死のかたちから見えてくる人間と社会の実相。過去百年の日本と世界を、さまざまな命の終わり方を通して浮き彫りにする。
■1939(昭和14)年結核と文学、死の味のする生の幸福立原道造(享年24)
かつて、結核は不治の病だった。また、工業化が猛スピードで進む劣悪な都市環境で蔓延する傾向があり、日本では明治から昭和初期にかけて猛威をふるった。なかでも目立つのが、文学関係者の夭折だ。暗くじめじめした狭い部屋で、古本に囲まれ、ろくなものも食べず、不規則な生活をしがちなのが災いしたのだろう。
この連載が扱う以前の時代には、樋口一葉や石川啄木が20代なかばで世を去ったし、すでに見てきた時代では、1927(昭和2)年に詩人の八木重吉が29歳で亡くなった。また、この年、鬼籍に入った徳富蘆花(58歳・心臓発作)は、薄幸な美女が結核で悲劇的な死を遂げるベストセラー小説『不如帰(ほととぎす)』の作者だったりする。
なお『不如帰』というタイトルは、ホトトギスが鳴きながら血を吐いたという中国の故事が由来だ。また、ホトトギスは「子規」とも書く。それゆえ、俳人の正岡子規は喀血をして肺結核と診断されたことをきっかけに、子規と号した。
その後、子規は結核による脊椎カリエスにも苦しみ、寝返りも打てないほどの激痛にさいなまれるが、34歳で亡くなるまで、俳句・短歌の改革を過激に推し進めた。重病人だからこそ、対抗勢力がひるんでくれるのだとも語っていたという。
1932(昭和7)年には、梶井基次郎。結核と文学がある意味蜜月的なことに若くして気づき「肺病になりたい」と叫んだりしたという猛者だ。初志貫徹というべきか、この病に罹患し、代表作『檸檬』をはじめ、結核の影が見え隠れする小説を多く残した。遺作となった『のんきな患者』は「吉田は肺が悪い」という一文で始まり、こんな一文で終わる。
「しかし病気というものは決して学校の行軍のように弱いそれに堪えることの出来ない人間をその行軍から除外してくれるものではなく、最後の死のゴールへ行くまではどんな豪傑でも弱虫でもみんな同列にならばして嫌応なしに引摺ってゆく――ということであった」
この作品が初めて商業誌『中央公論』に掲載されたものの、翌月には31年の生涯を閉じる。そんな梶井がかつて「肺病になりたい」などと叫んだことを後悔したかどうかはさだかでない。ただ、当時の文学青年にとっても、ほとんどの人の場合、結核は恐怖だった。
たとえば、室生犀星は自伝的小説の『性に目覚める頃』のなかで、文学青年仲間が結核で夭折したあと、こんな本音を綴っている。
「いつか表が咳入っていたとき、蚊のような肺病の虫が、私の坐ったところまでぱっと拡がったような気のしたことを思い出した。そのときは、なに伝染るものかという気がしたし、友に安心させるためにわざと近近と顔をよせて話したことも、いま思い出されて、急に怖気がついて来て、とりかえしのつかないような気がした」
幸い、室生は結核にはかからず、72歳まで生きて旺盛な文学活動を続けた。
1937(昭和12)年には、作家の北条民雄と詩人の中原中也。北条はハンセン病文学で知られるが、23歳での死は腸結核によるものだった。
「とにかく死ぬまで、一度も働いたことがありません。ずっと、私の仕送りで生活しておりました。それでも女中をおいておったんです」
などと語っているのを見ても、詩に恋に酒に、自由に生きて子供のまま去っていった感じがする。ただ、一生無職だったわけではなく、詩で収入を得たこともあったようだ。彼の名誉のために付け加えておく。
その翌年には、この連載の第14回で見た『智恵子抄』のヒロイン・高村智恵子が亡くなった。高村光太郎と彼女の関係は、堀辰雄と矢野綾子のそれに少し似ている。堀と婚約中だった1935(昭和10)年、矢野は25歳で他界。結核療養所での「皆がもう行き止まりだと思っているところから始っているような」「いくぶん死の味のする生の幸福」は小説『風立ちぬ』に昇華され、戦地の若者に愛読された。
なお、この小説のファンでもあったスタジオジブリの宮崎駿が制作したのがアニメ映画の『風立ちぬ』だ。主人公のモデルは東大工学部を出て零戦の設計者となった堀越二郎だが、ヒロインは堀の婚約者だった矢野を思わせる女性で、やはり結核で夭折してしまう。
また『風立ちぬ』からは松田聖子の同名曲や同名アルバムを思い出す人もいるはず。これらの作詞者かつプロデューサー的存在だった松本隆も、堀の世界観が好みなのだろう。聖子に対しては、別のアルバムで「燃える頬」というフレーズが印象的な『P・R・E・S・E・N・T』という作品も書いた。そこには堀の短編『燃える頬』への意識も見て取れる。脊椎カリエスで夭折する美少年が登場するBL(ボーイズラブ)的な短篇である。
そういえば、松本が好む言葉に「微熱」がある。やや、こじつけめくものの、日本の近代文学が体現した異様な熱気には、結核という時代の病も作用していた。大げさにいえば、結核が文学の発熱装置でもあったのだ。松本はそういうものにどこか畏敬にも似た憧れを抱いていたのではないか。そこで自らの領域に、いわば余熱を持ち込むようにして、新たな時代に合った微熱的傑作を生みだしたともいえる。
宮崎もまたしかり。彼の『風立ちぬ』は喫煙シーンの多用でも話題になったが、当時の風俗への郷愁的なこだわりも強く感じられた。老いてなお、微熱を持ち続けている証しだろう。
さて、堀に話を戻すと、やはり若い頃から結核を患っていたが、それでも戦後まで生き延びた。対照的に、その弟子でありながら、師より先に旅立ったのが立原道造だ。ソネット形式を得意とした詩人だが、天才的な建築家でもある。東大工学部(前出・堀越二郎と同じだ)在籍中に、先輩の辰野金吾に由来する辰野賞を3年連続で受賞し、1学年下の丹下健三にも影響を与えた。
そんな文武両道ならぬ、文理両道ぶりは、堀の師にあたる芥川龍之介が理想とした境地でもあった。が、天は二物を与えずというか、そういう人間をこの世に長くいさせず、自らの傍に呼びたがるものだ。長身痩躯で、いかにも結核に好かれそうだった立原は、1939(昭和14)年、24歳で帰らぬ人に。その1年半前に肋膜炎を発症したあと、友人への手紙にこんな予感を明かしていた。
「僕は やがて 自分の晩年をロマンのなかに悲しく描きはじめてしまう。
数え年でいえば、予感はずばり当たったわけだが、無茶をしなければもう少し長く生きられたかもしれない。亡くなる前年、彼は建築事務所を休職して、武者修行と称し、東北や九州に無謀ともいえる旅をした。逆に「晩年」だからこそ限られた時間をより充実させたかったとも考えられるが、この旅は喀血で締めくくられる。
そういえば、1924年に40歳で亡くなったフランツ・カフカも無茶を好んだ。質素な食事と短い睡眠、寒い部屋での執筆が祟ったことから、死因となった咽頭結核を「自ら招き寄せた病」と呼んだという。
ちなみに、立原の死から4年後には、新美南吉が29歳で他界。カフカ同様、最期は咽頭結核だった。じつはこの年、米国でストレプトマイシンが開発され、結核における化学療法の歴史が幕を開ける。もちろん、戦時下でもあった東洋の島国にいる童話作家の救命には間に合うよしもなかった。
が、戦後には日本でも治療法が広まり、作家や詩人が夭折することは激減していく。結核と文学の「蜜月」も終焉へと向かうのである。
文:宝泉薫(作家・芸能評論家)
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