落語は死なない。
2001年秋、世紀末のよくわからない喧騒がようやく過ぎ去り、見えない荷物を下ろしたつもりになっていたときに、その報道を聴いた。

10月1日、3代目古今亭志ん朝死亡。享年63。
辛い報せであったことは間違いない。だって太陽のような人気者だったのだから。前にも書いたように、それはいわゆる何かの「終焉」を悼むような哀しみだった。何が終わるのかといえば、東京落語という1つの芸能ジャンルだ。

しかし、終わらなかったのである。
それどころか、お釣りをもらえるほどの勢いをつけて盛り返した。落語ファンを自認する人の半数は認めてくれると思う。立川談志が奮起したからだ。
「オレが金を払って聴きたい落語家は志ん朝だけ」
そういう言葉でライバルの技量を認めていた談志は、お通夜のような世間のムードに叛旗を翻した。何を言いやがる、と。
生前に立川流顧問の地位に就いていた色川武大は、若いころの談志を聴き、「談志は60代の高座をターゲットにしている」と評した。その指摘は当たり、60代に人生で何度目かの絶頂期を迎える。その60代も真っ盛り。元気なころだった。独走する談志はあらゆる意味で若手落語家に刺激を与えた。技芸の鍛錬だけではない。
セルフ・プロデュースの手法、深く穴を掘りながら同時に領土を広げるやり方、後進への背中の見せ方。そうした影響を有形無形で与え続けたのが2000年代の立川談志である。

2011年11月21日にその談志が没した。その衝撃がまだ癒えない時期に吉川潮のインタビュー集『待ってました! 花形落語家、たっぷり語る』は刊行された。新潮社「波」連載をまとめた本である。
吉川はかつての色川と同じ立川流顧問の地位にあるが、本書に登場する10人の落語家のうち一門は志の輔、談春、志らくの3人だけだ。
あとの7人のうち、関西から3名、桂三枝、笑福亭鶴瓶、桂あやめ、そして東京から三遊亭円丈、春風亭小朝、三遊亭歌之介、春風亭昇太。これで10人だ。
それぞれを選んだ理由はあとがきに記されているのであえて繰り返さない。落語協会の主流であるはずの柳家一門がまったく顔を出していないことが気になるが、この顔ぶれなら仕方ない(と思わせるための人選か)。柳家喬太郎が含まれていないのはなぜか、いや同門(5代目柳家小さん門下)から柳家権太楼を入れてもいいのではないか、などと異論を唱えるファンも中にはいるかもしれない。まあ、仕方ないじゃないか、そのへんは。


10人の中には、落語の未来に不安を抱き、自分なりの改革運動を行った人が3人含まれている。それは落語界に対する吉川なりの無言のメッセージだろう。
3人のうち、桂三枝は上方落語協会会長として大阪に東京と同じような常打ちの寄席を作るべく尽力し、2006年に天満天神繁昌亭を設立した。
2人目の春風亭小朝は2000年代になって落語界の衰亡論を積極的に唱えるようになり、大銀座落語祭などの開催によって世間に向けたアピールを続けてきた。ご存じのスキャンダルなどもあり、また業界内のやっかみもあったらしく、現在はいくぶん影が薄くなっているように感じられる(鶴瓶のインタビューの中で吉川が「小朝さんは、理念は正しいのに、根回しが苦手なんですよ」と言い、鶴瓶が「性格のリハビリだけしてやろうかなと思うてる(笑)。全然悪い人じゃないです。
考えてることもええんです」と返している)。芸人としてはまだまだ老けこむ歳ではないだけに、プロデューサー的な仕事に一区切りつけて、自分のことだけを考えてもいいはずだ。
もう1人三遊亭円丈は、現代に即した新作落語の創り手として、春風亭昇太をはじめとする若手に影響を与えまくってきた人物である。何しろ立川談志に対しても「あの人の残念なところは新作ではなく古典をやったこと」と発言して憚らなかった。この負けん気の強さがあるからこそ、1980年代から30年間の長きにわたって、新作落語の第一人者として活動してこられたのだろう。インタビューの中で、桂あやめがこう語っている。

あやめ [……]円丈師匠とは、新作のグランプリみたいな会があって、私が優勝して、円丈師匠手製の胃下垂ベルトで作ったチャンピオン・ベルトを貰ったんです。その日は円丈師匠の出来が悪くて、私ら何十年も下の後輩と真剣に戦うこと自体もすごいけれども、負けて悔しくて、打ち上げの席でずっと壁を叩いてブツブツ言うてた(笑)。この姿勢はロックンローラーや、と思いましたよ。円丈師匠、本当にすごいです。

その円丈が、師匠である三遊亭円生の名跡継承問題で2010年に時の人になったことをご存じの人も多いはずだ。
簡単に説明すると、円生の名前は直弟子である先代・三遊亭円楽らによって「止め名」とされ、円楽一門預かりのような形になっているのである。その先代・円楽の弟子である(つまり円生から見れば孫)三遊亭鳳楽が襲名に名乗りを上げたため、円丈が「直弟子の生き残りがいるのに、それはおかしい」と待ったをかけたわけだ。後から三遊亭円窓も争奪戦に参加表明したが、円窓はもともと別の師匠の下にいて、その死後に円生門下に入った預かり弟子。その人が襲名の正当性を主張するのは筋が通らない話でもある。そういうごちゃごちゃ、落語という旧い体質の世界につきものともいえるゴシップに関心を持つ人はこのくだりを興味深く読むことだろう。
もちろんそういう話ばかりではなく、談話のほとんどを占めるのは芸談だ。口承で伝えられてきた芸能である落語においては、自身の芸の相当の部分が「師匠」の薫陶によって作られる。円丈が「三遊亭円生」一門であるということについての誇りを語る箇所には思わず胸を打たれるし、春風亭昇太が師匠である春風亭柳昇のおもしろさを愛情こめて語る部分も良い。

昇太 僕が師匠でおなかが痛くなるくらい笑ったのは、師匠と食事してた時です。[……]そうしたら、師匠が突然僕に箸でつまんだナスを見せて、「昇太、ナスはおいしいね」(爆笑)。いちいち見せて言うことか! それだけ言うと師匠、ナス食べちゃった。はまっちゃって、おなか痛くなるくらい笑いました。「ナスはおいしいね」でこれだけ面白い人がいるのか(笑)。(後略)

芸談という意味では、テレビの人気者である笑福亭鶴瓶に「今日は落語の話に限らせていただきます」と他の話題を封じて落語家としての研鑽について語らせているのもインタビューアの手柄だろう。鶴瓶は自身の体験談を元にした「私落語」(命名は南原清隆)で新作落語に開眼したが、そのきっかけとなった「青木先生」をネタおろししたときのエピソードが可笑しい。話を思いついた鶴瓶は、名古屋から東京に帰るところだった昇太をつかまえ、新幹線の車内で彼を相手に1時間半、みっちりと新ネタを語るのである。

鶴瓶 それで一気にしゃべっていたら、僕らの前の席にいてたお客さんもこっそり聞いとって、後ろから見てても、肩震わせて笑ってるんですよ(笑)。そして、新作の神様みたいな昇太が聞き終わって、「それ、師匠、面白い!」と笑うてくれた。[……](そのネタをかけて)これがきっかけで、芯を食いはじめたんですよ。やり方が少しわかったというか、「青木先生」で芯を食い始めたことで、ほかの話しも芯食うようになってきた。

昇太という恰好のモニターをうまく利用した形だが、彼らと乗り合わせた周囲の乗客たちはびっくりしただろう。名古屋から東京まで眠っていこうとしていた人は、あとで寝不足で困ったのではないか。
こうした形で才能ある落語家たちはおもしろさに開眼し、さらに研鑽を重ねている。
だから、落語は死なない。
帯の文句にあるとおり「巨星立川談志が堕ち、遺産と松明はこの十人に引き継がれた」。そう大丈夫なのである。

そして、ここまで書かなかったが、実は本書にはもう1つのお楽しみがある。ここに登場した10人の落語家たちの多くは、それぞれの言葉で立川談志について語っているのだ。あえて立川流の3人について紹介しなかったのもそのためで、各自の談志話は読んだ人だけのお楽しみということにさせてください。
えーっ、出し惜しみするなよ、と言う人のために、鶴瓶の語りを少しだけ紹介する。
鶴瓶が病院に談志を見舞ったときの話である。

鶴瓶 「(談志が)夢かな……」と言って、またシーンとするんです。そしたらまた急に、「ちんぽを出すというのはな」(笑)。何だろうなと思ったら、「たけしに出せと言ったら、出す。おれも出す。三枝は出さない。お前は出せと言わなくても出す。それが偉い」。何で、そないな話を(笑)。

ね、気になるでしょ。
(杉江松恋)