この春、芸能界であまりに対照的な2つの弔いの姿があった。内田裕也と萩原健一のそれだ。
内田裕也は1939年生まれで正式な芸能界入りは1959年。一方、萩原健一は1950年生まれで、1967年に17歳でザ・テンプターズの一員としてレコードデビューしている。年齢にもキャリアにも差があるので、この2人を「昭和のアウトロー」などと安易に同じカテゴリーに入れるのは乱暴ではある。
だが、両者は共に「日劇ウエスタンカーニバル」に出場していたミュージシャンである。そして内田裕也は、沢田研二らザ・タイガースをスカウトした人物。一方、萩原健一は、その沢田研二と並ぶGSブームの顔であり、のちに短期間ながら同じバンド(PYG)で一緒に活動していた経歴を持っている。
そういう意味において、同じ時代の芸能界の空気を吸っていたことだけは間違いないだろう。
●“芸能界のドン”らが葬儀に集うことの“意味”
4月3日に行われた「内田裕也 ロックンロール!葬」は、多くの芸能人、著名人が参列する派手なものだった。またそこには、葬儀委員長を務めた田辺エージェンシーの田邊昭知社長のみならず、イザワオフィスの井澤健社長、ケイダッシュの川村龍夫会長、そしてバーニングプロダクションの周防郁雄社長と、“芸能界のドン”たちが集結してみせた。
「そうしたお歴々も、若き日はいちマネジャー、いちスタッフ、いちミュージシャンだった。その頃、裕也さんは、日本の芸能界を牛耳っていたナベプロに所属し、ミュージシャンとしてだけではなく、プロデューサー的な活動をしていた。いわば裕也さんは、ドンたちが自らの城を築いていく過程を近くで見ていた人物なんです」(スポーツ新聞記者)
ただし、この“ドン勢揃い”には、ほかにも裏事情があったようで、「裕也さんの個人事務所の社長だった女性が、独断で『お別れ会』を企画。
また、純粋に故人を弔う以外の意味合いもあったという関係者も。
「すでに“後期高齢者”であるドンたちが、自分たちの存在感、健在ぶりを業界にアピールできる機会でもあったのでしょう」(芸能プロスタッフ)
あの手の大規模な葬儀や、「お別れの会」の類いはとにかくカネがかかる。著名芸能人の遺族や関係者としても、それは大きな負担となる。
「あの顔ぶれはつまり、業界団体『日本音楽事業者協会(音事協)』の中心メンバー。となると、ほかのプロダクション関係者も無視できないし、香典も5000円、1万円というわけにはいかなくなる。つまり彼らが葬儀委員長などを務めてあの葬儀会場にいることによって、“顔見せ”のためにより多くの芸能関係者が集まり、より多くの香典が集まることになるというわけ。その結果としてあれだけの人が集まったのだから、十分に採算が取れたのでは?」(同・芸能プロスタッフ)
●いかにもショーケンらしい人生の幕引き
一方、萩原健一の場合は、近親者のみの葬儀が早々に行われ、「お別れの会」などは行われなかった。しかも、死の翌日という異例の早さで、遺体が火葬されている。
これは故人の遺志に従ったものだとされるが、ある芸能プロ関係者はこう分析する。
「ショーケンさんは晩年、芸能界の中枢とは一定の距離を置いていた。個人事務所がマネジメントし、一応は大手のオスカープロモーションに所属するかたちをとってはいたが、オスカープロとはあくまで“業務提携”の関係。
先にも述べた通り、ショーケン級のスターの「お別れの会」を開催するとなれば、莫大なコストがかかる。
「不動産などの資産はあったにしても、この十数年は、かつてほどの稼ぎがあったとは思えません……。しかしあれだけの存在になれば、稼ぎが減ったからといって、全盛期の頃からそう簡単に生活レベルは落とせないでしょう。しかも、一時は海外を拠点にするなど、カネがかかりそうな暮らしをしていた」(同・芸能プロ関係者)
ショーケンの場合、逮捕歴があるため、拘束時間が短い割にギャラのいいCMの仕事は基本的に難しい。また、本人が作品選びに慎重すぎたこともあり、晩年は映画やドラマの出演機会も少なかったのだ。
「最期を看取った4人目の奥さんである冨田リカさんは、モデル業その他で今でもそれなりに稼いではいるが、やはり全盛期のショーケンの稼ぎには遠く及ばない。そうした背景もあって、盛大なお別れの会を執り行う余裕はなかったのではないでしょうか」(同)
どんな事情があったにせよ、ひっそり消えていくというのは、いかにもショーケンらしいともいえなくもない。ただし、『傷だらけの天使』で共演した水谷豊、あるいはライバル関係にあった沢田研二あたりが弔事を読む場面を見たかったショーケンファンも多かったのではなかろうか。
(文=編集部)