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文武両道の裏側 第22回
尾﨑世梨(フェンシング サーブル日本代表)後編(全2回)

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 大学スポーツ協会が毎年開催している表彰式「UNIVASアワード」のウーマン・オブ・ザ・イヤーで優秀賞を獲得した尾﨑世梨。法政大学在学中にパリオリンピックで銅メダルを獲得し、現在はロサンゼルスオリンピックに向けて活動を続けている。

「文武両道の裏側」後編では、学生時代のスポーツと勉強のやり繰りについて話を聞いた。

【代表活動で超多忙な中高時代】

――中学2年と3年で全国優勝して、忙しくなったということですが、どのような活動が多くなったのでしょうか。

 中学2年で優勝して、そこで初めて海外の試合に出場しました。その大会で日本人選手のなかでは一番成績がよかったこともあって、そこからカデ(13歳以上17歳未満)とジュニア(17歳以上20歳未満)のカテゴリーの日本代表の合宿に呼ばれ始めました。1年間のうち三分の一くらいは合宿とか海外遠征に行っていたと思います。合宿がだいたい1~2週間あったりして、テストを受けられない時期もありました。勉強とフェンシングの両立が大変だなと思い始めていた時期です。

――どのようにして勉強をしていたんですか。

 友達にノートを取ってもらってその写真を送ってもらったり、テスト範囲を教えてもらったりして、合宿での練習が終わってから夜に勉強していました。ただ先生もフェンシングを応援してくれていて、理解してくれていたのでよかったです。

―― 中高一貫校ではありましたが、高校は北海道ではなく鹿児島を選んでいます。それはどのような理由だったのでしょうか。

 進学した鹿児島南高校はインターハイで優勝をしていた先輩がいたり、団体でも何度も優勝をしている高校なので、さらにいい環境でフェンシングをしたいなと思って、その高校にしました。

ただ県外の生徒は一般入試を受けないといけなかったので、それに向けて勉強をして試験を受けて入学をしました。

――やはり勉強をやる必要があったのですね。高校ではどのような生活でしたか。

 私は下宿生活を送っていましたが、高校時代が一番忙しかったですね。体育科ということもあって、まずは朝練から始まって、1~4限で授業を受けて、5~6限は週2回が体育で、週2回は5~6限から部活というスケジュールでした。練習は毎日19時30分くらいまでやっていたと思います。昼休みも練習した時期もありましたので、基本は午後からずっと練習ですね。

――それだとなかなか勉強する時間を取れないですね。

 そうですね。ただ顧問の先生が、"勉強あっての部活"という考え方でしたので、ハードな練習スケジュールではありますが、例えば、テストで赤点を取った人は放課後に勉強になることはありました。勉強をないがしろにしていい環境ではまったくなかったです。だから私もテストでしっかり点数を取れる勉強はしていました。

――学業の成績はどうだったんですか。

 教科にもよりますが、上位のほうが多かったです。限られた時間のなかで、スポーツも勉強もやることが一番大変でした。その頃も遠征や代表合宿がありましたが、コロナ禍ということもあって、それも少なくなってはいました。

フェンシング・尾﨑世梨が感じた、海外遠征で生きた大学での授業と英語力「文武両道を目指せば絶対に役に立つ」
フェンシングができる環境を求めて進路先を選んできた尾﨑 photo by Gunki Hiroshi

【遠征先でも勉強】

――大学への進学については、どのように考えていましたか。

 いくつか選択肢があったんですが、法政大学を選んだのはフェンシングがすごく強い大学で、高校のときの顧問の先生が法政でしたし、先輩も進学していた縁があり、自然な流れで私も法政に行きたいと思っていました。これは推薦での入学で面接と小論文でした。

――法学部国際政治学科に進学していますが、どのようなことを学びましたか。

 世界の政治や経済のことです。中国の政治、ヨーロッパの政治の状況を学んだり、過去においてはどんな政治が行なわれたかなどです。大学時代は海外遠征も多かったので、事前に授業で学んだ国に行くことがあって、実際にどうなのかを見るのは楽しみでした。

――大学時代は競技のほうではパリ五輪に向けて練習にも力が入っていたかと思いますが、海外遠征や合宿も増えましたか。

 増えましたね。

大学2年の1月くらいからシニアのカテゴリーで遠征にまわり始めたので、そこからはほぼ遠征でした。学校には半分くらいは行けていなかったです。

――勉強のほうはどうしていましたか。

 大学生にもなると、さすがに疲労を感じますし、睡眠時間を削ると競技に影響したりします。いちアスリートとしての考えを持たないといけないところもありました。それでも勉強をしないといけないのでやっていました。時間の使い方は大学生活とパリ五輪に向けて練習をやっていくなかで、身についた部分はあったと思います。その時期があったから時間の使い方はすごく上手に考えられるようになりました。

――具体的にはどうやって勉強をしていましたか。

 ちゃんと単位を取らないといけないので、教授に事情を説明して、課題を出してもらったり、授業を録画してもらって遠征先でもできるようにしてもらいました。テストの時期に遠征が重なることが多くて、テストを受ける教科もありましたし、レポートに変えてもらう教科もありました。期末の時期はレポートが一気にドンと来ることが多くて結構大変でした。

遠征先でもパソコンと向き合って勉強に追われることがありましたね。

フェンシング・尾﨑世梨が感じた、海外遠征で生きた大学での授業と英語力「文武両道を目指せば絶対に役に立つ」
学業に励みながらもパリ五輪でメダルを獲得した尾﨑世梨(右から2人目)photo by JMPA

【「勉強は自分に返ってくる」】

――勉強もしっかりやってきたことでよかったなと思うことはどんなことですか。

 文武両道は常に意識してやってきましたが、それによってスケジュール管理はきっちりできるようになったかなと思います。また気持ちのコントロールにも役に立っていると思います。今も時間の使い方をわかっているからこそ、競技に生きている部分があります。

――教科のなかで、具体的に競技に役立っている部分はありますか。

 私は海外に行くことが多いので、英語の基礎は大事かなと思っています。今はコーチが外国籍の方で、普段から英語でコミュニケーションを取りますし、審判も外国の方なので、英語でコミュニケーションを取れないと自分の主張を伝えられないので、そういう場面でも必要なことです。そこは役に立っていることかなと思います。

――文武両道を目指す子どもたちに向けてアドバイスをお願いします。

 時間は有限ではありますが、必ず時間を作ることができます。文武両道を目指せば、将来、絶対に自分の役に立つ時が来ます。

生きていくうえで、勉強は大切なことで自分に返ってくることなので、知識があればあるほど、絶対に自分のためになることだと思います。将来の自分のために時間を上手に使って、自分の好きなことも勉強も頑張ってほしいですね。

――最後に今後のフェンシングでの目標を教えてください。

 大きな目標はロサンゼルス五輪です。パリ五輪では成し遂げられなかった個人戦の出場と、個人・団体ともに金メダルを目指していきたいと思っています。直近だと世界選手権(7月22日~30日@ジョージア)があるので、そこでしっかり個人も団体もメダルを獲得して、自分のできる100%のパフォーマンスを発揮できるようにするのが目標です。

【Profile】
尾﨑世梨(おざき・せり)
2002年9月22日生まれ、北海道出身。中学1年からフェンシングを始め、中学2・3年時に全国優勝を経験。将来性を見込まれ代表合宿や海外遠征に参加するようになり、各大会で好成績を残す。高校2年時に全国高校総体2位となり、3年時はジュニアオリンピックカップで日本一に。大学進学後の2022年には世界選手権の女子サーブル団体で銅メダル獲得に貢献。2024年のパリ五輪で女子サーブル団体に出場し銅メダルを獲得した。

2025年1月のワールドカップ女子サーブル団体では日本サーブル史上初の金メダルを獲得するなど、各種大会で結果を残している。

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