転職、引っ越し、働き方の変化——よくあるライフイベントが、高額療養費制度の利用者の生活を瞬く間に崩壊させる可能性があることをご存知だろうか。これは運が悪い人だけが痛い目を見るケースではない。
書籍『高額療養費制度 ひろがる日本の〈健康格差〉』より一部を抜粋・再構成し、「多数回該当リセット」という制度の盲点と、政府の〈見直し〉案が組み合わさったときに起こるあまりにも非道なシステムについて解説する。
若年層ほどセーフティネットの毀損に実感が湧かない
2024年末には「高額療養費制度」という言葉はまだ世間に広く知られていなかった。だが当初はさほど関心のなかったメディア報道が日を追うにつれてどんどん熱を帯び、批判的な論調も強めていったことで、この用語そのものは世間にも広く知れ渡ることになった。
その結果、誰もがいずれ何らかの形で利用する可能性がある医療の重要なセーフティネット、という事実もある程度は認識されるようになっただろう。
しかし、そもそも非常に複雑な仕組みの制度であるために、政府が〈見直し〉案で進めようとした自己負担上限額の引き上げという行為が、制度利用者にとってどれほど危機的で致命的なものだったのか、ということを十分に理解している人は、じつはそれほど多くなかったかもしれない。
というのも、反対論が大きく盛り上がっていた凍結決定前の2025年3月上旬に行われたJNNの世論調査(3月1~2日実施)では、この自己負担上限額引き上げに「『納得できない』は56%、『納得できる』は42%」という数字が出ているからだ*1。
56%と42%という数字の差を見る限り、政府の〈見直し〉案に納得できない人の方が多数であったとはいえ、この調査では自己負担上限額引き上げに納得できる人も10人のうち4人程度はいた、ということになる。
この賛否の比率は、他の世論調査でもある程度似た傾向を示している。
「読売新聞」が凍結発表後の3月14~16日に行った調査では「見送りを評価する」が61%、「評価しない」が31%*2。凍結の評価が多数でダブルスコアを示しているが、10人中6人が賛成で3人が反対という比率は圧倒的多数というほどではない。
「朝日新聞」が3月15~16日に行った調査は、自己負担限度額引き上げに「反対」が71%、「賛成」が23%、とこちらは凍結を評価している人が圧倒的に多い*3。
この「朝日新聞」の世論調査は、年齢層別や支持政党別など細かい分類の回答比率を参照できるが、年齢層別で見た場合、18~29歳では引き上げ「反対」が46%に対して「賛成」が41%。
全がん連が1月に実施した緊急アンケートでは、20代や30代の若い疾患当事者からの悲痛な声も多く寄せられていた。とはいえ、この「朝日新聞」の世論調査結果が示すように、致命的な疾患の罹病に縁遠い若年層になればなるほど、自分たちの生命を脅かすセーフティネットの毀損にはあまり実感が湧かないという傾向もあるようだ。
その世代の人々が、今回の事態を危機的な引き上げ幅だと考えない傾向を示すのは、ある意味では当然の結果といえるだろう。
実際に、政府が最後までこだわった2025年8月の引き上げ案は、負担金額の引き上げ幅だけを見れば、さほど大きくないようにも見える。住民税非課税者の場合は一カ月あたり900円、年収370万円以下だと3,000円、年収700万円なら約8,000円、そして年収1,160万円以上のいわゆる高所得者層でも約38,000円という上げ幅だ([表3])。
この金額だけを見れば、「この程度のわずかな上げ幅なら、いきなり払えなくなるようなことはないだろう。どうしてその程度の値上げに文句を言うのか」と考えても不思議ではない。
しかし、じつはこの高額療養費制度そのものが複雑きわまりない仕組みになっているために、たえわずかな自己負担上限額の引き上げであっても、この制度に潜むバグのようなもののトラップに誰しも容易にはまり込んでしまう危険性がある。その危険な落とし穴の例についてできる限り平易に説明してみたい。
高額療養費制度に潜むバグとトラップとは?
たとえば、高額療養費制度を利用している人が転職することになったとしよう。
勤め先が替われば、健康保険も新たな職場のものに切り替わる。以前に所属していた会社の健保組合から協会けんぽ(正式名称は、全国健康保険協会という法人組織)や共済組合になったり、あるいはその逆だったり、もしくは組織から独立した場合には国民健康保険になる場合もあるだろう。
そのようにして職場を替わったあなたが、じつは高額療養費制度の多数回該当を適用される治療を受けていたとしよう。
がんや難病を克服して社会生活に復帰し、働きながら現在の寛解状態を維持するために何カ月かに一度の割合で通院して抗がん剤や生物学的製剤などの高額な薬剤の投与を受ける、そんな生活をもう何年も続けている。そして前よりも労働条件がよく、働きがいもある新しい職場へ移ることができた。
他人から見れば、多少の波瀾万丈を経験しながらも不運と困難に打ち勝って現在の人生は順調な日々、と映るだろう。しかし、高額療養費制度、ことに多数回該当という枠組みを利用していると、そのように順風満帆な日々は訪れないかもしれない。
じつはこの多数回該当、すなわち、直近12カ月のうち3回以上自己負担上限額を超えた場合に4回目以降の上限額がさらに引き下げられるという措置は、現在の制度では保険者が変わると自動的にリセットされてしまう仕組みになっている。
つまり、自分がそれまで使用していた組織の健保組合や共済組合から別の健康保険に移った場合は、それまでの利用回数がリセットされて、新たな保険のもとでゼロから数え直しになる、というわけだ。ちなみに国保の場合は、保険者が各都道府県と市町村で、都道府県をまたぐ転居をした場合は、それだけで保険者が替わることになって多数回該当がリセットされてしまう。
余談になるが、この多数回該当リセット問題は高額療養費制度の積年の課題だが、この自己負担上限額〈見直し〉案騒動の際にはほとんど取り上げられなかった。だが、2025年3月の一時凍結を経て4月以降に議論が再開した際には、新たに設置された専門委員会で患者団体が重要な見直し項目として指摘し、以前よりも認識が広く共有されるようになった。
話を転職による多数回該当リセットに戻そう。
たとえば現在は多数回該当が適用されて治療月に44,000円を支払っていた場合、転職してそれまでと別の健康保険に加入すると、多数回該当使用回数はいったんキャンセルされる。
年収区分が370万円から770万円だと、現行制度では上限額が約8万円だが、政府が最後までこだわった2025年8月実施の〈見直し〉案が導入されていたならば、約88,000円を支払うことになっていただろう([表3])。
この新たな職場の健康保険で以前のように多数回該当の適用を受けるためには、通常の自己負担上限額を3回支払う必要がある。したがって適用は早くても四カ月後、二カ月に一度の治療通院サイクルなら、八カ月後からふたたび44,000円の支払いに戻ることになる。
政府当初案では多数回該当の上限額も引き上げられることになっていたが、二月中旬の最初の方針見直しで多数回該当については据え置きとする、と発表した。だが、据え置きとされたはずの枠組みにもじつは大きな影響を及ぼす可能性がある。その影響関係を以下で説明しよう。
一気に生活が崩壊する危機
新たな職場で二カ月に1度のインターバルで治療を行い、現行制度の自己負担上限額を支払い続けて、四回目の治療から多数回該当が改めて適用される場合を示したのが[図1]だ。
現行制度の上限額約8万円に3回到達した後、4回目の治療からは支払いが44,000円に抑えられていることを示しているのが下の方の階段状になっている線だ。
一方、政府が最後までこだわった2025年8月引き上げ案が実施されていた場合([図1])、一月や三月、五月の支払いが82,000円や85,000円などであったとすると、〈見直し〉案の新たな自己負担上限額の約88,000円に到達しない。つまり、〈見直し〉案の上限額に届かない通常の窓口三割負担として、治療のたびに8万数千円を支払い続け、以前なら適用されていた自己負担上限額もその後の多数回該当も適用されなくなる。
要するに、転職によっていったん多数回該当がリセットされた後に政府〈見直し〉案が実施されていたならば、ふたたび多数回該当の適用を受けるどころか、そもそも高額療養費制度の基準にすら到達できない状況が現出していた、というわけだ。
せっかく好条件の職場に転職したというのに、治療のたびに自己負担上限額に届かない8万数千円を毎回払い続けなければならないのであれば、あっという間に生活は困窮してしまうだろう。
それを避けようと思えば、保険者が切り替わってしまう原因の転職をそもそも諦める以外に選択肢はない。だが、たとえば派遣労働者など、職場を替わることが珍しくない労働環境でこの制度を利用している人々の場合は、容易にこの落とし穴にはまってしまうことが想像できる。
ごくわずかに見える自己負担上限額の引き上げであっても、高額療養費制度そのものが抱えるバグのために一気に生活が崩壊する危機に瀕してしまう可能性は、このような事例でおわかりいただけたと思う(このバグを解消する手法のひとつとして、一時凍結後の2025年12月末に発表された新たな〈見直し〉案では年間上限額の設定が提示された。
ちなみに、政府〈見直し〉案がもしも本当に導入されていた場合、東京大学大学院・五十嵐中特任准教授(医療経済学)が健保組合と国保に加入する70歳未満の約116,000人分の2022年度診療報酬明細書(レセプト)データを国保と健保組合の全4900万人に外挿した計算によると、高額療養費制度の適用を受けた約187万人のうち、少なくとも約84,000人が制度の適用対象外となり、全体の73%の約136万人が従来よりも負担増になっていた、という推計が得られたという*4。
文/西村章
註
*1「『高額療養費制度』、政府の年収などに応じて負担額を引き上げる方針に『納得できない』56% 3月JNN世論調査」TBS NEWS DIG、二〇二五年三月三日。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1762791?display=1
*2「2025年3月 電話全国世論調査 質問と回答」、「読売新聞」二〇二五年三月一七日。
https://www.yomiuri.co.jp/election/yoron-chosa/20250316-OYT1T50135/
*3「2025年3月定例全国調査」朝日新聞世論調査データベース。
https://digital.asahi.com/yoron/database/#/chosa/M20250315B70B9
*4「高額療養費の見直し、患者の7割以上が『負担増』試算…循環器疾患・糖尿病など幅広く影響」、「読売新聞」二〇二五年二月二六日。
高額療養費制度 ひろがる日本の〈健康格差〉
西村 章
医療費が高額になった場合、自己負担額を一定に抑える「高額療養費制度」。
自己免疫疾患の治療で長年この制度を利用してきたジャーナリストは、2024年冬に政府が発表した「改悪」案に不安と憤りをおぼえ、取材を開始する。
疾患当事者や研究者、政治家などの証言が浮き彫りにしたのは、健康に「格差」がある日本社会の現状や、セーフティネットとして十分に機能せず、〈世界に冠たる〉とは到底いえない医療保険制度の姿だった。
◆目次◆
第1章 高額療養費制度とは何か
第2章 part1 政治的・財政的背景から読み解く〈見直し〉案
第2章 part2 患者団体は〈見直し〉案凍結と変更をどう実現させたのか?――天野慎介氏に訊く
第3章 2024・2025年の〈見直し〉案をひもとく――安藤道人氏に訊く
第4章 高額療養費制度に潜む「落とし穴」を検証する――五十嵐 中氏に訊く
第5章 「魔改造」を施された日本の医療保険制度と高額療養費――高久玲音氏に訊く
第6章 part1 司法の視点から高額療養費制度を検証する――齋藤 裕氏に訊く
第6章 part2 立法の視点から高額療養費制度を検証する――中島克仁氏に訊く
第7章 「健康格差」解消のために、どのような医療保険制度を構想すればよいのか?――伊藤ゆり氏に訊く
第8章 大局的な視野から日本の医療保険制度と高額療養費制度を考える――二木 立氏との一問一答

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