セザール・サンパイオ ロングインタビュー/第2回(全4回)

 横浜フリューゲルスが吸収合併されたあと、セザール・サンパイオは母国ブラジルとスペインのクラブでプレーした。その後の2002年、柏レイソルに加入してJリーグに復帰。

翌2003年からはサンフレッチェ広島に2シーズン在籍した。インタビューの第2回では、その頃の記憶を辿っていった。

「仲間が問題を抱えていれば、一緒に解決しようとした」 柏と広...の画像はこちら >>

【柏では最終節にG大阪を下して残留】

──横浜フリューゲルスの消滅によって日本を去った3年後の2002年に、あなたは柏レイソルに移籍しました。日本に戻ってきた時の気持ちは、いかがでしたか?

「僕はいつでも日本に帰りたいと思っていたんだ。日本を去ったのはフリューゲルスが消滅してしまったからであり、自分で決めたことじゃなかったからね。日本での自分の役割は終わっていなかったと感じていたので、オファーを受けた時はすごくうれしかった。日本の文化、組織力、真剣な空気に再び身を浸した時は、念願が叶ったと感じたよ」

──柏の第一印象はどうでしたか?

「すごくよくオーガナイズされたクラブだった。ひとつ疑問だったのが、2000年はとてもよかったのに、その翌年、同じ監督が指揮し、選手もほとんど同じだったのに、なぜかパフォーマンスが著しく落ちていたということ。たぶん、当時の柏は若い選手たちが多かったし、何人かの外国人が日本のサッカーに適応できなかったからだと思う」

──その不安定さを解消するために呼ばれたんですね。

「柏は3人の韓国人をブラジル人に入れ替えたんだ。僕が加入したあと、エジウソンとリカルジーニョが入った。ただ僕はあの前年、スペインのデポルティーボ・ラ・コルーニャでプレーしていた時に、両足のアキレス腱の手術をしていた。その後、ブラジルに戻って、コリンチャンスでプレーに復帰して5、6カ月のところで柏に行ったんだ。

理学療法や強化トレーニングをしながらプレーしていたんだよ。

 チームは最後までJ2降格の危機に瀕していたけど、最終節では上位争いをしていたガンバ大阪と対戦し、勝って残留を決めることができた。試合後のスタジアムは拍手喝采で、忘れられない勝利になったよ」

【メッセージ入りのシャツを作って仲間を鼓舞】

──柏とは、現役引退後もつながりがありましたね。

「ブラジルで柏のスカウトを務めたし、僕がモジミリンECというクラブのディレクターをしていた2009年には、柏のサテライトにいたDF酒井(宏樹)とFW武富(孝介)を4カ月の留学に連れてきたんだ。現役時代のチームメイトだったミツ(渡辺光輝)がサテライトの責任者だった時には、その育成を手助けできたのもうれしかったな」

──柏のサポーターとの思い出もありますか?

「たくさんあるよ。たとえば、僕と当時のチームメイト薩川(了洋)は、横浜フリューゲルスでも一緒にプレーしていて、親友だったんだ。彼と僕にはファンクラブがあって、ふたりでサポーターを招いて、焼き肉を食べに行ったりした。それから、柏の繁華街に行きつけの鉄板焼きの店があって『次の試合に勝ったら無料ね』って、店の人と冗談を交わしたりして、街にも親友ができたんだ」

──柏での1年を経て、サンフレッチェ広島でも新たな挑戦をしましたね。

「広島は2003年、クラブ史上初めてJ2で戦うことになっていた。若い選手たちが多いチームだったから、1年でJ1に復帰するために、経験豊富な選手を必要としていたんだ。責任重大だったけど、多くの若手に信頼してもらえたし、期待以上のことができたと思う。

 いろんなことがあったよ。シーズンの最初はいいスタートを切ったんだけど、うまくいきすぎると気が緩む選手が出てきて、それをコントロールしないといけない。

 順位を落とした時には、選手たちが不安や焦りを感じ始めた。だから、インナーシャツを作って選手全員に配ったんだ。『神の手助けとともに、僕らは1部に復帰する』と書いたものだ。時には言葉で伝えるだけじゃなく、目に見える行動のほうが実感しやすい時もある。だから、みんなでユニフォームの下にそのシャツを着てプレーし、試合が終わったら、脱いでスタンドに投げ込んだ。そうやって、サポーターも巻き込んで盛り上げたんだ」

【ブラジルと日本がミックスすれば完璧な国になる】

──技術面だけでなく、精神面のサポートもしたんですね。

「そう。ニホンゴ、マアマア、ダケド(笑)。いつでもチームメイトを勇気づけていた。日本とブラジルは両極端なんだよね。日本人は物事をきちんと進める一方で、問題にぶち当たると、すぐに意気消沈してしまう。

 逆にブラジルでは日々、困難の連続だから。

僕はサントスでサッカー、サンパウロでフットサル、そして学校で勉強を続けていた時期がある。食事する時間もないほど慌ただしかったけど、フットサルを辞めるわけにはいかなかった。サンパウロで少しお金をもらえたから、サントスに行くためのバス代が払えたんだ。母は日雇いで働いていたから、食事ができる時も、できない時もあった。でも、目標を達成するためには、困難なんてない。もっと頑張ればいいだけだ。それが、僕の考え方なんだ。

 だからこそ、日本でチームメイトたちが問題を抱えれば、一緒に解決しようとした。監督たちとも話をした。彼らまでが落ち込んでしまうのを感じたから、問題がある時こそ自信を持ち、選手たちに解決策を示し、安心感を与えなければならないと伝えたよ」

──本当に、いろいろな面で貢献していたんですね。

「おかげさまで1年でJ1復帰を達成し、みんなで乾杯することができた。その時にクラブからもらったしゃもじと酒の升は、今も自宅に飾ってあるよ。

三本の矢とともにね。

 去る時には、僕も家族もすごく泣いた。クラブは僕に、指導者や技術的な部門の役割で残ってほしいと言ってくれたんだ。でも、僕はまず、自分が次の職業に就くためにきちんと準備したくて、帰国を決意した。

 当時のチームメイトたちとも、強い絆で結ばれている。小村(徳男)はその後、新婚旅行でブラジルに来てくれたから、僕の家に泊まってもらったよ。

 そんなふうに、日本でプレーした3つのチームは、僕にとってすごく重要なものなんだ。日本の人たちを手助けしようと頑張ったと同時に、僕も多くのことを学んだ。大事にすべきものへの価値の置き方、人を尊重する気持ち......、そういう日本のいいところをブラジルとミックスできれば、どちらの国も完璧になるよね(笑)。日本は今でも、僕の第二の故郷なんだ」

(つづく)

第3回を読む >>> 「僕は監督として日本に戻りたいと思っている」引退後に多くを経験したセザール・サンパイオが夢を語る

セザール・サンパイオ Carlos César Sampaio Campos
1968年3月31日生まれ、ブラジル・サンパウロ出身。現役時代は万能型のボランチとして活躍し、サントス、パルメイラスというブラジルの名門を経て、1995年に横浜フリューゲルスに加入した。同クラブ在籍中、1998年ワールドカップにブラジル代表のレギュラーとして出場し、準優勝に貢献。

2002年に柏レイソルに入団、翌2003年からはサンフレッチェ広島でもプレーした。引退後はクラブ経営や指導者の職務を歴任し、大学で経営学なども学んでいる。

藤原清美●取材・文 text by Kiyomi Fujiwara

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