【千葉市・稲毛区発】「色」と一口に言ってもさまざまな色がある。まさにいろいろだ。
言葉では同じ白でも実際は100種類以上あるとも言われている。色はどんな環境で見るかによっても変わり、どんな人が見るかによっても変化する。そしてその人の感情によっても……。とても奥深い世界だ。堀内さんが会長を務める日本色彩学会は「科学、技術、デザイン、心理、教育、産業」と幅広い分野が交錯することでも有名だ。それほど色の活用と理解は多くのことに関連、影響し、欠かせないものだ。そして難しい。どうしてこんなに難しいのか。
(本紙主幹・奥田芳恵)

●絵を描くことよりも魅了された 絵の具を混ぜて色が変わる不思議
奥田 色に興味を持つようになったきっかけは何だったんでしょう。
堀内 父は絵が好きでした。市の写生大会で賞を取ったりしていました。私も小さい頃に何度か連れていかれた覚えがあります。
ただ、私は絵を描くより「色を混ぜる」ことのほうが好きだったんです。なんでこんな色になるのか、魔法のような不思議さが面白かったんですね。
奥田 それで絵も書いてみようと思われたんですか。
堀内 小・中学とリトルリーグで野球をやったり、バスケットもやったりしていたんですが、中学の頃、足をけがしてしまって。高校ではスポーツは無理だと、そこで絵かなと。油絵のクラブに入って描き始めたんです。
奥田 どんな絵を描かれていたんですか。
堀内 絵を始めるまでは、写実的な絵しか頭にありませんでした。「いかにそのまま、物理的に正しく描写するか」が絵だと思っていたんですね。ところが、印象派を知って、そのものの色じゃなくても、その場の雰囲気を伝えることもできると気付いたんです。
奥田 例えばどんな画家の絵ですか。
堀内 一番衝撃を受けたのは、カミーユ・ピサロの絵を見た時です。
いろいろな緑を使って絵を描くんです。おそらく実際とは異なる色遣いだとは思うんですが、空気感のようなものがしっかり伝わってくるんですね。絵というものが少し理解できた気がしました。それからは、そんな絵ばかり描いていました。
奥田 コンピューターとは、どんなかたちで出会ったんですか。
堀内 高校の頃、テレビでやっていたプログラミングの番組を見て、こんな世界があるんだ、やってみたいと思ったんです。パソコンが出始めの頃でした。とても自分で買えるような価格ではなかったんですが、たまたま近所の方がパソコンを買ったというので、触らせてもらい遊んでいたんです。物事をロジカルに考えることが好きだったので、「これだ」と思いました。
奥田 それで大学も情報系に進まれたんですね。
堀内 コンピューターを学びたいと思ったんですが、当時は、国立大学に情報と名前が付く学科や学部は、三つか四つくらいしかありませんでした。そのうちのいくつかを見学させてもらって、広大な敷地が気に入って筑波大学の情報学類に入ったんです。
1986年でした。ちょうど、大学間でインターネットの試行実験が行われていた頃です。
奥田 大学では思う存分コンピューターを使えるようになったんですね。
堀内 いざ入学するとコンピューターが使える時間はかなり限られていました。学生の半分は高校時代からバリバリやっているような連中で、短時間で課題をこなしていく。あとの半分は、私みたいに大学でようやくコンピューターを触り始めたような学生。全然時間が足りないんですよ。
奥田 困ったことになりましたね。
堀内 自己投資するならここだと、小さい頃から貯金していたお金にバイトで稼いだ分を足した全財産で、パソコンを買うことにしました。NECの「PC-9801VX21」です。いろいろ合わせて50万円くらいしました。それから、課題は自宅でできるようになりました。

●手書き文字認識からカラー画像処理 研究テーマは色の世界へ
奥田 研究の道に進もうと思われたのは?
堀内 大学4年の卒業研究で研究室に配属されて、初めて研究というものに触れたんです。そこで「面白い、自分に合っている」と思いました。
奥田 どんなテーマだったんですか。
堀内 手書きの文字認識です。当時の最先端は、手書きの郵便番号読み取り装置でした。電総研(電子技術総合研究所、現在は産業技術総合研究所に統合)の飯島泰蔵先生の研究室が、東芝と一緒に開発、実用化したものです。私も電総研の画像研究室に出入りさせてもらうチャンスがあったんです。活字の認識もフォントが違えば難しいという時代、それを手書きで実現するわけです。面白かったですね。
奥田 面白さの源泉はどこにあったんですか。
堀内 人間の思考や認知に興味を持っていました。人間は、実際に文字をどうやって認識しているのか。
それを、どうやって機械で実現するのか。最終的には「人間って何だろう」という問いにたどり着く、とても興味深い研究でした。
奥田 就職は考えなかったんですか。
堀内 当初はマスコミや金融機関を考えていて、論理的思考を生かした仕事ができないか、と思っていました。ちょうどバブルの頃です。引く手あまたで、ウンと言えば就職できる時代でした。ただ、あまりにも研究が面白かったので、大学院を出て就職しても遅くないだろう、といったん進学することを選びました。あんなにすぐバブルが崩壊するとは思いませんでしたからね(笑)。
奥田 いよいよ大学院で本格的な研究者としてのスタートですね。
堀内 ところがです。バブル期の学生として、ろくに勉強もせず過ごしたことが祟って、大学院の入試に落ちてしまったんです。大学院浪人です。
幸い、その間も研究は続けさせてもらえました。学会などにも出させてもらっていたんです。今なら、何の身分もなく大学に出入りする、というのは制度上問題があるんでしょうけど、当時は何とかできたんですね。結局、1年遅く入学したんですが、浪人中の成果も認められ、4年で博士を修了できました。トータルではほかの学生と同じ5年で済んで助かりました。
奥田 大学院時代は、どんなテーマに取り組んでいらしたんでしょう。
堀内 モノクロからカラーへの移行期でした。自然とデジタルカラー画像処理の研究にのめりこんでいきました。モノクロに比べ、光の三原色のRGB(Red、Green、Blue)になると、次元が増え扱う問題も難しくなります。例えば、ディスプレイで出た色とプリンターで出た色をどうやって同じ色で再現するか、という研究もしていました。
奥田 色を合わせるといっても、測ったりするのはとても難しそうですね。
堀内 圧縮の研究にも取り組んだのですが、画像データを圧縮する時に、元の画像を少し劣化させて圧縮します。実際にどのくらい画像が劣化したかは、物理的に計測して数値化します。ところが、その物理的な計測結果と、実際に人間が目で見た感覚が食い違うことが多い、ということに出くわしたんです。(つづく)
●子どもの頃に使っていた 水彩画と油絵の画材セット
「これまで何度も引っ越しを経験しましたが、気が付けば、これだけはなぜか今までずっとくっついてきているんです」と話す堀内さん。水彩画セットは小学生の頃、油絵セットは高校生の頃のものだ。その後は使うことはなく、時々取り出して眺めるようなこともないという。後に色彩の世界に深くのめりこんでいく研究者の片鱗は、パレットに残る絵の具の色に、すでに見え隠れしている。
心に響く人生の匠たち
 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
<1000分の第392回(上)>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
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