きょう5月26日から2日間の日程で、主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)が三重県志摩市にて開催される。日本でのサミットは、2008年の洞爺湖サミット以来、8年ぶり6回目となる。

首脳たちに毒殺の危機?サミットと食にまつわる事件簿
迎賓館赤坂離宮。1979年、1986年、1993年の東京サミットはここで開催された

「おいしい料理ものどを通らない」……昼食会でも悩み続けた首相


サミットでは毎回、各国首脳に出す食事をめぐって裏方たちが頭を悩ませている。日本で初めて開催された1979年6月の東京サミットでは、各国首脳がホテルオークラとホテルニューオータニに宿泊した。このときホテル側が事前に調べてみると、首脳によって卵の料理の好みさえ違ったという。

西ドイツ(当時)のシュミット首相は5分間固ゆでしたハードボイルドを好んだ。アメリカのカーター大統領はどちらかといえばスクランブルエッグが好きで、イギリスのサッチャー首相は、熱湯のなかに生卵を割り入れてゆでたポーチドエッグ派だった。さらにカナダのクラーク首相は目玉焼き、それも両側を焼いた「ターン・オーバー・ハード」でなければお気に召さない。ニューオータニでは、これにわざわざ輸入したカナディアン・ベーコンをつけて出したという(船橋洋一『サミットクラシー』朝日文庫)。


ニューオータニではこのほかにも、シュミットの好きなコーラを部屋の冷蔵庫から切らさないようにするなど心配りに余念がなかった。ルームサービスの利用も多かったが、どの首脳も多忙をきわめ、オーダーを受けて準備をしていると、3分も経たないうちに催促の電話が鳴るほどだったとか(嶌信彦『首脳外交――先進国サミットの裏面史』文春新書)。

1979年の東京サミットではまた、最終日(6月29日)の迎賓館・和風別館での昼食会で、各国首脳が料亭「吉兆」の用意した日本料理のできばえを褒めるなか、議長を務めた大平正芳首相が、「このおいしい料理も、1985年の石油輸入抑制のことを考えるとちっとも味がしません。のども通りません」と訴える一幕があった(前掲、『サミットクラシー』)。「1985年の石油輸入抑制」とは、この年に起こった第二次石油危機を受けて、フランスのジスカールデスタン大統領が提案したもので、各国がそれぞれ抑制目標値を出すことが求められていた。資源の乏しい日本にとって、この案を呑むことは死活問題であり、それが先の大平の言葉へとつながった。
結局、このあと大平は妥協案を示し、アメリカのカーター大統領の援護も受けながら参加国全員の合意を得ている。

このように、サミットと食にまつわる話は数多い。以下、騒動も含め、サミットという国際舞台において食が演出したエピソードをいくつか紹介してみたい。なお、文中にあげる人物の役職は、ことわりがないかぎり当時のものである。

夕食会が遅れたのは「毒殺の危険」があったから!?


サミットは1975年11月、フランス・パリ郊外にあるランブイエ城にアメリカ、イギリス、イタリア、西ドイツ、日本、フランスの6カ国の首脳が集まったのがそもそもの始まりである。これは前出のフランス大統領・ジスカールデスタンの呼びかけによるもので、第一次石油危機(1973年)のあとの世界的な経済不況のなか、その解決のため意見交換を行なうべく企図された。翌76年のサンフアン・サミット(アメリカ)からはカナダが加わりG7(Group of Seven)となる。


サミット生みの親ともいうべきジスカールデスタンの回顧録には、1980年6月のベネチア・サミット(イタリア)でのできごととして、こんな話が記されている。それは総督宮殿での夕食会でのこと。待てども食事が出てこない。招待客が集まってから1時間15分が経ち、主催者であるイタリアのコシガ首相が遅れの原因を確認する。結局、本当の原因はわからなかったが、コシガの側近はジスカールデスタンに次のように言い訳したという。

《米シークレット・サービスが、夕食会で毒殺の危険があるという情報を入手した。
そこで料理を全部取り替えるよう要求した。肉料理に羊を予定していた。また新たに羊肉を用意しなければならなかったのです》
(池村俊郎訳『エリゼ宮の決断―続 フランス大統領回想録―』読売新聞社)

あまりに長らく待たされて、ジスカールデスタンは詳しく議論し合う気力が失せてしまう。それでも、その後別室でやっと始まった夕食会では、食卓の中央だけ明るく光の輪ができるようにした演出や、壁に飾られたベネチア派画家・ベルリーニの絵、さらに食事のため用意されたルネサンス期の食器にすっかり魅せられたという。

日本の首相、ナポリでお腹を壊す


イタリアでのサミットといえば、1994年7月のナポリ・サミットにおいて、就任わずか1週間後の村山富市首相が体調を崩し、1日目(7月8日)の首脳会合を欠席するというできごとが記憶される。

村山がのちに語ったところでは、開幕前日に《ナポリに着いたときはとくに体調が悪いわけでもなく普通だったんじゃ》(薬師寺克行編『村山富市回顧録』岩波書店)。翌日も、首脳会合の会場である卵城に入り、会合直前の1時間半ほど皆で庭を眺めながら散策をしたときには何ともなかった。
しかし、いざ会合のテーブルに着くと途端に腹の調子がおかしくなる。会合中に変なことになったらみっともないと、いったん用を足しに行ったものの、席に戻ってからもまだ体がおかしい。これはだめだと思い、そばにいた担当者に「もし自分が帰ってこなかったら、河野(洋平)外務大臣に連絡をしてほしい」と告げて退出する。結局その日、村山がテーブルに戻ることはなかった。

村山が腹痛を起こしたのは、どうも会場の入口でボーイから渡された飲み物――桃のジュースか何かだったという――が甘くて冷たくておいしかったので、ついグイグイ飲んでしまったのがいけなかったらしい。首脳会合前には、アメリカのクリントン大統領をはじめ各国首脳と個別に会談を行ない、その合間にホテルに戻っても十分休めなかった。
それでも当初は気が張っていて疲れを感じなかったのだろう。実際には体は疲れ切っており、胃が正常に働いていないのにもかかわらず、冷たい飲み物を一気に飲んだので下痢を起こしてしまったようだ。

村山は、長らく政権を担当したことのなかった社会党(現・社民党)に属した。その社会党は1994年6月末に自民党・新党さきがけと3党と連立政権を発足し、党委員長の村山が首相に担ぎ出される。もともと首相になることなど夢にも思わなかった彼にとって、外交は重荷であった。それでも経験を重ねるうちに苦痛ではなくなったという(前掲、『村山富市回顧録』)。

深夜のすし屋での会談はざっくばらんに


村山富市はナポリ・サミット出席にあたり、元首相の宮澤喜一に会って色々と話を聞いたという。宮澤は大蔵省(現・財務省)出身ながら、サミットに首相就任以前より外務大臣や大蔵大臣として何度も出席するなど外交経験が豊富だった。

宮澤は面会に来た村山に、「あなたは言葉のことを気にしているんじゃないですか」と訊ねたという。まさに図星で、村山は英語がからきしダメだった。だが宮澤は、フランスやドイツの首脳も英語ではしゃべらないはずだし、通訳もちゃんとついているから心配はない、「堂々と日本語でやんなさいよ」とアドバイスしてくれた。

もっとも、当の宮澤は首相在任中の1993年7月の東京サミットの開催時、クリントン米大統領との非公式な会談では通訳を介さず、英語でやりとりしている。この舞台となったのは、ホテルオークラのすし屋だった。当時、日米間で問題化していた貿易摩擦の解消のため、アメリカ側は日本に対して貿易規制の数値目標を求めていた。これに宮澤は「そういうことは貿易管理につながるのでできない」と断固として反対したが、クリントンは、サミットの閉幕した7月9日夜、離日前にもあらためてこの話をしたいと伝えてきた。アメリカ側の「互いに時間がないのでどこかスナックででも食べながらできないか」との打診を受け、宮澤が「日本のスナックならすし屋だ」と会談の場を設けたという(御厨貴・中村隆英編『聞き書 宮澤喜一回顧録』岩波書店)。

すし屋で酒を飲みながらの会談は午後9時半から約2時間におよび、かなりざっくばらんに話し合いができたようだ。公式の会談では通訳を置く宮澤だが、先述のとおりこのときは英語でやり合った。通訳なしのほうが誤解がないうえ、また本題以外の話題にも言及できたという。宮澤いわく、クリントンは分かりの早い人だった(五百旗頭真・伊藤元重・薬師寺克行編『宮澤喜一 保守本流の軌跡』朝日新聞社)。

じつは東京サミットの前月、宮澤は内閣不信任案可決を受けて衆議院を解散、サミットで議長を務めたときには選挙戦の最中にあった。サミット開幕の2日前(7月5日)にクリントンと会ったとき、宮澤はそんな事情ゆえ《じつはあなたとこうやって議論しているけれど、私はレームダック[御用済み]だと言われているんだよ》と言ったところ、クリントンは《そうかね、そういう話なら自分はレイト・カム・キッド(と言ったかな、遅れてやってくる男)だから、そういうところから逃げるのがいちばん得意技なので、なんでも知恵を出すから。どういう状況になっているんだ》などと返したという(前掲、『聞き書 宮澤喜一回顧録』)。当時73歳の宮澤に対し、まだ就任から半年足らずだったクリントンは46歳と親子ほどの年齢差がありながら、冗談を交わすほど打ち解けあったのである。

自らメニューを決めるフランス大統領


同じくらいの年齢差でも、フランスのミッテラン大統領は、1994年6月のクリントンの就任後初めての訪仏に際しての晩餐会で、格付けされていないシャトー・ラクロワというボルドーのポムロール産のワインを供するなど、いささか意味深な歓迎のしかたを見せた。

なお、フランスの大統領は、国賓などの晩餐会を主催する際、メニューを他人任せにせず、執事長と料理長に自分の考えを示し、あげられてきた案のなかから最終的に自分で判断を下すのが慣例となっている。ワインもその例外ではない(西川恵『エリゼ宮の食卓―その饗宴と美食外交―』新潮社)。

クリントンに出されたワインは内容的にはけっして悪いものではなかったという。問題は、国賓待遇で訪れたアメリカ大統領に、なぜ格付けされていないワインを出したかだ。ミッテラン自ら選んだのだから、そこには何らかのメッセージが込められていたに違いない。

これについて毎日新聞社で長らく外信部の記者を務めた西川恵は、《誤解を恐れずに言うなら、あまり知られていなシャトー・ラクロワの選択には「西側リーダーにふさわしい政治家となるには、まだ若すぎる」「極上ワインを供するにふさわしい指導者としては、まだ貴方を認めていませんよ」といった示唆が込められていなかっただろうか》と解釈する(前掲、『エリゼ宮の食卓』)。ミッテランはクリントンに人間的には好感を抱きながら、政治家としては未知数の彼を失礼にならないレベルで試そうとしたということなのか。

「食卓にこそ政治の極致がある」とは、前掲書で西川が引いた18~19世紀のフランスの美食研究会ブリヤ・サヴァランの言葉だ。とすれば、今回の伊勢志摩サミットで各国首脳に出される食事にも何らかの政治的な考えが込められているに違いない。とくに今晩開催される予定の晩餐会のメニューは要注目だろう。
(近藤正高)

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