チュニジア、エジプト、リビアと革命が続く中東。今でも毎日のように、テロや紛争のニュース が絶えません。

なぜ中東では革命や政変がこんなに起こるのでしょうか。今回はユダヤ人はなぜ、イスラエル国家を建設したか。シオニズム思想が生まれてから建国までの歴史的経緯について紹介します。

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 今回は、ユダヤ人が国家を建設しようとする経緯の後半、シオニズムが生まれてから建国までの歴史的流れについて説明してみたいと思います。

 ユダヤ人の中でもシオニズムに対する見解はさまざまで、1)ヘルツルのようにユダヤ人の問題を政治的に国家建設によって解決しようとする政治的シオニズム、2)ビルー運動のロシア系ユダヤ人学生たちのように、パレスチナに実際に移住していく実践的シオニズム、3)ユダヤ国家の建設は社会主義を基礎とするべきとする社会主義的シオニズム、4)政治的に国家を建設するのではなく、ユダヤ文化の復興を重視する精神的シオニズム などがあったといわれています。もちろん、ユダヤ人の中には、シオニズムに反対する人々も存在していました。

 シオニズムに対して、ユダヤ人自身の中でもさまざまな立場や見解があることは事実ですが、その影響力が非常に強かったことは確かでしょう。政治的シオニスト(シオニズムを信奉する人)たちによる第1回シオニスト会議の開催から、現実にイスラエルという国家が建設されるまで51年しか経過していません。1800年間以上も離散していたユダヤの歴史を考えると、これは驚異的な速さといっても過言ではないでしょう。

シオニスト会議から国家建設までの50年とは?

 シオニスト会議の開催から実際に国家建設がなされていく約50年間は、世界的にみても2つの大戦が発生し、重要な事件が多発する複雑な時期です。少しでもわかりやすくするために、この時期をおおまかに3つの年代に分けて、1)第一次世界大戦からヒトラー政権成立まで(1914~33年)、2)ヒトラー政権成立からバルフォア宣言の撤回といわれるイギリスのマクドナルド白書発表まで(1933~39年)、3)イギリスからアメリカへと「主役」が交代する1939年から国家成立まで(1939~48年)を説明してみたいと思います。

1)第一次世界大戦からヒトラー政権成立まで(1914~33年)

 第1期である第一次世界大戦からヒトラーのナチス政権成立までは(1914~33年)、国家建設を模索するシオニストでさえ、それが実現するとはだれも予測しえない状況だったといえるでしょう。

ですが、本シリーズの第3回「中東問題とはなにですか?」でも説明しているように、この時期には国家建設の萌芽とも、もしくはその後のパレスチナ問題の萌芽ともいえる重要な宣言や条約が発表されています。

 イギリスは第一次世界大戦に必要な莫大な戦費をユダヤの富豪ロスチャイルド家から得るために、そして各国に離散しているユダヤ人からの支援を取りつけるために、パレスチナの地に「ユダヤ人の民族的郷土(National Home)」の建設を支持するとしたバルフォア宣言(1917年)を発表します。

 しかし、その前にイギリスは、植民地であるインドのイスラム教徒からの支援と、オスマン帝国内(敵対するドイツの同盟国)のアラブ人に反乱を起こさせ、敵方を内部崩壊させるために、アラブ人に対して戦争に協力するならば、戦後の独立を約束するとしたフセイン・マクマホン書簡を作成していました(1915年)。

 さらには、同盟国であるロシアとフランスには、大戦後に中東を三分割して統治することを秘密裏に約束していました(サイクス=ピコ協定:1916年)。つまり、イギリスは戦争協力を得るために、多方面に同じ地域に対する異なる約束をしていたのでした。イギリスはそれほどまでに追い込まれていたともいえるでしょう。

 結果的にイギリスは第一次世界大戦に勝利し、1922年にパレスチナ北部(シリア・レバノン地域)をフランスに、パレスチナの東部(ヨルダン川より東)を委任統治領としてアラブ人に、そして聖地エルサレムをふくむヨルダン川西岸を自らが委任統治するという決定を行ないます(当時のパレスチナは現在のイスラエルよりもかなり広範囲な地域を指し、シリア・ヨルダン・レバノンの一部を含んでいました)。

 イギリスは同盟国としてともに戦ったフランスに対してのみ、約束を完全に履行しました(ロシアは戦争中に革命が発生し政権が交代)。イギリスはユダヤ人に対して「民族的郷土」と国家(state)は別ものであると説明して、反発を買うこととなりました。同様に、アラブ側も完全独立ではなく委任統治の形態であったことから、不満はくすぶったままでした。

 では、当時の実際のパレスチナはどのような状況だったのでしょうか? パレスチナへのユダヤ人の移住は、東欧におけるポグロムにより、19世紀末から開始されていたものの、人数は限られていました。1914年のパレスチナでは、ユダヤ人約6万人、アラブ人約73万人で、アラブ人の割合が92%と圧倒的な多数を占めていました。

委任統治開始の1922年には、ユダヤ人約8.3万、アラブ人約66万(アラブ人の占める割合88%)で、イギリスはユダヤ人の移民数を、パレスチナの「経済的吸収能力」に応じて半年ごとに決定するとしていました。

 この時期のユダヤ人移民はポーランド系のユダヤ人が中心でしたが、1925年には年間3万人に急増したため、ユダヤ移民が大量に失業するという事態が発生しました。さらに、1926~27年はパレスチナ地域が不況にみまわれたために、パレスチナを離れるユダヤ人の数が流入する数を上回り、「民族的郷土」の確立は実現が不可能なのではないかと思われていました。

2)ヒトラー政権成立からバルフォア宣言の撤回といわれるイギリスのマクドナルド白書発表まで(1933~39年)

 このようなある意味、「停滞」した状況を激変させたのが、ナチス政権の成立(1933年)でした。ナチスのユダヤ人迫害が始まると、パレスチナに移住するユダヤ人が急増し、1933年から36年までの3年間の間だけでも、16万4000人が「合法的」に移住しました。この間、非合法の移民もかなりあったのではないかといわれています。

 この時期の移民はまさにドイツからの移民が圧倒的に多く、さらに資本家が約55%を占めていました。委任統治政府は1000パレスチナポンド以上を保有するユダヤ移民を「資本家」と位置づけ、資本家の流入は移民数制限枠とは別で、無制限に許可していました。

 その結果、この間に前年までの総額の約10倍の資本が流入し、建設部門や工業部門、そして資本が農地部門に投資されました。とくに農業分野ではオレンジなどの柑橘類の畑の開拓が進み、オレンジの輸出額は1931年からの6年間で6倍になるほどでした。つまり、この資本流入こそが、その後のイスラエル経済の基礎を築くこととなったのです。

 このような資本流入を可能にしたのが、ナチス・ドイツ政権とユダヤ機関との秘密協定である移送法(ハアヴァラ協定)でした。

第一次世界大戦に敗北し、また1929年の世界大恐慌、世界経済のブロック化などによって、ドイツ経済は完全な外貨不足に陥っていました。そのため、ドイツでは厳しい為替管理が行なわれ、ユダヤ人を含め国内資産の海外持ち出しは制限されていました。

 ところが、この状況を打破する画期的は方法が、ユダヤ人実業家によって編み出されたのです。さらにそれはユダヤ移民にとっても、ドイツ政府にとっても、さらに委任統治政府にとっても「良い」方法でした。

 具体的には、パレスチナに移民を希望するユダヤ人はその資産をドイツ帝国銀行を通じてハノタイヤ商会(ドイツの会社)に信託し、その資金で商会は柑橘栽培に必要な農機具などをドイツで購入し、パレスチナに輸出・売却した後に、その代金をパレスチナポンド建てで信託を与えたユダヤ移民に払い戻すという決済方法でした。ユダヤ人迫害のために欧米市場ではドイツ製品がボイコットされ、窮地に陥っていたドイツ政府にとっては願ってもない方法だったのです。

 この方法をもとに、ドイツ政府とユダヤ機関が交渉を行ない、秘密協定を締結した結果、ユダヤ人がパレスチナに移住する場合、「信託会社を通じて発行された外国為替手形で1000ポンドと2万マルク相当の所持品の持ち出しが可能である」と取り決められたのです。その結果、パレスチナで必要とされるドイツ製品は在ドイツ系ユダヤ人の資産が充てられたために、この時期の委任統治政府の最大の輸入相手国はイギリスではなく、ナチス・ドイツであるという奇妙な状況が発生しました。

 その一方で、ナチス・ドイツ政権の成立によって状況が一変したために、パレスチナのアラブ人たちの危機感は高まっていきました。事実、1931年に全人口に占めるアラブ人の割合は83%程度でしたが、1941年には70%にまで減少していたのです。

 パレスチナのアラブ人指導者は1936年に委任統治政府に対して、ユダヤ移民数の制限とユダヤ人に対して土地の売却を禁じるよう求めてゼネストを開始します。ゼネストは反乱へと発展したために、これに対してイギリスは調査団を派遣し解決を模索しました。

 調査団は、委任統治政府がすでに機能していないため、パレスチナを委任統治政府とアラブ人地区、ユダヤ人地区の三分割すべきであるという勧告をしました。しかし、この提案でユダヤ人地区とされた地域のアラブ人が武装蜂起し、反乱はさらに拡大しました。その結果、委任統治政府は軍を投入し、ユダヤ人の軍事組織であるハガナ軍と協力してこの反乱を徹底的に鎮圧しました。反乱は3年後の1939年にようやく終結しました。

 ところが、1939年の9月にはドイツがポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦がはじまります。イギリスはこの年、これまでの中東政策の舵を大きく切ることになります。イギリスはアラブの反乱などに軍を投入している余裕がなくなったのです。ましてや勧告どおり三分割を実行すれば、軍や人員を増員させ、さらに費用を投入しなければならないことは明らかでした。

 戦力や人員を減少させるためには、パレスチナだけでなく中東地域全体からの支援が必要となるにもかかわらず、イラクを筆頭に中東では親ドイツ派の気運が高まっていました。

 イギリスはユダヤ人がナチス・ドイツの枢軸国陣営を支援するわけはないと判断した結果、マクドナルド白書を発表します。白書の内容は、むこう5年間のユダヤ移民数を7万5000人にまでに制限し、パレスチナの土地をユダヤ人に売却することを禁じるというものでした。つまり、これはパレスチナに「民族郷土」の建設を支援したバルフォア宣言の事実上の撤回だったのです。


 
 これに対するユダヤ人の対応は、「白書は存在しないふりをして、イギリスに協力するしかない」というベングリオン(初代イスラエル首相)の言葉に表れています。けれども、シオニストたちはこのイギリスの方向転換を黙ってみていたわけではありませんでした。武装組織を有していたシオニストたちの一部は、イギリスに反英闘争をしかけたのです。一方、政治的な解決策を模索したシオニストたちは、1942年以降アメリカへの接近を試みます。

3)イギリスからアメリカへと「主役」が交代する1939年から国家成立まで(1939~48年)

 第二次世界大戦後(1945年)、アメリカのトルーマン大統領は、ホロコーストで生き残ったドイツ・オーストリアのユダヤ人、つまり「ユダヤ難民」10万人をパレスチナで受け入れるようイギリスに要請しました。

 アメリカがパレスチナ問題に関与したのは、この「ユダヤ難民」問題が初めてでした。パレスチナ問題の仲介者として、必ずアメリカが登場するのはこの時からです。これはアメリカのシオニストたちの活動の成果というべきでしょう。

 ところがイギリスはアメリカの要請を無視するかのごとく、マクドナルド白書にもとづき、1万5000名のみの受け入れを承認したのです。このイギリスの対応にハガナ軍を中心としたユダヤの軍事組織やシオニストたちは、公然とイギリスに反旗を翻し、反英闘争を激化させます。

 イギリスもかたくなに「難民」拒否の姿勢を貫いたために、シオニストの軍事組織が、委任統治政府が置かれていたエルサレムのキング・デーヴィット・ホテルを爆破し、死者80名、負傷者70名以上となる惨事が発生しました。

 結局、イギリスはこれ以上の混乱を招かないために、新たに設立されたばかりの国際連合(国連)にパレスチナの将来を託すことにしたのでした。

これはパレスチナ問題の事実上の「丸投げ」でしかありませんでした。

 当初、国連内部ではパレスチナとイスラエルとに国家を分割してエルサレムを国際管理するという分割案と、連邦国家を形成するという案が提案されましたが、結局、分割案が採用されることとなりました。この分割案は国連決議181号として知られています。国連決議となるには、総会で3分の2の賛成が必要となります。

 ところが、この分割案の採決には、シオニストのユダヤロビーとアメリカからのあからさまな裏工作があったことが明らかになっています。実際、この決議は総会の前の委員会で採決された際に反対・無効・欠席であった国のうち7カ国が、シオニストが行なった議事妨害により3日間延期されたのちに賛成に回っており、当時の関係者らも「援助の打ち切りをチラつかせて賛成に回るようにアメリカから圧力をかけられた」とコメントしています。

 このようにアメリカが「ユダヤ難民」支援やイスラエル建国に協力に関与した理由は、トルーマン政権にありました。トルーマンは第二次世界大戦終了直前に亡くなった、ルーズベルト大統領の副大統領でした。アメリカの大統領は世界中の人が名前を言えるほど著名ですが、副大統領となると「誰だっけ?」という人がほとんどになってしまうほど影が薄いのです。

 トルーマンも例外ではありませんでした。トルーマンはルーズベルトが亡くなったために、地滑り的に大統領に就任できたものの、大統領のままでいたければ、次の選挙に勝たなければならなかったのです。けれども、次期大統領選では、トルーマンは敗北するであろうというのが大方の見解でした。大統領選を制するには、強力な支持母体が必要でした。

 翌年に大統領選挙を控えたトルーマンにとって、アラブを支援しても票にならないけれども、ユダヤを支援すれば票につながることは火を見るより明らかでした。また、ユダヤロビーも、大統領が分割案に反対していると聞きつけるやいなや、わざわざ大統領の幼馴染のユダヤ人を探し出し、幼馴染から大統領に分割案に賛成するよう説得させたほどの力の入れようだったのです。
 
 つまり、ユダヤロビーと大統領が協力した結果、ユダヤ側の希望であった分割案は国連で可決され、大統領は翌年の選挙でユダヤ人票の約75%を獲得し、からくも再選されたのでした。このトルーマン政権以降、アメリカの大統領選において、ユダヤ人票が重視されるようになり、この傾向は今日に至るまで続いているといわれています。
 
 こうしてイスラエルの成立が決定し、独立宣言が発布されたのです。そして、その直後にアメリカが承認、3日後に当時のソ連が承認し、イスラエルは建国を果たしたのでした(その後の経緯については、第3回「中東問題とは何ですか?」もしくは第13回および第14回の「『パレスチナ問題』とは何ですか?」で説明しています)。その成立はまさに薄氷を踏むような過程でしたが、イスラエルは国連が初めて国家を作った事例であったといわれています。

【参考記事】
第3回「中東問題とは何ですか?」
第13回「『パレスチナ問題』とは何ですか?」<前編>
第14回「『パレスチナ問題』とは何ですか?」<後編>

(文:岩永尚子)

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