連載・日本人フィギュアスケーターの軌跡
第1回 本田武史 前編
2026年2月のミラノ・コルティナ五輪を前に、21世紀の五輪(2002年ソルトレイクシティ大会~2022年北京大会)に出場した日本人フィギュアスケーターの活躍や苦悩を振り返る本連載。第1回は、日本男子フィギュアスケートの隆盛の礎を築いた本田武史(44歳)にインタビューを行なった。
本田は、まだ14歳だった1995−1996シーズンに全日本選手権で史上最年少優勝を果たし、世界選手権にも初出場。その後、五輪には1998年長野大会と2002年ソルトレイクシティ大会に出場し、世界選手権は2002年と2003年に連続で銅メダル獲得と結果を残した。
2005年の全日本を最後にプロ転向して20年。今回の取材で15位だった長野五輪のリザルトブックを机に置くと、本田は「いやぁ見たくないですね」と苦笑しながら、「あの頃のほうがジャッジはわかりやすかったかなと思うんですけどね」とつぶやく。
【中学時代に交わした家族との約束】
ーー7歳からスケートを始めていますが、当時の環境は今とは違いますよね。
本田武史(以下同) 福島県郡山市で最初はショートトラックを始めたけれど、ひとつ歳上の兄といつも一緒で、ただ連れていかれていただけだったんです。でもなかなか勝てないし、正直、同じラップを繰り返すというのがどうしても性格に合わなかった。
そんな時、フィギュアスケートのコーチに誘われ、ジャンプを跳びたいなとやってみました。当時、福島国体があったので郡山にもスピードスケートのリンクはできたけどショートやフィギュアのリンクはできなかった。郡山には先生もいなかった。なので週1回、新幹線で仙台市へ通うようになって、中学校に上がる時に仙台へ行こうと決め、母とふたりで移り住みました。
ーーその頃のフィギュアスケートを取り巻く環境はどうでしたか。
今とは違って、世間ではまったく注目されていなかったですけど、仙台は選手がすごく多かったですね。
ーー14歳で日本男子のトップになってしまうのは、どんな気持ちでしたか。
何も考えてなかったですね。その時にはもう長野五輪の開催が決まっていたので、「五輪を長野でやるんだ、出てみたいな」とは思っていて。ただ、全日本を優勝した時に僕はまだジュニアで推薦枠での出場だったし、その前にも世界ジュニアで銀メダルを獲った時は当時の強化部長に「このままNHK杯に出なさい」と言われてシニアの課題をやって4位に入ったり、すべてが予想外のことばかり。
だから、自発的にやりたいことはあまりなかったし、練習でも「このジャンプをやりなさい」という指導のとおりにやっていただけです。中学2年の時にトリプルアクセルを跳び始めて、当時の日本で数人しか跳んでない時代だったけど、「跳べちゃった」という感じでした。あまり苦労はしなかったですね。
【性格がフィギュアスケートに向いていた】
ーー翌季にシニアへ上がってからも結果を残して、長野五輪まで一気に駆け上がりました。
五輪に出たのが、1番目の人生の変わり目でした。五輪に関しては早めに内定をもらっていて、そこへ向けての1年間というなかでプログラム制作のためにアメリカに行きました。
ーー4回転ジャンプの挑戦も言われるがままに?
トリプルアクセルを降りた時点で次は4回転しかなかったですね。でも今のように動画もなくて跳び方もわからないし、海外の選手が跳んでいるといっても数人だけ。「どうするの?」とコーチに言うと、「空中で4回まわって降りりゃいいんだよ」と言われて、「あっそうか」と思って。「4回まわる」としか考えてなかったけど、たぶんそういう性格がこの競技に向いていたんでしょうね。
ーー4回転トーループは、1988年にカート・ブラウニング(アメリカ)が初めて跳びました。
そうですね。その後、1994年にエルビス・ストイコ選手(カナダ)が4回転+3回転の連続ジャンプを跳んで。長野五輪は優勝したイリヤ・クーリック選手(ロシア)が4回転を跳び、郭政新選手(中国)が2回転をつけた連続ジャンプも含めて2本成功したけど、それが本当にすごいという時代でした。
当時は、ヨーロッパや北米の、どちらかというと芸術系のスケーターが強くて、日本の選手はどれだけ頑張っても勝てなかった。ただストイコは芸術性では少し不利ななかでも、4回転+3回転を跳ぶという彼なりの武器を身につけたことによって世界選手権で勝てたというところはある。「じゃあ、僕には何が必要かな?」と思ったら、やっぱり4回転かなと思いました。
ーー長野五輪自体はどういうものでしたか。
ケガもしていたので出られてよかったなという感覚だったし、「五輪って何だろう」とわからない状態のままでした。
ーー当時の新聞を見ると、フリースケーティングの前には「誰が4回転を跳ぶか」が勝負の分かれ目だと注目されていました。
結局、全体を見ても失敗したアレクセイ・ヤグディン選手(ロシア)を含めて3人しか4回転を跳んでいない時代。練習では跳んでいたとしても本番に入れるにはリスクが高かった。ジャッジも今のような加点方式ではなく減点方式。4回転を跳んでもテクニカルメリットは6点満点で、失敗したら0.4点減点されるから、入れるよりはできるだけ完璧に滑るというのが大事な時代でした。
でも、1999年のルール改正によってショートプログラムで4回転が解禁になったので、そこから中国選手が4回転をショートでどんどん跳び始めた。それで、「4回転を入れなきゃ」という状態になっていき、2002年ソルトレイクシティ五輪の時は入れないと最終グループに残れないくらいになりました。フリーではトーループとサルコウを跳んで2~3本入れる選手も出てきて、4回転を跳べる選手がものすごく増えた時期だったなと思います。
【つらかったアメリカ時代「もういいかな...」】
ーー4回転時代が到来した興奮はありましたか。
楽しかったですね。そのなかで自分がどこまで目立つかっていう意識があったかなと思うけど、長野五輪のあとは、スケートを離れたいっていう気持ちがあって......。ケガもあったしアメリカに住む勇気もなかったので、「もういいかな」と思った時もありました。やると決めてアメリカに戻ったけど、どうしても練習したくなくて。
長野五輪前は五輪に出場したアメリカ選手も同じリンクにいて一緒に練習ができていたけど、その選手がいなくなって一人になってしまって。どうしようかなと考えて、ストイコがいるカナダのリンクへ拠点を移すことにしました。
ーー競い合う相手がそばにいないとモチベーションも上がってこない。
やっぱりひとりで練習するのは、環境としてはいいかもしれないけどつらかったですね。トロントのダグラス・リー・コーチのところには、世界選手権に出ている選手が8~10人ほど同じ時間帯で練習ができた。男女を合わせれば五輪に出た選手が5~6人もいました。
ただ今の選手のようにコネクションがあるわけではないから、最初は本当にどうしよう、と。
シングルは朝8時から午後5時までレベル分けでずっと貸し切りで、2時間半もエリートクラス選手だけが滑れる時間があった。それに週1回、リンクへ行って抽選して公式練習、衣装も着て6分間練習もして本番という試合のシミュレーションもあったんです。当時からカナダではビデオで練習を撮影してチェックするというのもやっていました。
ーーアメリカにいた時とは違う充実感だったのですね。
今は日本でもパーソナルトレーナーや栄養士をつけるのが普通になっているけど、カナダでは僕が行った2000年代にすでにそれをやっていた。スケート靴を直す専門だったり研磨する専門の人もリンクにいるので、何かあったら不具合を直してもらえる。スケートショップもリンクの近くにあって、環境としては最高でした。カナダに行ったからこそフィギュアスケートをとことんやれたし、楽しくできた。だから本当はカナダから帰ってくるつもりはなかったんです。
(文中一部敬称略)
中編につづく
<プロフィール>
本田武史 ほんだ・たけし/1981年、福島県生まれ。現役時代は全日本選手権優勝6回。