錦織圭という奇跡【第26回】
伊藤竜馬の視点(4)

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◆伊藤竜馬の視点(1)>>小5の錦織圭を見て「なんや、この子!?」の衝撃
◆伊藤竜馬の視点(2)>>「まじ強い」って言われてちょっと興奮した
◆伊藤竜馬の視点(3)>>「同じ練習メニューを繰り返しやることは少なかった」

「たっちゃん、メンタル、大丈夫?」

 錦織圭からのそのテキストメッセージを、伊藤竜馬さんが受け取ったのは2022年初夏のことだった。

錦織圭は伊藤竜馬のうつ病を察して「大丈夫?」 引退を伝えた時...の画像はこちら >>
「たっちゃん」こと伊藤さんは、世界ランキング60位に達した元トッププレーヤー。
錦織圭らとともに、日本男子テニスの黄金時代を支えたひとりである。

 ただ、錦織からメッセージを受け取ったこの当時、伊藤さんは長くコートを離れていた。ケガが原因だったわけではなかった。ただ、コートに立つことはおろか、ベッドから立ち上がる気力すらどうしても湧いてこない。

「うつ病です」

 それが、医師から言い渡された診断名だった。

 その事実を伊藤さんは、家族らごく限られた人にしか伝えていなかった。錦織から前述の一文が届いたのは、そんな折である。

「あの時は、選手仲間には誰にも連絡していなかったし、うつ病のことは言ってなかったんです。でも、圭は何か察したみたいでした。めっちゃ優しい子ですよね。彼は視野が広くて、全体をしっかり見ていると思います。

 ふだんはポワーンとしているように見えますが、実際にはやっぱりアンテナを張り巡らせ、周囲をよく見ている感じがありますよね。

僕だけでなく、(大坂)なおみの時もそうだったみたいですし。人の気持ちが、すごくわかるんだと思います」

「自然体」「天然」と評されることも多い錦織だが、その実、視野が広く、人の心の機微に敏感。伊藤さんは錦織を「とても繊細な人」だと評した。

 この錦織からもらったメッセージをきっかけに、伊藤さんは錦織を含む仲のよい数名のテニス選手たちと食事をともにし、その際にうつ病のことも打ち明けた。

 そこからは徐々に試合にも参戦し、同時にコーチ業も始める。キャリア最後の大会は、2024年10月の全日本選手権。ベスト4の好戦績を残し、家族やファンたちに見守られて、約18年の現役生活に幕を引いた。

 伊藤さんが自身の引退の決断を錦織に伝えたのは、2024年の春である。当時は錦織もケガからの完全復活を目指し、ツアー大会に出始めた頃だった。

【引退を告げると「オレだけか...」】

「最初はLINEで連絡しました。『今年、あと何大会か出て選手生活を終えます』みたいに。圭からの最初のリアクションは、『えー、まじか』でした。『じゃあもう、オレだけか......』みたいな感じで、ショックだとは言っていましたね」

 錦織にとって、グランドスラムなどの大舞台で戦ってきた同世代の日本人選手たちは、「同志」とも呼べる存在だったろう。

 そのなかからまず、5歳年長の添田豪が2023年に引退した。時を前後して、1歳年長の杉田祐一も「今季限りの引退」を表明。その発表が公(おおやけ)になった時、錦織は伊藤さんに「たっちゃんは、まだ辞めないよね?」の一文を送ってきたという。

 女子でも、2022年に奈良くるみが現役を離れ、2023年には土居美咲もキャリアに終止符を打った。その度に錦織は、「寂しい」と去り行く盟友に伝えてきたという。「オレだけか......」のひと言に込められたのは、ひとつの時代が終わりに近づくことへの寂寥感だろう。

 伊藤さんが、錦織が覚える寂しさに共感するのは、自身も仲間の引退を聞くたびに、同じ思いを抱いてきたから。そして「仲間」の存在の大きさを、誰よりも実感してきたからだ。

「やっぱり同世代がいることは、僕ももちろんそうでしたし、圭にとってもよかったんだろうなと思いますね。現役で一緒にやれる仲間がいる。一緒にご飯を食べに行ったり、空き時間で遊んだりできる人がいるのは、大きかったです。

 僕はビデオゲームはやらないんですが、圭たちと一緒にアトラクションの『脱出ゲーム』みたいのに行ったことがあります。

ひとりだけじゃないって思えるのは、すごく力になっていました」

 そのように苦楽をともにした仲間も、時の流れに伴い、異なる道を歩み始める。LINEで引退の意志を伝えたあと、伊藤さんは錦織に直接会う機会もあった。その時の錦織は、「お疲れさま。よくがんばったよね」との言葉をかけてくれたという。

【ケガさえ治ればトップ50に行ける】

 伊藤さんが去ったトッププロたちのテニスコートで、今も錦織はボールを追い、自分よりもはるかに若い選手たちと打ち合っている。

 そんな錦織の姿は、伊藤さんの目にどのように映っているだろうか?

「もう単純に、めっちゃテニスが好きというのは、伝わってきますよね」

 伊藤さんが、しみじみと言う。

「それに、やっぱりテニスを見ていたら、ちゃんとケガさえ治れば、圭はトップ50には行ける力はあると思いました。たぶん、それは本人も感じていると思うんですね。だからこそ、挑戦したいんじゃないでしょうか。お金や名誉のためではない。純粋にテニスが好きという思いと、何かを残したいという気持ちもあるように感じます」

 豪放磊落なプレースタイルで名を馳せた伊藤さんもまた、他者の気持ちに寄り添う繊細な人としても知られる。

 その伊藤さんが、錦織の想いを探るように言った。

「強い選手と対戦している時の圭は、本当にイキイキとしている。テニスが楽しいんだろうなと感じます。だから、その舞台でもう一度、試合をしたいという強い思いがあるんじゃないのかな」

 本人に聞いたわけではないので、想像するしかないですけどね──。柔らかな表情で、伊藤さんはそう言った。

(つづく)

◆喜多文明の視点(1)>>

【profile】
伊藤竜馬(いとう・たつま)
1988年5月18日生まれ、三重県員弁郡北勢町(現・いなべ市)出身。9歳からテニスを始め、大阪・長尾谷高時代は数々の国内ジュニアタイトルを制し、2006年にプロ転向を表明する。2008年からATPツアー参戦を開始し、2011年の全米オープンにてグランドスラム初出場。2012年のロンドンオリンピック日本代表に選出される。2024年4月に現役引退を発表し、10月でラストマッチを終える。ATPランキング最高60位。ATPチャレンジャー通算7勝。身長180cm。

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