2025年2月1日、大阪拘置所にて、収容されていた死刑確定者の小林竜司氏が死亡しているのが見つかった。報道によれば自死と見られている。
心理学者の原田隆之氏(※)が指摘するように、犯した事件の残虐性に鑑みれば、厳罰を望む声が見られるかもしれないが、自死によって刑の執行ができなかったことから刑事司法の責任を果たせなかったことは問題であるし、凶悪な犯罪者が自死したのであるからそれで終わりという問題ではない。※
原田隆之「小林竜司死刑囚(41)が自殺。アンタッチャブルな拘置所の状況と、執行を待ち続ける『精神的拷問』とは?」東洋経済ONLINE死刑判決確定後も執行までには長期間の拘束下で強度に精神的負担が強いられ、他の刑の確定者などとの交流はできない状態に置かれる。先の原田氏も、長期的拘禁がもたらす心理的影響に関し、国際的視点から見た日本の死刑制度について警鐘を鳴らしている。(本文:丸山泰弘)
冤罪が後を絶たない日本の刑事司法
本記事では、死刑確定者が置かれている状況の問題が現在も続く中で裁判が行われていること、そして諸外国と比べても問題を孕(はら)んでおり、国際的にはより人道的な刑罰へと移行している現実を確認することを目的とする。しかし、こういった内容の記事を投稿すれば、ネットを中心として「凶悪な犯罪者なのだから、長期の収容が苦痛であるというのであれば早々に死刑を執行してしまえばいい」といった趣旨の発言が出てくるのが容易に想像できる。だが、問題はそう単純な構図にはなっていない。2024年9月の冤罪(えん罪)袴田事件の無罪判決は記憶に新しく、世界で最も長く収監された死刑囚としてギネス世界記録に認定されるほど日本の刑事司法は世界的にも問題を抱えている。袴田巖氏は、長期にわたる拘禁と精神的に追い詰められた生活が続いたことなどから、自由を手に入れられた今なお日常生活でも苦しんでおられる。また、死刑判決がなされた事件以外であっても依然として冤罪事件が発覚することが後を絶たない。さらに、日本では人質司法の問題など刑事司法そのものの課題も山積している現状で、しっかりとした法整備や制度を持たないまま究極の刑罰である死刑を維持することは法治国家としても問題であろう。筆者は『死刑について私たちが知っておくべきこと』(筑摩書房)を2025年に上梓した。同著では、死刑賛成派であっても死刑反対派であっても思い込みでぶつかり合って終わりなのでなく、歩み寄って議論すべき共通の課題をいくつか紹介している。
死刑反対派はもちろんのこと、仮に死刑賛成派であっても「刑事司法制度に不備がありながら死刑をし続ければいい」という極論で済ませる問題ではなく、法治国家として死刑やその大元の刑事司法手続に問題があるのであれば放置せずに向き合って議論をする必要があると考える。
死刑確定者をすぐに執行できない理由
いわゆる「冤罪事件」というのは真犯人ではない人が犯人に仕立て上げられ、無実であるにもかかわらず死刑判決を受けるという伝統的な冤罪だけではない。実際に何らかの罪を犯した加害者であっても、場合によって「冤罪」は起きうる。極端な例を挙げれば、窃盗をした人を殺人事件で認定することも「冤罪」である。そのようなことが起きうるはずがないと考える読者もいるかもしれないが、共犯関係の中で責任が圧倒的に少ない人が罪をなすりつけられることもある。さらに、より現実的な例として、次のような場合でも冤罪になり得る。例えば、被害者の死という結果が起きた事件について、いわゆる殺害の故意があった場合は殺人罪であり、怪我をさせるまでの認識はあったとはいえ殺害の故意はなかったものの結果的に死に至らしめてしまった場合には傷害致死となることがある。また、怪我をさせる認識どころかそれらの故意もない場合は過失致死ということが実際には起こり得る。「結果的に被害者が亡くなっているのであるから、殺人も傷害致死・過失致死も同じだ」と考える人もいるかもしれないが、殺人罪が認定された場合には刑罰の選択肢の一つに死刑が存在する一方で、傷害致死は一番重くても20年以下の拘禁刑であり、過失致死は50万円以下の罰金が最高刑になっている。つまり、被害者の死の結果があったとしても、それに至る経緯とその事実の認定が異なれば、適用される刑罰にも差ができてくるのである。人の死の結果を招いた加害者であっても間違った事実の認定がなされれば、裁判で間違った罪状が適用され、事実認定での「冤罪」が起きうるのである。また、さらに「冤罪」事件を困難にさせるものとして、先の例のような事実認定が正しく行われたとしても、量刑の場面で間違いが起こる「冤罪」もあり得る。つまり、実際に犯罪行為をした犯人であっても、その人に相応しくない刑罰が適用される場合があるということだ。
これら様々な冤罪が存在することについては今回のテーマではないために、詳しくは記述せず拙著を読んでいただきたいが、伝えたいのは、死刑判決確定後に再審請求をする人たちは無実を訴えている人だけなのではなく、その中には、被害の結果を起こした事実や自分のやった事実とその罪と向き合い償うために「起きた事実を裁判では正しく判断してもらいたい」「実際に起きたことの罪を背負って生きていきたい」と考えている人も少なからずいるということである。死刑は究極の刑罰である以上、間違いがなくしっかりとした手続きを踏まえる必要があるが、判決が確定したからといって、引っかかる部分が残っていようとも執行してしまえばいいという単純な話にはならない。
監獄法が改正されても死刑確定者の地位は向上せず?
死刑確定者は刑務所に収容されているのではない。裁判中の人ら未決拘禁者などが主に収容されている拘置所(特に死刑確定者を収容する施設としては東京、名古屋、大阪、広島、福岡の拘置所と、札幌および仙台の拘置支所の7施設)に収容されている。死刑を執行する施設があるのも拘置所である。刑の執行として刑務所に拘置されている自由刑の受刑者とは立場が異なり、特殊な環境に置かれている。特に「心情の安定」が前面に押し出されており、昼夜ともに単独室に収容され、一般的な刑務所で行う矯正処遇(作業や改善指導、教科指導)などは受刑者と同じようには行われない。面会や信書の発受に関しては、受刑者や未決拘禁者とは異なり、死刑確定者の規定が置かれており、前者らにある外出および外泊などは認められていない。いわゆる監獄法から刑事施設被収容者処遇法へと改正される際に受刑者らの面会や信書などの処遇水準は引き上げられたものの、死刑確定者については対象外とされたままである。特に、1963年3月15日付の法務省矯正局長通達「死刑確定者の接見及び信書の発受について」が出された影響が大きい。これによれば、死刑確定者が罪を自覚し、精神の安静裡に死刑の執行を受けることを配慮することが要請されており、心情の安定を害するおそれのある交通も制約されなければならないとされている。つまり、死刑確定者の法的地位が他の被告人や受刑者と異なり、心情の安定を理由に外部交通などの権利を制限したということになる。「心情の安定」というものはケース・バイ・ケースであり、多くの人と手紙や面会を重ねる方が安定する人もいれば、一人静かに過ごす方が安定する人もいる。
少なくとも、長期間の孤独と不安の状態に置かれていることが心情の安定とは言えないケースもあるのではないかという点について考える必要があろう。「外部との接点ができると死刑に対する心情の安定が保てないのではないか」という意見もあろうが、一方で現に冒頭でも触れたように死刑確定者が自死を図った疑いのある事案が発生している以上、現在の方法が「心情の安定」に適しているとも言い切れない。また、「心情の安定」の考え方は面会や信書だけではなく、様々な点でも理由として利用されがちである。例えば、死刑執行の直前告知については死刑確定者の心情の安定を理由の一つとして事前に伝えないという運用がなされている。2008年に自由権規約委員会は日本に対する最終見解で、こういった慣例としての運用を懸念事項として指摘している。
海外ではどうなっているのか:韓国での取り組みを参考に
多くの国がすでに死刑を廃止または事実上の廃止(法律上で死刑は存在し、死刑判決が出ることがあっても10年以上の執行がない国などを事実上の廃止国と呼ぶ)としていく中で、死刑確定者の処遇について参考になるのは韓国であろう。韓国は1997年12月を最後として死刑執行を止め事実上の廃止国となっており、死刑確定者に対する処遇に関する主な法改正を2008年に行っている。日本と同様に韓国においても犯罪をした人への厳罰化志向は高まっているものの、人権遵守の傾向が進み、それは受刑者などの人権であっても強調されている。その影響もあり、死刑確定者にも権利保護の条文を規定しており厳格に法律に従った処遇をしている。韓国の「刑の執行及び受刑者の処遇に関する法律」によれば、89条では基本的に単独収容とするものの、自殺防止や教育上必要な場合、作業やその他適切な処遇のために必要な場合に集団での収容をすることができるとしている。また、90条においては死刑確定者の心理的安定や円滑な収容生活のために教育プログラムを実施し、申請があれば作業を課すことができるとしている。一般の収容者と同じように刑務作業が行えるのである(日本でも希望すれば「自己契約作業」を行うことができるが、その内容はきわめて限定的である)。さらに、同法の施行規則によれば、2024年の改正によって、150条において基本的には死刑執行施設が設置されている施設に収容するものの、処遇上必要な場合には死刑執行施設が設置されていない矯正施設に収容することができるとしている。
そして同条において、刑事施設の長は死刑確定者の自殺・逃走等の事故を防止するために必要な場合に、死刑確定者と未決収容者を混合収容することができ、また死刑確定者の教育・教科プログラム、作業等の適切な処遇のために必要な場合には、死刑確定者と受刑者を混合して収容することができるとしている。その他にも心理的安定のための矯正職員との継続的な相談を行わせなければならないことや、矯正施設内での作業を課すことに加えて、その作業は心理的安定および円滑な収容生活の確保に適したものにしなければならないなどの規定が置かれるようになった。このように韓国では、他の受刑者との交流や相談、作業の機会を設けるなど、「心情の安定」に向けた積極的な対応がなされている。これに対し日本では、「心情の安定」を理由に特段の介入を行わず、死刑執行に向けて長期間を粛々と過ごさせており、両者の向き合い方は対照的である。
心情の安定をどう捉えるのか
ここまで見てきたように、「心情の安定」や「心理的安定」のためには、死刑確定者に生きる希望を与える方がむしろ酷であり、何もしないことこそが残虐な刑罰に当たらないという意見もあるだろう。しかし、冒頭でも紹介したように様々な形態の冤罪の可能性があり続けることを前提に考えれば、釈放後のことを全く念頭に置かないことは問題であるし、何が安定につながるかを第三者で決めつけることも問題があろう。さらに、死刑確定者の処遇のあり方については、2021年から大阪の死刑確定者が「再審請求中の死刑執行国家賠償請求事件」「死刑の執行告知と同日の死刑執行受任義務不存在確認及び国家賠償請求事件」「死刑執行情報公開請求事件」など、立て続けに処遇のあり方等について訴訟を提起している。このように、死刑確定者の処遇が従来のままの運用でいいのかがまさに問われている。一方で、韓国の取り組みのように、積極的に心理的安定のために相談や作業を行えるようにする方がいいとする意見もあるだろう。では、どのように判断をしていくべきか。少なくとも第三者が決めつけた制度の運用ではなく、今のようにブラックボックスに隠したまま運用を続けるのでもなく、長期間の収容状態がもたらす拘禁反応や精神状態の調査を実施し、本人の希望に沿って弁護士など専門家を同席させた立場決定ができる状態が望ましいのかもしれない。■丸山泰弘立正大学法学部教授。
博士(法学)。専門は刑事政策・犯罪学。日本犯罪社会学会理事、日本司法福祉学会理事。2017年にロンドン大学バークベック校・犯罪政策研究所客員研究員、2018年から2020年にカリフォルニア大学バークレー校・法と社会研究センター客員研究員。著書に『刑事司法における薬物依存治療プログラムの意義――「回復」をめぐる権利と義務』(日本評論社)や『死刑について私たちが知っておくべきこと』(筑摩書房)などがある。