流しのブルペンキャッチャー回顧録
第11回 武田翔太(韓国・SSGランダース)

 タテに落下する110キロ前後のカーブが、140キロ台の速球より速い......。正確に言えば、速く感じる。

それを最初に教えてくれたのは、宮崎日大高時代の武田翔太だった。

 その後、明治大の柳裕也(現・中日)、さらに福岡大大濠の山下舜平大(現・オリックス)のボールを受け、その感覚は確信へと変わっていった。
 

145キロのストレートより怖かった110キロのカーブ 武田翔...の画像はこちら >>

【驚愕の落下スピードを誇るカーブ】

 2011年春、宮崎日大グラウンドのブルペン。投手と捕手の頭上に屋根があったと記憶している。ホームベースのちょっと前あたりに、ピンクのリボンが落ちていて、ゴミだと思って拾おうかと思ったら、土の中に埋められていて驚いた。

「ボクがつくったんですよ(笑)」

 そう笑顔で語る武田の表情には嫌味がない。つられて、こちらも一緒に笑ってしまった。

「そのピンクのリボンを狙って、思いっきり叩くように腕を振ると、低めに投げる時に指のかかりの感じがよくわかるんです」

 思い返せば、その前年秋の宮崎大会でも、武田は184センチ(当時)の長身から150キロに届きそうな快速球を投げていた。その時に「すごいな」と思ったのは、球速よりも長身のオーバーハンドなのに、高く抜けるボールがほとんどなかったことだ。

 当時でも珍しくなっていたワインドアップ。とくに印象的だったのは、ボールの握りが最後まで見えない"振りかぶり"だった。ワインドアップでは、グラブの背面を打者に見せ続けるように両腕を高々と上げる。すると、両ヒジが自然と内側に締まり、その後の一連の動作で体の開きを最小限に抑えることができる。

 ブルペンでも、ワインドアップから踏み込む際の「半身」の形をきれいにつくることができる。そのため、テイクバックの際に打者から右腕が見えにくい。体が開かないことで、ボールを持った右手は「クレーンゲームの要領で」(本人談)、自然と目いっぱい高く上がり、そのまま真上からズバッと振り下ろされる。

 しゃがんでミットを構えると、その角度に圧倒される。アゴを上げていなければ、右腕がトップの位置に入る瞬間が見えない。全力で振り下ろされた速球は、まるでホームベース手前のピンクのリボンに突き刺さるかのように飛んできて、そこからもうひと伸びし、ミットに吸い込まれる。

 そしてカーブだ。

「1球、軽く投げてくれる?」

 そう頼んで投げてもらったカーブは、一瞬フッと浮き上がったかと思うと、そこから鋭く真下へ落ちてきた。軽く投げてくれたの最初の1球。それでも、その落下スピードは驚くほど速かった。

 そして本気のカーブが来た。リリースの瞬間の浮き上がりは小さかったが、真っすぐの軌道から垂直に折れ曲がるようにベース前のピンクのリボンに突き刺さった。

 速い......真っすぐだって145キロ前後は出ていたはずなのに、その球が怖く感じられないほど、カーブが速くて恐ろしかった。

【僕がお父さんの右腕にならないと】

 小学生の頃は水泳スクールに通い続け、自由形で宮崎県3位に入った実績を持つ。水泳で鍛えた肩甲骨の可動域は驚くほど広く、そのしなやかさは投球フォームにも生かされている。まさにスポーツ万能のアスリートだ。

 ブルペンで投げてもらう前、外野で一緒にストレッチをしながら、いろいろな話をした。私の柔軟性を見て、「すごく柔らかいですね」と、声をかけてくれた。前に何度も会っていたような人懐っこさ。笑顔も素朴で、「田舎ものですから」と照れくさそうに笑う姿に謙虚さがにじんでいた。

 中学時代に右ヒジを痛めて落ち込んでいた時、父から言われたひと言が忘れられないという。

「右がダメなら左があるじゃないか」

 じつは、武田の父は右腕の機能を失っていた。トラック輸送の仕事中の事故だった。切断も危ぶまれたが、整復手術によって腕を失うことは免れた。しかし、損傷した神経の機能が回復することはなかった。

「でも、父は左手だけで何でもできるんです。ボールを投げることも、打つことも、バットを振ることもできる。ソフトボールの監督もやっているんですよ」

 母が仕事の時は、父が料理をつくり、武田がお手伝いをする。

 父の交通事故は、武田が生まれる前に起きたという。

「お父さんの右腕の代わりに、僕が生まれたんです」

 武田の語り口に陰りはない。きっと、すばらしいお父さんなのだろう。

「だから、僕がお父さんの右腕にならないと」

 私が「親孝行だね」と言うと、「何をしたら、親孝行になるんでしょうね。たぶん聞いても言わないと思いますね、ウチのお父さんは」と、武田は呟いた。高校球児とは思えない、大人びた響きのある言葉だった。
 
「親子って、近いようで遠いっていうか、向き合って話すことって、なかなかないじゃないですか」

「料理の手伝いもいいけど、やっぱり、野球じゃないのかなぁ」

「そうですかねぇ......」

 武田は、親孝行の本当の意味を、自分なりに懸命に探し続けているような青年だった。それまで出会ってきた球児たちとは、どこか違う空気をまとっていた。

【活躍の場を求め韓国でプレー】

 高校時代に「ダルビッシュ二世」と称されたのは、決して長身や球速だけが理由ではない。

力強いストレートで打者を圧倒しながら、110キロ前後のカーブで緩急を織り交ぜる。その投球には、高校生とは思えない余裕があった。自分をコントロールしながら、試合を組み立てていた。

 右打者の外角低めへ投じた渾身の一球が「ボール」と判定されても、決して感情を乱さない。次の一球もまったく同じコースへスライダーを投げ込み、打ち取ってしまう。心は熱くても、思考は常に冷静沈着。そんな投手だった。

 菅野智之(東海大→日本ハム拒否)、野村祐輔(明治大→広島)、藤岡貴裕(東洋大→ロッテ)の「大学ビッグ3」に、将来のクリーンアップ確実と評された高橋周平(東海大甲府→中日)らに注目が集まった2011年のドラフト。そのなかで、武田はソフトバンクから単独1位指名を受けてプロへと進んだ。

 1年目から11試合に登板して8勝1敗、防御率1.07と鮮烈なデビューを飾った。新人王には届かなかったものの、優秀新人賞を受賞。その後も着実に成長を遂げ、5年目の2015年には13勝6敗、防御率3.17、翌2016年には14勝8敗、防御率2.95と2年連続で2ケタ勝利をマークした。

オフには1億円プレーヤーの仲間入りを果たすなど、順風満帆なキャリアを歩んでいた。

 ただ、このまま一気に飛躍するかと思われた矢先、故障やコロナ禍の影響が重なり、思うような成績を残せない時期がしばらく続いた。

 その間も、春の宮崎キャンプで彼を探すと、あれほど広いキャンプ地なのに、不思議と毎年のようにバッタリ出くわした。そして、そのたびに話に花が咲いた。

 投手としてどんな状況にあっても、彼はいつもの素朴な笑顔で、今の自分と野球に対する率直な思いを語ってくれた。右ヒジを痛めていた時期は、野球以外の話題が多かったが、変わらず朗らかで饒舌だった。

 今年は韓国に活躍の場を移し、異国のマウンドで右腕を振っている。33歳になった今、何を思い、何を目指しているのか。そんなことを考えると、真っ先に思い出すのは、あの飾らない素朴な笑顔である。

 そういえば、もうひとつ思い出したことがある。噛めば噛むほど味が出る、あの何ともいえないスルメのような笑顔。あまり定着はしなかったが、以前、ある記事で彼を「スルメン」と名づけたのは、何を隠そう、この私だったのだ......。


武田翔太(たけだ・しょうた)/1993年4月3日生まれ、宮崎県出身。宮崎日大高では「ダルビッシュ二世」と称され、2011年ドラフト1位でソフトバンクへ入団。1年目から8勝を挙げるなど頭角を現し、2015年から2年連続で2ケタ勝利をマーク。縦に鋭く落ちるカーブを武器に、NPBで66勝を挙げた。2025年限りでソフトバンクを戦力外となり、2026年シーズンは韓国・KBOリーグのSSGランダースでプレーしている。

安倍昌彦●文 text by Masahiko Abe

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