関節技の鬼 藤原喜明のプロレス人生(23)

(連載22:アントニオ猪木との最後の一騎打ちに「ああ、やめちまうんだなぁ」 藤原組の活動停止と新日本復帰を振り返る>>)

 プロレスラー藤原喜明はサラリーマンを経て、23歳で旗揚げ間もない新日本プロレスに入門。アントニオ猪木、カール・ゴッチの薫陶(くんとう)を受け、道場で関節技の技術を磨き、新日本プロレス最強伝説の礎を築いた。

 そんな藤原が激動の人生を振り返る連載の第23回は、ジャイアント馬場、天龍源一郎との初対決、その後を語った。

【プロレス】藤原喜明が感動したジャイアント馬場との初対戦 試...の画像はこちら >>

【師匠・猪木のライバル、馬場との初対決】

「藤原組」は1995年11月19日の横浜文化体育館大会を最後に所属選手が退団し、事実上、団体としての活動が停止となった。ただ、藤原には複数の団体から参戦オファーが舞い込み、翌年からさまざまな団体のリングに上ることになる。

 なかでも注目されたのが、全日本プロレスへの参戦だった。新日本プロレスでデビューし、道場で強さを磨き続けた新日本の象徴的な存在だった藤原が、師匠のアントニオ猪木のライバル・ジャイアント馬場が創設した全日本に参戦することはファンに衝撃を与えた。

 注目の初参戦は1996年11月28日、札幌中島体育センター別館での興行だった。藤原はドン荒川、本田多聞と組み、渕正信、井上雅央、そして馬場と対戦した。

 身長2m9cm、体重145kgの体格とずば抜けた運動神経で、力道山亡きあとの日本プロレスでエースとなり、プロレス界を象徴する存在となった馬場。当時は58歳だったが、実際に対戦すると驚きの連続だったという。

「あんなにデカイのに、運動神経がよかったんだよ。さすが、巨人でピッチャーもやっていた方。『タダモンじゃないな』って思ったよ。これはレスラーにしかわからない感覚なんだけど、器用で動きも細かくてな。

『この人は、やっぱりスゲェ』って感動したな」

 試合では、馬場が藤原の得意技「ワキ固め」を繰り出すなど、ファンを沸かす攻防を展開した。最後は藤原が、腹固めで井上からギブアップを奪い勝利。初参戦を終え、控室の馬場にあいさつをしに行った時のことを、藤原はこう振り返る。

「控室に行って『ありがとうございました』とあいさつしたら、『これで一杯、やってこい』ってキャッシュで20万くれたんだよ。ギャラとは別でだぞ。俺は『これで酒を飲んだら肝臓を壊します』って冗談言ったんだけど、馬場さんは笑ってたよ。ありがたかったな」

【一騎打ちで感じた天龍のすばらしさ】

 馬場は第一次UWFが活動停止になった時、前田日明と高田伸彦(現・延彦)のふたりを入団させようと動いていたという。そのことは藤原も知っていた。

「その時は、前田と高田は雇うけど、俺はいらないってことだった。だけど初参戦のあとに、『後楽園ホールの試合だけでいいから、毎回、出てくれないか』ってオファーしてくれたんだ。『俺も馬場さんに認められたなぁ』って感慨深かったよ」

 ただ、このオファーを藤原は断った。

「この時、俺に言ってきたのが馬場さん本人じゃなくてな。不本意ながらお断りしたんだ」

 そのオファーを伝えた人物は、馬場のブレインを自称していたマスコミ関係者だった。

藤原はその男性にかなりの不信感を抱いていたという。

「仲介者が違っていたら、そのまま全日本に出てたかもな」

 全日本参戦の翌年には、天龍源一郎と初の一騎打ちが実現した。

 11月24日、天龍が主宰する「WAR」の、横浜文化体育館での「日本J1選手権決定トーナメント」1回戦で対決した。試合は、藤原の頭突きと天龍のチョップが真っ向からぶつかり合う激闘に。最後は喉笛に強烈なチョップを叩き込まれ、藤原はフォール負けを喫した。

「天龍さんは、いいレスラーだよ。すばらしかったな。俺らは全日本の選手とは交わってなかったけど、『どんなレスラーでも1回やってみないとわからないな』って思ったよ。闘ってみて初めて、『コイツはやるな』『ダメだな』と判断すべきってこと。それを天龍さんとの試合で学んだな」

 2001年6月14日には、橋本真也が主宰する「ZERO-ONE」の、大阪城ホールで開催された「真撃」と銘打った大会で、柔道からプロレスへ転向した小川直也と対戦した。藤原は小川のSTO3連発でKO負けを喫したが......小川の印象を尋ねると、「聞くな」と口を閉ざした。

【お茶の間でも人気者に】

 フリーとなった藤原は、馬場、天龍らと夢の対決を実現させた一方で、テレビ、映画、バラエティ番組など芸能界からのオファーも途絶えなかった。

 中でもお茶の間を沸かせたのは、TBSが番組改編期の4月と10月に生放送する長時間のバラエティ番組『オールスター感謝祭』でのワンコーナー。柔道でオリンピック候補生になり、かつてベンチプレスの日本記録を保持していたタレント、チャック・ウイルソンとの「相撲対決」だった。

 開催されなかった回もあったが、1994年秋から2000年春まで行なわれたガチンコの相撲対決は視聴者を引き付けた。

「俺の記憶では、チャックとは違うテレビ局の放送でも相撲で闘ったな。勝敗は6勝5敗で俺が勝ち越していると思うよ。アイツは強かったよ。特に真正面からの力は強かった。ただ、横に振るともろいところがあったな」

 また、1994年にはTBS系バラエティ番組『爆裂! 異種格闘技TV』で、カナダの山奥に設置されたケージのなかで熊と対決した。テレビディレクターのテリー伊藤氏が演出した企画で、藤原は迷彩服に身を包んで熊と闘ったが、猛突進を全身に受けて肩を負傷し、地元スタッフに「これ以上の闘いは無謀」と判断されて中止となった。

 コンプライアンス順守が常識となった令和であればあり得ない対決だったが、藤原は命を危険にさらす企画を受けた。その理由をこう明かした。

「熊と闘うのを俺が『嫌だ』と言えば、『あの野郎、逃げやがった』って一生言われるからな。

そんなことを言われるぐらいなら、死んだ方がマシ。そう思ったから引き受けただけだよ。

 その時はカナダの山に、熊の飼い主が住んでたんだよ。巨大な熊だったから、俺は『大丈夫かよ』と思ってたら......。『準備ができました』ってやってきた飼い主が、顔から血を流しててな(苦笑)。『全然、大丈夫じゃねぇだろ!』ってなったよ。

 しかも、撮影したのは冬。その飼い主の奥さんが『夏の時期はいい子なの。だけど、今の時期は私だって殺される』って。おいおいって思ってるうちに撮影が始まったんだ」

 熊の突進は強烈だった。

「普通のヤツなら首の骨を折られてるよ。すさまじかった。

よく生き延びたなって、自分でも驚くよ」

 出演のギャラは10万円だったという。

「しかも、企画したテリーさんはカナダまで来なくてな。最近テリーさんと対談して、その時のことが話題になったから、『てめぇ! この野郎!』って文句を言ってやったよ(笑)」

 バラエティ番組で際立つ存在感を見せた藤原は、CMにも起用され、映画など俳優としても活躍した。さらに、趣味の盆栽、陶芸、イラストなどのプロ級の腕前が評価され、専門誌などで連載を持つほどだった。

「自分が好きでやってたことだからな。それが時を経て、仕事につながるのは不思議だったよ。人生ってヤツは、何事も一生懸命に取り組めば、無駄になることはひとつもないってことだな」

 プロレス以外の分野でも活躍の場を広げた藤原。次回は、敬愛する先人たちとの別れを回顧する。

(敬称略。つづく)

【プロフィール】

藤原喜明(ふじわら・よしあき)

1949年4月27日生まれ、岩手県出身。1972年11月2日に23歳で新日本プロレスに入門し、その10日後に藤波辰巳戦でデビュー。カール・ゴッチに師事し、サブミッションレスリングに傾倒したことから「関節技の鬼」として知られる。

1991年には藤原組を旗揚げ。現在も現役レスラーとして活躍するほか、俳優やナレーター、声優などでも活動している。陶芸、盆栽、イラストなど特技も多彩。

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