北宋時代に描かれた「清明上河図」は、中国美術史を代表する名画の一つだ。縦24.8センチ、横528.7センチの長大な絵巻には、500人を超える人物が描かれている。
巻物を広げると、北宋の都・汴京(現在の河南省開封市)の活気に満ちた都市生活が目の前に現れる。商人が商売をし、船頭が川を行き交い、街角では人々が商品を売り、道を急ぐ人もいれば、立ち止まって周囲の様子を眺める人もいる。ラクダや馬、さまざまな荷車も人々の間を行き交っている。
この作品の価値は、単に「繁栄した都市」を描いたことにあるのではない。商業、交通、運河、建物、人々の暮らしなど、都市がどのように動いていたのかを細部まで描き出し、北宋時代の都市生活を一つの絵巻に凝縮している点に大きな特徴がある。ただ、「清明上河図」が中国絵画史に残る傑作となった理由は、絵そのものの素晴らしさだけにとどまらない。本当の意味でこの作品を「伝説」にしたのは、その後に待ち受けていた約900年に及ぶ数奇な運命だった。
完成後、「清明上河図」はまず北宋の宮廷に収蔵された。北宋が滅亡すると、作品は宮廷を離れ、金朝へと渡ったとされる。
それからおよそ60年後、金代の文人・張著が絵巻に跋文(ばつぶん/後書き)を残した。そこには作者・張択端の名前や出身地、得意とした画題などが記されている。絵そのものには作者名が記されていないため、この張著の記録は、後世の研究者が作者を確認する上で極めて重要な資料となった。
張著の後にも、金代の文人たちは相次いで絵巻の後ろに詩や跋文を書き残した。
元代に入ると、「清明上河図」は再び皇室の収蔵品となる。しかし、その後は元朝の内府を離れ、再び民間へと流出。明代になると江南の収蔵家の間を転々とし、その名声はさらに高まっていった。
そして、この名画の前に現れたのが、明代の大物政治家・厳嵩だった。権力を握った厳嵩は大量の書画を収集し、「清明上河図」も厳氏のコレクションに入った。その後、厳嵩父子が失脚すると、財産は没収され、絵巻は再び宮廷へと戻ることになる。しかし、宮廷に入ったからといって、作品の旅が終わったわけではなかった。
万暦年間には、権力を持った宦官・馮保が「清明上河図」を宮廷の収蔵から持ち出したとされる。その後、清代に入ってからも作品は私人の収蔵家の間を移動し、乾隆帝の時代には再び宮廷のコレクションに収められた。
しかも乾隆帝は、「清明上河図」を高く評価し、宮廷画家たちに模写を命じた。現在、「清明上河図」には、後世の模写、模倣によるものが数多く存在する。
これは、この作品が中国の美術史だけでなく、収蔵史においても特別な存在だったことを示している。名声が高まれば模写が増え、価値が高まれば、それを手に入れようとする人も増えていったのだ。
「清明上河図」の運命は、清朝末期に再び大きく動く。1922年から23年にかけて、清朝最後の皇帝・溥儀は弟の溥傑らへの「下賜」という形で、大量の宮廷書画を紫禁城の外へ移した。「清明上河図」もその中に含まれていた。作品はその後、天津へ持ち出され、さらに長春へと移された。
北宋の宮廷を出発した一幅の絵は、金、元、明、清という四つの王朝をまたぎ、さらに近代中国の戦争や社会の混乱にも巻き込まれながら、その居場所を変え続けた。皇帝の元にあり、権臣の手に渡り、文人や収蔵家によって大切に保管され、時には宮廷から持ち出された。故宮の研究資料では、その複雑な過程を「四出五進宮門」と表現している。「清明上河図」は宮廷に何度も入り、そして何度もそこから出ていったのだ。
では、研究者たちは、これほど長い旅を続けた1枚の絵の足跡を、どのようにたどるのだろうか。
その重要な手掛かりとなるのが、絵巻とその後ろに残された鑑蔵印や題跋(だいばつ)だ。現在の絵巻には数十に及ぶ鑑蔵印や、複数の人物による題跋が残されている。一見すると、印章は、いくつかの読みにくい篆字(てんじ)にすぎない。しかし研究者にとって、一つ一つの印章は重要な歴史資料だ。それが誰の収蔵品だったのか、いつ頃その人物の手に渡ったのか、そしてその時代に何が起きていたのか―。
こうした小さな手掛かりを一つずつつなぎ合わせることで、「清明上河図」が900年近くにわたってたどってきた「旅行ルート」が浮かび上がってくる。
1945年前後、「清明上河図」は再び国家の文化財収蔵体系に入り、50年には正式に故宮博物院の所蔵となった。それ以来、現在まで故宮で保存されている。(翻訳・編集/小林輝也)











