

――その後、定岡さんは1974年のドラフト1位、篠塚さんは1975年のドラフト1位でともに"長嶋ジャイアンツ"に入団しました。

定岡 シノが初めて合宿所に来た時、僕に挨拶しに来たんです。自分と同じドラフト1位で入った選手なので親近感がありましたし、最初に見た時は「おぉ、これがドラフト1位の篠塚か」と。寒い時期だったこともあって、シノはコートを着ていたのですが、それが一番印象的でしたね。「やっぱり東京の人間はコートを着てくるんだ。鹿児島にはコートなんかないんだけど」みたいな(笑)。

――徐々に頭角を現し、1981年には定岡さんが11勝、篠塚さんは打率.357の好成績。

同年は日本シリーズで、江夏豊さんや巨人のV9を支えた高橋一三さん、トニー・ソレイタさん、島田誠さんらがいた日本ハムを破り、V9以来の日本一になりました。

篠塚 地獄の伊東キャンプ(1979年オフ)を経験したメンバーで、なんとか強いチームを作っていこうという時期でした。ただ、1981年の開幕当初は、ルーキーだった原がセカンドを守っていて、自分の出場機会は減っていました。

 それが、サードを守っていた中畑清さんが5月にケガをして、原がサードに回ってセカンドのレギュラーに復帰できたんです。結果だけ見ればよかったですが、開幕して1カ月くらいは試合に出られずにずっとチャンスをうかがっていました。

定岡 僕は伊東キャンプには(腰痛のため)参加していなくて(笑)。期待されてなかったのかな?

【伊東キャンプを経て篠塚、定岡も奮起】

篠塚 みんな期待していましたよ。長嶋茂雄監督がサダさんを連れていかなかったのは、逆に強い気持ちを持たせる思惑があったんじゃないですか。

定岡 プロ入り後は二軍暮らしが続いていましたけど、キャンプはずっと一軍に呼ばれていたし、伊東キャンプにも「いの一番で呼ばれるんだろうな」と思っていたら外されて......。だけど、今シノが言ったように、逆にモチベーションを高めようとしてくれていたのかもしれませんね。実際に、伊東キャンプの翌年はプロ初勝利を含む9勝を挙げましたから。

 あと、原が入団してシノが弾き出されるような形になった時は、僕らも「何で?」と思いましたよ。

競争をした末に決まったわけではなかったし。でも、僕らがとやかく言える立場ではないですしね。それでも、中畑さんのケガがきっかけになって、中畑さんがファースト、原がサード、シノがセカンドと、みんながそれぞれのポジションにうまい具合に収まった(笑)。中畑さんとこの話になる時は、いつも笑い話になるけど、野球の神様が見ていたのかなと。そういうことを感じる年でした。

――V9後のチームづくりという観点でみた時、1981年は重要なシーズンでしたか?

篠塚 そうですね。伊東キャンプの時には王貞治さんがまだ選手でいましたから。でも、現役の晩年という感じでしたし、ミスターが「ここにいるメンバーが、これから10年、15年とジャイアンツを支えていくんだ」と言っていた。

 V9の功績があまりにも大きいので、その時のメンバーがみんな抜けてしまったあとにどうなってしまうんだろう、僕らでやっていけるのかな、という思いはすごくありました。ですが、日本シリーズでも木田勇投手(前年に22勝8敗で史上初のMVP&新人王同時受賞の左腕)からホームランを打てましたし、1981年は自信を持てたシーズンでした。伊東キャンプに行ったメンバーのほとんどが、その頃からレギュラーとしてやっていくようになりましたね。

(中編:長嶋茂雄エピソード 「おい、定岡! 相撲をとるぞ」「シノ、腐るなよ」>>)

【プロフィール】

■定岡正二(さだおか・しょうじ)

1956年11月29日生まれ、鹿児島県出身。

1974年のドラフト1位で巨人に入団。長嶋茂雄監督の指揮のもと、1980年にプロ入り初勝利を挙げた。藤田元司監督が就任して最初のシーズンとなった1981年にはプロ入り初の2ケタ勝利(11勝)。翌年にはオールスターに初出場、自己最多の15勝を挙げ、同年代の江川卓や西本聖とともに"先発3本柱"として活躍した。通算成績51勝42敗3セーブ。現役引退後は、タレントとしても活躍の場を広げた。

■篠塚和典(しのづか・かずのり)

1957年7月16日生まれ、東京都出身、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年を最後に現役を引退して以降は、巨人で1995年~2003年、2006年~2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。

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