『竹取物語』の面白さは、かぐや姫の頭脳明晰なキャラの爽快さと、グローバル性というか、さまざま世界の価値観が錯綜する面白さと謎解きの楽しさにあると思うのですが、そうした要素が映画にもありました。
映画「かぐや姫の物語」、原話に意外なまでに忠実であるというのが私の印象です。


もちろん、違うところはたくさんあります。以下、「ネタバレ」部分もありますが、映画を楽しむ分には問題ないと思われるので、書きますと……。

原話では影の薄い嫗(竹取の翁の妻)が大きな役割を果たしていること、かぐや姫が何を感じていたかを描くことに大きなウエイトが置かれていること、その気持ちを引き出すために原話にはない「捨丸(すてまる)」というキャラクターが設定されていること、などなど。
しかしそれによって別の『竹取物語』が生まれたというよりは、『竹取物語』の世界がより鮮明になった、といった印象です。
そのくらい、「かぐや姫の物語」の根にある感情や方法は、『竹取物語』的に見えました。

そもそも『竹取物語』は、千年前に書かれた『源氏物語』が“物語の出で来はじめの親”と称えた日本最古の物語とされるのですが、この原話自体が、実に現代性にあふれた物語なのです。

竹から生まれた女の子が絶世の美女に成長し、男たちの求婚を無理難題で拒み、月の世界に帰って行く……それが『竹取物語』のざっくりとした筋ですが、姫の要求した宝物の多くは中国の古典やインドの経典に出てくるし、姫が前世の罪を犯したために地上に落とされるという発想は、前世の行いが現世での運命を決めるという仏教思想に基づいています。
地上世界だけでなく月世界、現世だけでなく前世での定め、と、実にスケールの大きな世界を背後に控えて展開するのは、かぐや姫という強烈な個性を持った女の物語。
原話の描くかぐや姫の魅力は、親や世間の常識に真っ向から疑義を抱き、男たちをやり込める頭の良さ、気の強さにあります。

「この世の人は男は女と一つになり、女は男と一つになる」(“この世の人は、男は女にあふことをす。女は男にあふことをす”)
と、結婚を勧める翁に対し、
「なぜ、そんなことをするのでしょう」(“なんでふ、さることかしはべらむ”)
という素朴な疑問をぶつけ、

「あなたは神仏の化身、変化の人であるとはいえ、女の体をお持ちです」(“変化(へんぐゑ)の人といふとも、女の身持ちたまへり”)
と、生々しい現実を持ち出す翁に、
「どんなに優れた相手でも、その愛情の深さを知らないのでは結婚なんてできない」(“世のかしこき人なりとも、深き心ざしを知らでは、あひがたし”)

と、すこぶるまっとうな主張をするかぐや姫。
生理を迎えた女は男と結婚して当たり前。
それで一門が繁栄するのが人間の幸せであるとされていた平安時代、ここまではっきり結婚や愛について踏み込んだ疑問をぶつけた女は、『竹取物語』のかぐや姫をおいてほかにはいません。こういうことが千年以上前、日本最古の物語に書かれているというのはちょっと驚きではないでしょうか。

「では、どんな愛情を持った男と結婚したいのです」
という翁の問いに対する、
「五人の気持ちは大差ないのだから、私のほしい物を見せてくれた人と結婚する」
という姫の論理もなるほどもっともで、確かに同じレベルの男なら、ほしいものをくれる人のほうがいいというのは当然でしょう。かぐや姫は平安女性というよりは、現代女性と言ってもいいような感覚の持ち主なのです。
ところが、その先が、現代人から見てもいささか異様な点で、そこで一人の男が選ばれるのかと思いきや、男たちは誰一人として姫のほしいものを見せてはくれないのです。このあたりも意味深で、男女関係や人間といったものを考える上で、いろんな分析ができるでしょうが、それは各自に任せるとして。
無理難題で男たちを翻弄した姫は、その失敗を喜ぶ上、五人目の求婚者がとうとう死んでしまっても、

“すこしあはれ”

と思うだけ(ここは映画のかぐや姫と違う点です)。ミカドの求婚に、翁や嫗がひたすら恐縮するだけなのに対し、

「ミカドのお召しも仰せも畏れ多いとは思いません」(“帝(みかど)の召してのたまはむこと、かしこしとも思はず”)

とつっぱねて、

「国王の仰せに背いたと言うなら、早く殺してくださいまし」(“国王の仰せごとをそむかば、はや、殺したまひてよかし”)

とまで激しく抵抗するに至ります。

なぜかぐや姫はここまで結婚を嫌がるのでしょう。当時の女の最高の栄誉であるはずのミカドのお召しすら、「無理にと言うなら死にます」とまで拒むのでしょう。
その答が、映画を見ると分かるというか、原話では今一つ分かりにくかったかぐや姫の踏み込んだ気持ちや、彼女を取り巻く状況が丁寧に描かれているのです。

私は映画を見て「そうだったのか。
『竹取物語』の言いたいことはそういうことか」と、ずいぶん得心がいったことがあります。
その一つがかぐや姫の「身分」。
『竹取物語』では、翁自身が、
「もっいたいなくも、こんな“穢げなる所”に長年、お通いくださって」
と五人の貴公子たちにへりくだったり、求婚者のひとりの“くらもちの皇子”の雇った職人が、かぐや姫を皇子の「妻になる予定の女」ではなく、「召し使う予定の女」ととらえていたり。
注意して読むと、ふしぶしに翁やその養女のかぐや姫の「身分の低さ」が描かれているのですが、かぐや姫の高飛車な態度や、実は月の天人であるという予備知識がなまじあるために、それらがかき消されてしまい、貴族社会での彼らの「地位の低さ」をついつい見過ごしてしまいます。
だけど実は翁って、かぐや姫を得て以来、竹から黄金を見つけることが重なったために「成金」になったのであって、世間は姫をそんな成金の娘という目で見ているんだよ、ということが映画を見ると改めて分かります。
そういう、はなから自分を見下す都の貴族社会で、「美貌の評判」という一点だけで、顔も合わさなければ話もしたこともないまま、生まれも育ちも違う世界の男たちから求婚されるかぐや姫の気持ち……。

実は、彼女は翁に結婚を勧められた際、

「良くもない容姿なのに、相手の深い心も知らずに結婚して、浮気心でも湧いたら、あとで悔やむこともあるに違いない」(“よくもあらぬかたちを、深き心も知らで、あだ心つきなば、後くやしくこともあるべきを”)

とも言っていたのです。絶世の美女であるはずのかぐや姫が、自分の容姿を、
“よくもあらぬ”
と言っていた。これまた謎めいていて、いろんな想像ができるところですが、一つには、顔すら見たこともない男たちが噂だけで群がってくるのが恐ろしかったのかもしれません。
そもそも当時、上流の女は、父親や兄弟以外の男には顔を見せませんでした。女が男に顔を「見せる」というのはイコール結婚を意味していたのです。

ではどうやって男女は恋愛に落ちたのかと言えば、『源氏物語』などを見ると、まず男のほうが、女の召使に賄賂を渡すなどして、女を覗き見させてもらうのです。
これを“垣間見(かいまみ)”と言いました。
女のほうでも、宮中のイベントなどであらかじめ、御簾の陰などから男の容姿を確認する場合もあったようです。

いずれにしても「チラ見」に過ぎず、メインは文のやり取りです。
筆跡や文章、文につける草花の色から、互いに相手の趣味や教養をはかって、その人柄を判断します。女はその気がなければ返事をしませんし、その気があってもすぐには返事をせずに、男をじらします。そういう段階を踏んだ上で、男は女のもとに通い、はじめのうちは、外に近い場所で、召使を介しての会話をしていたものが、だんだんと奥の席を許され、御簾ごしに姫とじかに喋れるようになれば、かなりな進展。そういうことを重ねていって、やっと御簾を通じて手を握るといった感じになります。
こうして徐々に女に近づくことが許された男は、時に、女の同意もないまま、親や召使に導かれ、結婚に至ることもあります。女は上流になればなるほど、親や召使にその身を管理され、外出一つとっても不自由なことが多かったのです。

貴族の常識も教養もさほどなかったはずの竹取の翁に山で見出され、育てられたかぐや姫が、いきなりそういう貴族の世界に入って、やっていけるのでしょうか。
そのあたりの疑問も、映画は解きほぐしてくれます。

が、映画を見れば、『竹取物語』のすべての謎が解けるかというと、そうでもないのが、また『竹取物語』的なのです。
かぐや姫は、天人の王が語るところによると、“罪”を犯したため、“賤しき”翁のもとに下され、一方の翁は“いささかなる功徳”を作ったため、その“助け”としてかぐや姫や黄金を得たと言います。けれどもその罪や功徳が何であったのか、原話で具体的に語られることは一切ありません。

映画ではそれが「明らかにされている」という設定なのですが、しかし映画を見ればすんなり謎が解けるという仕組みではなく、むしろさらに謎は深まり、考えさせられる作りになっています。その、
「考えさせられる」
というところが、また原話に忠実であると、私が思うゆえんです。

後編に続く
(大塚ひかり)

古典エッセイスト。12/4に「竹取物語」を現代語全訳した『ひかりナビで読む竹取物語』(文春文庫)発売予定