事件の核心に迫る痕跡が詰まった青いシートの内側で、保護服に身を包んだ捜査関係者はどんなことをしているのか…。
ベルギーの法医学医、フィリップ・ボクソ氏が犯罪学の「3つの原則」とともに、ベールに包まれた“事件現場”の緊迫の内側を明かす。
※この記事はフィリップ・ボクソ氏の書籍『死体は語りだす:法医学医が読み解く「死者からのメッセージ」』(三笠書房)より一部抜粋・構成しています。本文中に登場する鑑識実務のあり方の記述には、日本とは異なる事項も含まれています。
近代の犯罪学の3原則
「犯人の特定」と「犯行手口の解明」。この2つの目的を追求する近代の犯罪学には、3つの原則がある。
第一は「ロカールの交換原理」である。医師で法律家でもあったエドモン・ロカール(1877~1966)は、1910年にフランスのリヨンに世界初の警察科学研究所を設立した。インターポールの本部がリヨンに置かれたのは、ロカールへのオマージュだ。
ロカールの考えを端的に表現すれば、「すべての接触は痕跡を残す」である。まだDNAが発見されておらず、近代的な捜査技術が存在していなかった時代において、天才的な法医学者であったロカールは、人が何らかの物や人と接触すれば痕跡が残るはずだ、と思い至ったのだ。
犯人が犠牲者の体に残した服の繊維や髪の毛は、たった1本であっても、捜査の進展に大きく貢献する可能性がある。
しかし、こうしたわずかな痕跡のおかげですべての事件が解決するという展開は、あくまでもテレビドラマの中に限られる。現実には、この種の証拠で解決する事件は極めて稀で、私は約30年のキャリアにおいて3件しか知らない。
事件現場における科学捜査の重要性
たしかに、多くの場合、科学捜査がもたらす情報は事件の解明の進展にとって有益であり、事件現場から採取された痕跡もそうした情報の一つである。だが、犯人を特定するのは、あくまで捜査そのものである。事件現場での痕跡の発見が重要になったことから、警察科学研究所の職員の専門性が高まった。彼らは「事件現場の技術者」と定義されているが、一般的には「鑑識」と呼ばれ、犯罪現場に残された痕跡、すなわち証拠を特定し、採取し、保存するノウハウを習得するための特訓を受けて一人前となる。
事件に関係する痕跡を可能な限り多く採取するため、事件が起きた場所を保全する仕組みを整える必要が生じた。そうして生まれた概念が「事件現場」である。これは、軽重にかかわらず、犯罪が行われた場所すべてに使われる呼称だ。
事件現場は二つと同じものはないが、一つの共通の図式が存在する。犯罪が行われた場所、または死体が発見された場所は「事件発生に基づく立ち入り規制ゾーン」と呼ばれる。ほかの呼び名もあるが、これが最も一般的な呼称だ。
鑑識が保護服を着用する理由
多くの場合、それは死体が発見された部屋であり、屋外であれば数平米の区画である。ここに入る鑑識は、保護服(材質は、繊維が抜け落ちることがなく、繊維が付着する恐れもない不織布のタイベック)を着ている。現場が汚染されるのを防ぐのに有効なこのオーバーオールは全身をカバーするだけでなく、フード付きなので髪もすっぽり覆う。人間の1日あたりの抜け毛の数は平均で約100本であり、それぞれの髪の毛には個人を特定するDNAが含まれているから、事件現場を汚染する恐れがある。
鑑識はまた、指紋を現場に残すことを避けるために手袋を、これまたDNAを含んでいる唾液の飛散防止のためにマスクを着用する。さらには、靴底に付着した物質を現場に持ち込むこと、逆に靴底を介して何らかの手がかりを運び去ることがないように、シューズカバーも装着する。
現場の汚染を避けるために万全を尽くすのも鑑識の責任だ。
だから、鑑識の許可がなければ、誰も事件現場に立ち入ることはできない。
事件現場の第二の規制ゾーンとは
事件現場の周囲には、第二の規制ゾーンがある。捜査官、検察官、弾道学の専門家といった関係者は、事件現場への立ち入りが可能になるまでここで待機している。警察の監視下にある区画であり、検察官はここで事件の情報を入手し、初動捜査の方針を決定する。ここが捜査の出発点となるのだ。
この第二の立ち入り規制区画の外側に、最後の規制区画がある。ここは「抑制ゾーン」と呼ばれ、犠牲者の近親者はここで、警察の被害者支援担当者によるサポートや捜査官による事情聴取を待つことになる。周囲には近隣の住民、報道関係者、さらには野次馬もいて、ごった返している。
痕跡は「唯一無二」であり、「脆弱」
犯罪科学の第二の原則は、アドルフ・ケトレー(1796~1874)の原則である。数学者および統計学者であったベルギー人のケトレーの考えを一言で表現するならば、「同じものは二つとない」である。この考えの正しさを証明する術がなかった時代ではあったが、彼の確信は揺るがなかった。現在では、一つの弾丸がどの銃器から発射されたかを特定する技術が確立している。
同じように、一つの足跡を一つの靴に、一本の毛髪を一人の人間に、電信柱に残った自動車の塗料を一つの車種に、一本の繊維を一つのセーターに、一つの指紋を一人の人間になどなど、一つの痕跡や証拠を特定の物や人に結びつけることが可能である。
こうした痕跡の一つひとつについて、鑑定の専門家(鑑定官)が存在する。鑑定官と、事件現場のテクニシャンである鑑識を混同してはならない。それぞれの仕事は異なる。同一人物が鑑識と鑑定官を兼ねることはあるが、テレビドラマとは異なり、いつもそうとは限らない。鑑定の対象ごとに、専門家が存在するのだ。
繊維の鑑定といっても、合成繊維、動物繊維、植物繊維のそれぞれについて専門家がいるし、自動車のヘッドライトの電球、自動車の塗料、車の走行のそれぞれについても同様である。火災、IT、弾道、足跡、粉の痕跡、土の痕跡、毒物、指紋、法医学などもそれぞれに専門家がいる。
物質が何であれ、まさかと思われる物品であっても、痕跡や遺留品は科学的な鑑定の対象になり得るのだ。例えば、私は傘を専門とする鑑定官に会ったことがある。こうした鑑定官たちは「科学警察」と呼ばれる組織に属している。ただし、彼らの大部分は本当の意味での警察官ではない。
私の専門である法医学も犯罪科学の一角をなし、「犠牲者の死因は?」と「死亡時刻は?」という二つの疑問に答えることで、犯人および殺害の経緯を突き止めることに貢献している。
三つ目の原則(この原則の元祖が誰であるかははっきりしない)を、私なりに表現すると「一度取りこぼしたら、二度と発見できない」だ。
1本の髪の毛や繊維は簡単に飛んでしまうし、指紋や血痕は消えてしまう。現場に残されたこうした証拠のすべてを保護するのが鑑識の仕事であり、事件現場というコンセプトの存在理由でもある。
■フィリップ・ボクソ(Philippe Boxho)法医学医。作家。
1965年生まれ。ベルギーを代表する法医学医であり、同分野の第一人者。

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